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第5話 黄金の午後
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華やかな色の三つ揃いのスーツを身に着け、首にオメガを装うチョーカーをつけた新に、兄の律は目を見張った。
「どう、かな」
自信無げな新の両手を握って、「すっごく似合ってる」と興奮気味に語り、鏡の前に引っ張っていって一緒に映る。同じ服装の二人が並んで鏡に映ると、双子のように良く似ていた。律は十六歳だがオメガのため華奢で、十四歳でベータの新と体格が変わらない。
律は華やかな美貌で、硬質な凛々しさのある新とは別人だと見比べればすぐわかるが、二人を知らない人間にはどちらがどちらかわからないだろう。
不安そうに他の家族を見る新に、拓海が安心しろというように頷く。拓海は護衛につくときに着ているブラックスーツ姿だった。野性味のある顔立ちが強調されて、学校の制服姿よりずっと格好いい。
母親の柊は満足げに「良く似合ってるぞ」と笑い、モーニングコートを着た父親の忠彦は、感極まって「天使が二人いる」と呻いた。いつも大仰に息子たちへの愛を叫ぶ忠彦をみんなサラッと無視して、「ほんとに良く似合ってる」「大人っぽく見える」「新はこういう綺麗な色が似合うよ」と口々に末の息子を褒めた。
一歩下がって二人を見比べた拓海が、「これならパッと見、どちらがどちらかわからない。新様が注目を惹かずにすむと思います」と忠彦に告げた。忠彦と柊がちらっと目で会話する。律は心配そうに、新に「絶対に一人になっちゃいけないよ。父さんから離れないで。名前を聞かれても、中野家の息子ですとだけ言うんだ」と念押しした。兄の自分に対する子ども扱いに、新は軽く抗議した。
「大丈夫だよ。もう子どもじゃないんだから」
新の言葉に、家族全員が溜め息をつく。複数のアルファから襲われかけた新を助けた拓海は、「だからさらに心配なんだ」とこぼした。
園遊会は盛況だった。広く美しい庭園のところどころにテントが張られ、一流の料理人たちが用意した料理や、飲み物が振る舞われている。その庭園を新は焦りを隠して歩いた。
(父さんどこだろう。いや、まだ五分も経ってないのに、何を不安がっているんだ)
約束の時間になっても迎えに来ない父親を探して歩く。
「これはこれは、中野律くん」
兄の名で呼び止められては、立ち止まらないわけにはいかなかった。父親よりも年上のでっぷりと太った男に、上から下まで値踏みするような視線を向けられて、気分が悪くなる。新は当たり障りのない微笑を浮かべて、「中野の息子です」と挨拶した。
「律くんはオメガだったね。もうそろそろ発情期の時期だろう。番を選ぶなら、経験豊富な大人を選ぶといい」
好色な眼差しを向けられて、ゾワッと悪寒が走った。素早く相手の左手を確認すると、男は薬指に結婚指輪を嵌めていた。
「好き嫌いで番を選べる立場じゃないんだ、次期家長ともなると、お相手は、中野家を背負って立つアルファを選ぶべきだろう」
お前は既婚者で父より年上じゃないか。気持ち悪すぎて叫びそうになる。兄は、パーティーに出席するたび、こんな下卑たアルファたちに狙われているのか。
父と拓海が律から離れないのも当然だと思った。こんな嫌な思いをしながらも、中野家を背負えるアルファと出会うためにパーティーに行っている兄の強さを尊敬する。自分ならとても耐えられない。新の怯えが伝わったのか、相手が残忍な笑みをたたえて近づいてくる。
「これは豊橋会長ではありませんか。お久しぶりです、木南です」
後ろからかけられた声に新は振り向き、呼吸を忘れた。父や拓海と同じぐらい強いアルファ性を放つ、端正な面立ちの青年実業家が立っていた。まだ二十代半ばだろうか。この場に呼ばれるには若すぎるのに、豊橋会長と呼ばれた男を圧倒している。新はベータでフェロモンを感じないのに、どういうわけか彼から目が離せなかった。
「ああ。なんだ、君か」
太った男はじりっと後ろに下がった。木南という男が眼の笑ってない笑顔で一歩踏み込む。
「豊橋会長とここでお会いできるなんて光栄です。ところでいかがですか、ゴルフのほうは」
「ああ、まあそうだな」
木南という青年実業家がちらりとこちらを見る。逃げろという無言の命令に、新は即座に従った。
「失礼します」
ぎりぎり走ってないほどの速さで、生垣に隠れ、一般の客に気づかれないように進む。不意にすぐ近くから声が聞こえてきた。
「いや~、噂には聞いてたが、中野家の家長になるオメガは綺麗なんてもんじゃないな」
「そりゃそうだ、優秀なアルファを釣り上げるための餌だからな」
餌⁉ 兄に対する失礼すぎる言葉に、思わず生垣の後ろで立ち止まった。
「中野家の家長は、自分の体でアルファを釣って富を築く。オメガ風俗みたいなもんだ」
違う、そんなんじゃない。父も母も互いに深く愛し合っている。お前らなんか何も知らないくせに!
「そういや中野家にはもう一人いるんじゃなかったか」
「ああ、弟だろう。あっちは役立たずだよ。ベータだ」
来賓たちが笑いながら立ち去る。
役立たずのベータ。新は胸の奥から湧き上がる痛みを、なんとか受け流そうとした。みんなからそう思われているのは知っていた。自分でもそう思っていた。けれど、実際に言われてるのを聞くのは、衝撃が大きすぎた。よろよろと庭園の片すみにあるあずまやに転がり込む。
座り込んだまま呆然として動けなかった。見知らぬはるか年上の男に粘ついた視線を向けられたそのすぐあとに、顔も知らない人間から役立たずのベータと嘲笑されたせいで、気持ちを立て直せない。
「そうか。だからパーティーには連れて行ってもらえなかったのか」
笑おうとしても笑えない。両親と兄と拓海が、自分を外に出そうとしないのも当然だ。兄は強い。か弱そうに見える外見なのに、敢然と外の世界の悪意に立ち向かっている。それに引き換え、自分はなんて駄目なんだろう。我が家のお荷物にしかなれない。
「君、大丈夫か?」
心から案じる声に、新は顔を上げた。木南と名乗っていた青年実業家は、新を見て眉を寄せた。
「真っ青じゃないか。ちょっと待っていなさい」
そう言ってあずまやを出ていく。誰か呼びに行ったんだろうか。せっかく家族みんなが送り出してくれたのに、自分は中野家の一員として挨拶すらできなかったなと思う。疲れ切った新が目を閉じてうとうとし始めた頃、男は軽く息を弾ませて戻ってきた。
「待たせてすまなかった。ミネラルウォーターを買ってきたんだ。これなら異物の混入を心配しなくてすむだろう?」
「そんな……わざわざ?」
新は信じられない気持ちで小さめのペットボトルを受け取った。園遊会のテントにはペットボトルの水なんて置いてないはずだ。わざわざ園遊会を抜けて、屋敷の外に買いに行ってくれたのか。
「あんな男に声をかけられた後に、知らない男から飲み物を渡されるのは怖いかと思って。余計なお世話だったらすまない」
「いえ! あの……凄く、凄く嬉しいです」
一口飲んだ水は、冷え切っていて美味しくて、不意に泣きたくなった。いつも家族から守られてきた新には、知らない男たちから向けられた、剥き出しの情欲も嘲笑もつらすぎた。
「うん。どこの子かは知らないが、こういうところでは保護者からはぐれてはいけないよ」
ああ。この人、自分がこの家の息子だと知らないんだ。それなのにこんなに優しくしてくれたのか。見知らぬ青年の優しさと強さに、憧れよりもっと激しい感情が押し寄せて新を飲み込む。衝動的に新は口走った。
「あなたのようにアルファだったらよかった。そうしたらあんなこと言われなかったのに」
「俺はアルファより、ベータとして生まれたかった」
驚いて声も出せないでいると、少し間を空けて隣に座った相手は苦笑した。
「うちは、両親揃ってベータなんだ。共働きだけど貧しい団地暮らしだった。俺は家庭でも学校でも異端だった。どうしたら皆と仲良くなれるかわからなくて努力したが、すればするほど皆との違いが際立った。だから大学入学とともに家を出て、在学中に起業して……昔の話だ」
昔の話じゃない。新にはわかった。この人は若い。今もまだ苦しんでいる。
「大丈夫です。絶対、あなたにふさわしい相手が現れます。アルファで良かったって、そう思えるような人に出会える」
青年実業家はまじまじと新を見つめた。純粋な少年の眼差しに花開くように微笑する。
「うん。そうだな、そんな気がしてきた。……ありがとう、君のお陰だ」
「そんなこと! あ、父さん!」
新は立ち上がった。息子を血眼で探し回っていた中野忠彦は、大股にあずまやに入ってくると新を強く抱き締めた。
「良かった。無事で良かった!」
父の震えに、新も泣きそうになった。自分の家の庭でこんな恐ろしい目に合うとは思わなかった。色んな人に挨拶して、自分も家族の一員として認めてほしいだけだったのに。
ゆっくりと呼吸と心拍と感情の高ぶりが落ち着いていく。忠彦は気配を殺して立っている若い男に向き直った。
「失礼した、ええと」
「木南直樹です」
「ああ、あなたが。木南社長、初めまして、中野忠彦です。この子が迷惑をかけたのではないでしょうか」
相手をじわりと威圧する父親に、新は慌てて声をかけた。
「木南様には絡まれているところを助けていただいたんです。それに顔色の悪い俺を気遣って、わざわざ外までミネラルウォーターを買いに行ってくださいました。何か入れられていたら怖いだろうから、ペットボトルにしたよって」
忠彦は息子の持つペットボトルを見て、今度こそ若い男に深く頭を下げた。
「大変失礼した。息子を助けていただいた礼は必ずします」
「それなら、豊橋興産の敵対的買収を手伝っていただけませんか」
新は思わず声を上げた。
「豊橋って、さっき俺に『そろそろ発情期の時期だろう』って声をかけてきた人ですよね」
ぶわっ。
二人のアルファから激怒のフェロモンが立ち上った。ベータで、普段から忠彦と拓海のフェロモンに慣れてる新にはフェロモンの影響はなかったが、ぽかんとして二人を見比べた。父はわかるけど、どうして初対面のこの人までこんなに怒ってるんだろう。
「あの男。君にそんなことまで言っていたのか」
ぐっと握り込んだこぶしが白くなっている。忠彦は獰猛に笑った。
「礼は別のかたちでさせていただく。敵対的買収はこちらでやる」
「いや、巨大な中野グループが動けば相手はすぐに気づいて防衛するでしょう。ああ、その場合は俺がホワイトナイトを演じてもいいのか」
忠彦は直樹の言葉に、声を上げて笑った。
「わかった。木南社長、あなたとは後でゆっくり話そう」
自分を連れて早々にその場を離れようとする父に、新は必死にしがみついた。
「待って父さん。木南様にはご挨拶もまだで、俺がこの家のものだとご存知なかったのに助けてくださったんです」
せめて挨拶だけでもしたい。新の切なる願いに気づいて、忠彦は逡巡した。
「そうだったのか。これはうちの息子です。こちらは木南直樹社長だ。まだお若いが大学在学中に会社を起ち上げられて……」
名前の紹介以降、父の説明は新の耳に入らなかった。どきどきしながら右手を差し出す。
「助けてくださって、本当にありがとうございました」
彼は初対面らしい他人行儀な笑みを浮かべると、新の小さな手を軽く握った。大きな手だと思った。ずっとこうしていたい、このまま時間が止まればいいという新の願いは叶えられなかった。すぐに握手が終わる。
絶望にも似た喪失感で、新はふらつきそうになった。
「それではこれで失礼する。木南社長はゆっくり楽しんでいってください」
中野忠彦と木南直樹、年齢こそ違えど同じように有能なアルファが、互いに儀礼用の笑みを浮かべて会釈する。
父に連れられてあずまやを離れながら、新は我慢できずに振り返った。あずまやの入口に立つ人が、じっとこちらを見ている。けれどもう遠くて表情までは見えない。
あそこに戻りたくて仕方がなかった。
「どうした、新」
父が歩きながら静かに問いかける。おそらくもう父は気がついている。新は父の隣をとぼとぼと歩きながら、覚悟を決めて質問した。
「父さん。ベータ男性がアルファ男性を好きになったとして、その恋が叶うことはあるでしょうか」
「無理だ、子がなせない」
全く迷いのない答えだった。その答えを予期していながら、新は衝撃を受けた。けれども新よりもっと、忠彦は激痛に耐える顔をしていた。
「新、お前は私と柊の宝物だ。お前が望むならなんでも手に入れてやる。だがあの男は、木南直樹は駄目だ。普通のアルファなら、金を積めば手に入る。だがあの男は、金では手に入らない」
新は何も言わなかった。親子は無言で自宅の広大な庭の生垣の影を歩いた。遠くから来賓たちの歓談の声が聞こえてくる。忠彦は足を止め、絞り出すように教えた。
「だが、お前がどうしても、どうしても、諦めることができないなら。お前は恋人を作ってはいけない。優れたアルファであればあるほど、独占欲が強いものだから」
「父さん」
「お前を連れてくるんじゃなかった」
父親の悲嘆に、新はたまらなくなった。
「ううん。連れてきてくれてありがとう。いっぱい探し回ってくれてありがとう。俺、父さんのこと大好きだよ」
幼い子どもの頃のように、たくましい父親に抱きつく。誰も見てはいない庭の片隅で、『経済界の怪物』と恐れられる男は、自分の命より大切な息子を抱き締めた。
「覚えておきなさい。お前のためなら私たちはなんだってできる。性別などどうでもいい。お前がベータでもオメガでもアルファでも、私たちはお前を愛してるんだ」
知っている。自分がどれほど家族に愛されているか。自分も同じぐらい家族のことを愛してる。
「さ。行こうか」
愛情深い父親に護られて、新は来賓に挨拶するために園遊会の会場に向かった。彼はその手に、直樹からもらった小さなペットボトルを隠し持ち、離そうとしなかった。
「どう、かな」
自信無げな新の両手を握って、「すっごく似合ってる」と興奮気味に語り、鏡の前に引っ張っていって一緒に映る。同じ服装の二人が並んで鏡に映ると、双子のように良く似ていた。律は十六歳だがオメガのため華奢で、十四歳でベータの新と体格が変わらない。
律は華やかな美貌で、硬質な凛々しさのある新とは別人だと見比べればすぐわかるが、二人を知らない人間にはどちらがどちらかわからないだろう。
不安そうに他の家族を見る新に、拓海が安心しろというように頷く。拓海は護衛につくときに着ているブラックスーツ姿だった。野性味のある顔立ちが強調されて、学校の制服姿よりずっと格好いい。
母親の柊は満足げに「良く似合ってるぞ」と笑い、モーニングコートを着た父親の忠彦は、感極まって「天使が二人いる」と呻いた。いつも大仰に息子たちへの愛を叫ぶ忠彦をみんなサラッと無視して、「ほんとに良く似合ってる」「大人っぽく見える」「新はこういう綺麗な色が似合うよ」と口々に末の息子を褒めた。
一歩下がって二人を見比べた拓海が、「これならパッと見、どちらがどちらかわからない。新様が注目を惹かずにすむと思います」と忠彦に告げた。忠彦と柊がちらっと目で会話する。律は心配そうに、新に「絶対に一人になっちゃいけないよ。父さんから離れないで。名前を聞かれても、中野家の息子ですとだけ言うんだ」と念押しした。兄の自分に対する子ども扱いに、新は軽く抗議した。
「大丈夫だよ。もう子どもじゃないんだから」
新の言葉に、家族全員が溜め息をつく。複数のアルファから襲われかけた新を助けた拓海は、「だからさらに心配なんだ」とこぼした。
園遊会は盛況だった。広く美しい庭園のところどころにテントが張られ、一流の料理人たちが用意した料理や、飲み物が振る舞われている。その庭園を新は焦りを隠して歩いた。
(父さんどこだろう。いや、まだ五分も経ってないのに、何を不安がっているんだ)
約束の時間になっても迎えに来ない父親を探して歩く。
「これはこれは、中野律くん」
兄の名で呼び止められては、立ち止まらないわけにはいかなかった。父親よりも年上のでっぷりと太った男に、上から下まで値踏みするような視線を向けられて、気分が悪くなる。新は当たり障りのない微笑を浮かべて、「中野の息子です」と挨拶した。
「律くんはオメガだったね。もうそろそろ発情期の時期だろう。番を選ぶなら、経験豊富な大人を選ぶといい」
好色な眼差しを向けられて、ゾワッと悪寒が走った。素早く相手の左手を確認すると、男は薬指に結婚指輪を嵌めていた。
「好き嫌いで番を選べる立場じゃないんだ、次期家長ともなると、お相手は、中野家を背負って立つアルファを選ぶべきだろう」
お前は既婚者で父より年上じゃないか。気持ち悪すぎて叫びそうになる。兄は、パーティーに出席するたび、こんな下卑たアルファたちに狙われているのか。
父と拓海が律から離れないのも当然だと思った。こんな嫌な思いをしながらも、中野家を背負えるアルファと出会うためにパーティーに行っている兄の強さを尊敬する。自分ならとても耐えられない。新の怯えが伝わったのか、相手が残忍な笑みをたたえて近づいてくる。
「これは豊橋会長ではありませんか。お久しぶりです、木南です」
後ろからかけられた声に新は振り向き、呼吸を忘れた。父や拓海と同じぐらい強いアルファ性を放つ、端正な面立ちの青年実業家が立っていた。まだ二十代半ばだろうか。この場に呼ばれるには若すぎるのに、豊橋会長と呼ばれた男を圧倒している。新はベータでフェロモンを感じないのに、どういうわけか彼から目が離せなかった。
「ああ。なんだ、君か」
太った男はじりっと後ろに下がった。木南という男が眼の笑ってない笑顔で一歩踏み込む。
「豊橋会長とここでお会いできるなんて光栄です。ところでいかがですか、ゴルフのほうは」
「ああ、まあそうだな」
木南という青年実業家がちらりとこちらを見る。逃げろという無言の命令に、新は即座に従った。
「失礼します」
ぎりぎり走ってないほどの速さで、生垣に隠れ、一般の客に気づかれないように進む。不意にすぐ近くから声が聞こえてきた。
「いや~、噂には聞いてたが、中野家の家長になるオメガは綺麗なんてもんじゃないな」
「そりゃそうだ、優秀なアルファを釣り上げるための餌だからな」
餌⁉ 兄に対する失礼すぎる言葉に、思わず生垣の後ろで立ち止まった。
「中野家の家長は、自分の体でアルファを釣って富を築く。オメガ風俗みたいなもんだ」
違う、そんなんじゃない。父も母も互いに深く愛し合っている。お前らなんか何も知らないくせに!
「そういや中野家にはもう一人いるんじゃなかったか」
「ああ、弟だろう。あっちは役立たずだよ。ベータだ」
来賓たちが笑いながら立ち去る。
役立たずのベータ。新は胸の奥から湧き上がる痛みを、なんとか受け流そうとした。みんなからそう思われているのは知っていた。自分でもそう思っていた。けれど、実際に言われてるのを聞くのは、衝撃が大きすぎた。よろよろと庭園の片すみにあるあずまやに転がり込む。
座り込んだまま呆然として動けなかった。見知らぬはるか年上の男に粘ついた視線を向けられたそのすぐあとに、顔も知らない人間から役立たずのベータと嘲笑されたせいで、気持ちを立て直せない。
「そうか。だからパーティーには連れて行ってもらえなかったのか」
笑おうとしても笑えない。両親と兄と拓海が、自分を外に出そうとしないのも当然だ。兄は強い。か弱そうに見える外見なのに、敢然と外の世界の悪意に立ち向かっている。それに引き換え、自分はなんて駄目なんだろう。我が家のお荷物にしかなれない。
「君、大丈夫か?」
心から案じる声に、新は顔を上げた。木南と名乗っていた青年実業家は、新を見て眉を寄せた。
「真っ青じゃないか。ちょっと待っていなさい」
そう言ってあずまやを出ていく。誰か呼びに行ったんだろうか。せっかく家族みんなが送り出してくれたのに、自分は中野家の一員として挨拶すらできなかったなと思う。疲れ切った新が目を閉じてうとうとし始めた頃、男は軽く息を弾ませて戻ってきた。
「待たせてすまなかった。ミネラルウォーターを買ってきたんだ。これなら異物の混入を心配しなくてすむだろう?」
「そんな……わざわざ?」
新は信じられない気持ちで小さめのペットボトルを受け取った。園遊会のテントにはペットボトルの水なんて置いてないはずだ。わざわざ園遊会を抜けて、屋敷の外に買いに行ってくれたのか。
「あんな男に声をかけられた後に、知らない男から飲み物を渡されるのは怖いかと思って。余計なお世話だったらすまない」
「いえ! あの……凄く、凄く嬉しいです」
一口飲んだ水は、冷え切っていて美味しくて、不意に泣きたくなった。いつも家族から守られてきた新には、知らない男たちから向けられた、剥き出しの情欲も嘲笑もつらすぎた。
「うん。どこの子かは知らないが、こういうところでは保護者からはぐれてはいけないよ」
ああ。この人、自分がこの家の息子だと知らないんだ。それなのにこんなに優しくしてくれたのか。見知らぬ青年の優しさと強さに、憧れよりもっと激しい感情が押し寄せて新を飲み込む。衝動的に新は口走った。
「あなたのようにアルファだったらよかった。そうしたらあんなこと言われなかったのに」
「俺はアルファより、ベータとして生まれたかった」
驚いて声も出せないでいると、少し間を空けて隣に座った相手は苦笑した。
「うちは、両親揃ってベータなんだ。共働きだけど貧しい団地暮らしだった。俺は家庭でも学校でも異端だった。どうしたら皆と仲良くなれるかわからなくて努力したが、すればするほど皆との違いが際立った。だから大学入学とともに家を出て、在学中に起業して……昔の話だ」
昔の話じゃない。新にはわかった。この人は若い。今もまだ苦しんでいる。
「大丈夫です。絶対、あなたにふさわしい相手が現れます。アルファで良かったって、そう思えるような人に出会える」
青年実業家はまじまじと新を見つめた。純粋な少年の眼差しに花開くように微笑する。
「うん。そうだな、そんな気がしてきた。……ありがとう、君のお陰だ」
「そんなこと! あ、父さん!」
新は立ち上がった。息子を血眼で探し回っていた中野忠彦は、大股にあずまやに入ってくると新を強く抱き締めた。
「良かった。無事で良かった!」
父の震えに、新も泣きそうになった。自分の家の庭でこんな恐ろしい目に合うとは思わなかった。色んな人に挨拶して、自分も家族の一員として認めてほしいだけだったのに。
ゆっくりと呼吸と心拍と感情の高ぶりが落ち着いていく。忠彦は気配を殺して立っている若い男に向き直った。
「失礼した、ええと」
「木南直樹です」
「ああ、あなたが。木南社長、初めまして、中野忠彦です。この子が迷惑をかけたのではないでしょうか」
相手をじわりと威圧する父親に、新は慌てて声をかけた。
「木南様には絡まれているところを助けていただいたんです。それに顔色の悪い俺を気遣って、わざわざ外までミネラルウォーターを買いに行ってくださいました。何か入れられていたら怖いだろうから、ペットボトルにしたよって」
忠彦は息子の持つペットボトルを見て、今度こそ若い男に深く頭を下げた。
「大変失礼した。息子を助けていただいた礼は必ずします」
「それなら、豊橋興産の敵対的買収を手伝っていただけませんか」
新は思わず声を上げた。
「豊橋って、さっき俺に『そろそろ発情期の時期だろう』って声をかけてきた人ですよね」
ぶわっ。
二人のアルファから激怒のフェロモンが立ち上った。ベータで、普段から忠彦と拓海のフェロモンに慣れてる新にはフェロモンの影響はなかったが、ぽかんとして二人を見比べた。父はわかるけど、どうして初対面のこの人までこんなに怒ってるんだろう。
「あの男。君にそんなことまで言っていたのか」
ぐっと握り込んだこぶしが白くなっている。忠彦は獰猛に笑った。
「礼は別のかたちでさせていただく。敵対的買収はこちらでやる」
「いや、巨大な中野グループが動けば相手はすぐに気づいて防衛するでしょう。ああ、その場合は俺がホワイトナイトを演じてもいいのか」
忠彦は直樹の言葉に、声を上げて笑った。
「わかった。木南社長、あなたとは後でゆっくり話そう」
自分を連れて早々にその場を離れようとする父に、新は必死にしがみついた。
「待って父さん。木南様にはご挨拶もまだで、俺がこの家のものだとご存知なかったのに助けてくださったんです」
せめて挨拶だけでもしたい。新の切なる願いに気づいて、忠彦は逡巡した。
「そうだったのか。これはうちの息子です。こちらは木南直樹社長だ。まだお若いが大学在学中に会社を起ち上げられて……」
名前の紹介以降、父の説明は新の耳に入らなかった。どきどきしながら右手を差し出す。
「助けてくださって、本当にありがとうございました」
彼は初対面らしい他人行儀な笑みを浮かべると、新の小さな手を軽く握った。大きな手だと思った。ずっとこうしていたい、このまま時間が止まればいいという新の願いは叶えられなかった。すぐに握手が終わる。
絶望にも似た喪失感で、新はふらつきそうになった。
「それではこれで失礼する。木南社長はゆっくり楽しんでいってください」
中野忠彦と木南直樹、年齢こそ違えど同じように有能なアルファが、互いに儀礼用の笑みを浮かべて会釈する。
父に連れられてあずまやを離れながら、新は我慢できずに振り返った。あずまやの入口に立つ人が、じっとこちらを見ている。けれどもう遠くて表情までは見えない。
あそこに戻りたくて仕方がなかった。
「どうした、新」
父が歩きながら静かに問いかける。おそらくもう父は気がついている。新は父の隣をとぼとぼと歩きながら、覚悟を決めて質問した。
「父さん。ベータ男性がアルファ男性を好きになったとして、その恋が叶うことはあるでしょうか」
「無理だ、子がなせない」
全く迷いのない答えだった。その答えを予期していながら、新は衝撃を受けた。けれども新よりもっと、忠彦は激痛に耐える顔をしていた。
「新、お前は私と柊の宝物だ。お前が望むならなんでも手に入れてやる。だがあの男は、木南直樹は駄目だ。普通のアルファなら、金を積めば手に入る。だがあの男は、金では手に入らない」
新は何も言わなかった。親子は無言で自宅の広大な庭の生垣の影を歩いた。遠くから来賓たちの歓談の声が聞こえてくる。忠彦は足を止め、絞り出すように教えた。
「だが、お前がどうしても、どうしても、諦めることができないなら。お前は恋人を作ってはいけない。優れたアルファであればあるほど、独占欲が強いものだから」
「父さん」
「お前を連れてくるんじゃなかった」
父親の悲嘆に、新はたまらなくなった。
「ううん。連れてきてくれてありがとう。いっぱい探し回ってくれてありがとう。俺、父さんのこと大好きだよ」
幼い子どもの頃のように、たくましい父親に抱きつく。誰も見てはいない庭の片隅で、『経済界の怪物』と恐れられる男は、自分の命より大切な息子を抱き締めた。
「覚えておきなさい。お前のためなら私たちはなんだってできる。性別などどうでもいい。お前がベータでもオメガでもアルファでも、私たちはお前を愛してるんだ」
知っている。自分がどれほど家族に愛されているか。自分も同じぐらい家族のことを愛してる。
「さ。行こうか」
愛情深い父親に護られて、新は来賓に挨拶するために園遊会の会場に向かった。彼はその手に、直樹からもらった小さなペットボトルを隠し持ち、離そうとしなかった。
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ハピエン確定です。(全10話)
2025年 07月12日 ~2025年 07月21日 なろうさんで完結してます。
運命の番は僕に振り向かない
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BL
大好きだったアルファの恋人が旅先で運命の番と出会ってしまい、泣く泣く別れた経験があるオメガの千遥。
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ふんわり現代、ふんわりオメガバース、設定がふんわりしてます。
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