51 / 83
南東の島国4
しおりを挟む
「あれ?男の子か。細いから一瞬女の子かと思っちゃったよ。怪我はない?」
深い海色の瞳だ。濃い茶色の髪は前に見た時より少し伸びている。
「スペンサーさん…」
「あれ?僕、君と会ったことあったっけ?最近忘れっぽくて嫌になるね。怪我はないかい?」
スペンサーさんは子供にするように俺の背中を軽く叩いた後、体を離して後頭部をさわさわと撫でてくれた。
「ハバトに触れるな!」
全てを憎んでいるかのような怒声が周囲に響いた。俺は案の定、その場で飛び上がってもおかしくないほどに驚いて、大きく肩を跳ねさせた。
「大きな声を出すな、バルダッローダ。子供も怯えてるだろう」
「スペンサー、お前に言っている。手を離せ。今すぐだ」
店内から店外へ、ゆっくりこちらに歩いてくるセブさんは、視線だけで人を殺せそうだ。ただ、それを一番に向けられているスペンサーさんはけろりとしたもので、おどけたように両手を自身の肩の上まで上げた。
腕の中から開放された俺は、セブさんとスペンサーさんに交互に目を配りながら、それぞれと距離を取る。人通りのある道だが、目立つ容姿の二人が言い争っている為、店前だけ人の足が遠巻きになっている。
「あー、はいはい。この子がハバトちゃんだったか。こうも見た目が変わるとさっぱりわからないものだな。女の子の時と違って幼く見えるけど大丈夫か?本当は未成年だとか言わないよな?」
「次の夏で19だ。子供ではない」
「そうかい。だからって無体を働くなよ。腰なんて下手したら女より細いぞ。お前みたいに馬鹿デカい男に本気を出されたら命に関わるだろう」
ハハハ、と磊落に笑うスペンサーさんを、セブさんが強く睨みつけると不自然に笑い声が止まった。スペンサーさんが、手振りだけでセブさんに文句を言っている。どうやら、セブさんが何かの魔法でスペンサーさんの口を塞いだらしい。
そんなスペンサーさんを放置して、セブさんは俺の方へ真っ直ぐ向かってこようとしたが、その暗藍色のマントをスペンサーさんが不満げに掴んだ。たぶん、魔法を解いてから行け、と言いたいのだろう。そりゃそうだ。
俺は険悪な様子で睨み合う二人に背を向けると、すぐさま人混みに紛れて走り出した。背後から俺の名を呼ぶ、地を揺るがすような怒声が聞こえた。肝が冷えて、まだ走り出したばかりなのに疲れ切った後のように体から力が抜けてしまいそうになる。俺はまだ湿り気の残る目元を手の甲で擦りながら、ただただ足を動かし続けた。
ひと月足らず住んでいる街だが、知っている場所はさほど多くない。大通りの人を掻き分け、道が途切れないことを祈りながら見知らぬ小路を抜け、がむしゃらに走るうちに民家のまばらな道の先、海沿いの小山が見えてきた。その頃には、息が上がって足も重く、まさに這々の体だった。貧弱な体が恨めしい。
幸いなことに、周囲にセブさんたちの気配どころか、人影ひとつ見当たらない。なんとか撒けたようだ。
ふらつきながら空を見上げる。初夏の空は高く、青が濃い。海の碧と木々の蒼が美しい。俺は特に考えがあるわけでもなく、時折転げそうになりつつ小山に続く細い道をよろよろと進んだ。
小山に一歩踏み込むと、下草が長く歩きづらいが、よく茂った木々が日を遮ってくれるためかとても涼やかだった。少し進むと小高い岩壁近くに、苔むしてはいるが座るにちょうどいい岩がいくつか転がっていた。自分の汗や草木の汁で全身湿っている俺は、特に汚れを気にする必要もないのでそこに躊躇いなく腰掛けた。足を休めたらなし崩し的に全身の力が抜けてしまって、しばらく立ち上がれる気がしない。俺はただの深呼吸というにはあまりに重過ぎる息を吐いた。
これからどうしよう。脱力した体を背後の岩肌に預けた。仰ぎ見た先には、木漏れ日がキラキラと揺れている。
今も最も気になるのは、彼は俺を捕らえた後どうするつもりなのかということだ。彼は苦労をして俺をここまで追い掛けてきていて、どう考えても俺を罵るだけでは割に合わないだろう。
スペンサーさんまで伴っているから、罪に問うために魔獣のジョスリーンで早急にバルデスに連れ戻すつもりなのだろうか。金銭が絡まないと詐欺罪にはならないと聞いたことがあるが、もしかしたら金銭要求などしなくても、平民が貴族を騙した時点で厳罰に処されるのかもしれない。
本当に、俺は最初の最初から間違えていたとつくづく思い知らされる。思い返せば、俺は彼に出会った最初の日から彼に心惹かれていた。一目惚れも同然だ。例えあの日からやり直したとしても、俺はいつかはきっとセブさんに恋をするし、きっと結局は同じことを繰り返してしまうだろう。
葉擦れの音を聞きながら、ぼんやりと木々の枝葉振りを数えていたら、不意に左足の脛辺りが妙に熱を持っていることに気付いた。視線を下向かせた俺は、左脛に張り付いた異様に大きなヤマビルに驚いて、「ひい!」と間抜けな声を出して岩から転げ落ちた。
低木で切ったかのか、着古したズボンの膝下が裂けていて、そこに人の腕ほどのあり得ない太さのヤマビルがしっとりと噛み付いていた。あまりのおぞましさに生きた心地がしなくて、俺は息を止めて右足の靴底で何度もこそぐようにヤマビルを蹴って地面に落とした。
しばらくうねうねと伸縮していたが、まるで俺のことが見えているように口のある先端をこちらにもたげたので、俺はまた「ひん!」と情けない声を出してしまった。
さすがにこんな非常識な大きさの虫がいるわけがない。当然、魔獣の類なのだろうとすぐ理解する。見た目こそ酷いが、どうやらのそのそ近付いて静かに血を吸うだけの比較的無害な区分のようだ。
どれくらい血を飲んだんだろう。魔獣にとって、魔力は根源的に求めるものだ。その魔力を含んだ血を、もし多分に飲んでいたら、産卵なり分裂なりしたとしてもおかしくはない。どちらもあまり喜べるものではないが、その間なら逃げやすいだろうか。
この場から離れようと立ち上がった時、俺はヤマビルの魔獣のささやかな異変に気付いてしまった。
深い海色の瞳だ。濃い茶色の髪は前に見た時より少し伸びている。
「スペンサーさん…」
「あれ?僕、君と会ったことあったっけ?最近忘れっぽくて嫌になるね。怪我はないかい?」
スペンサーさんは子供にするように俺の背中を軽く叩いた後、体を離して後頭部をさわさわと撫でてくれた。
「ハバトに触れるな!」
全てを憎んでいるかのような怒声が周囲に響いた。俺は案の定、その場で飛び上がってもおかしくないほどに驚いて、大きく肩を跳ねさせた。
「大きな声を出すな、バルダッローダ。子供も怯えてるだろう」
「スペンサー、お前に言っている。手を離せ。今すぐだ」
店内から店外へ、ゆっくりこちらに歩いてくるセブさんは、視線だけで人を殺せそうだ。ただ、それを一番に向けられているスペンサーさんはけろりとしたもので、おどけたように両手を自身の肩の上まで上げた。
腕の中から開放された俺は、セブさんとスペンサーさんに交互に目を配りながら、それぞれと距離を取る。人通りのある道だが、目立つ容姿の二人が言い争っている為、店前だけ人の足が遠巻きになっている。
「あー、はいはい。この子がハバトちゃんだったか。こうも見た目が変わるとさっぱりわからないものだな。女の子の時と違って幼く見えるけど大丈夫か?本当は未成年だとか言わないよな?」
「次の夏で19だ。子供ではない」
「そうかい。だからって無体を働くなよ。腰なんて下手したら女より細いぞ。お前みたいに馬鹿デカい男に本気を出されたら命に関わるだろう」
ハハハ、と磊落に笑うスペンサーさんを、セブさんが強く睨みつけると不自然に笑い声が止まった。スペンサーさんが、手振りだけでセブさんに文句を言っている。どうやら、セブさんが何かの魔法でスペンサーさんの口を塞いだらしい。
そんなスペンサーさんを放置して、セブさんは俺の方へ真っ直ぐ向かってこようとしたが、その暗藍色のマントをスペンサーさんが不満げに掴んだ。たぶん、魔法を解いてから行け、と言いたいのだろう。そりゃそうだ。
俺は険悪な様子で睨み合う二人に背を向けると、すぐさま人混みに紛れて走り出した。背後から俺の名を呼ぶ、地を揺るがすような怒声が聞こえた。肝が冷えて、まだ走り出したばかりなのに疲れ切った後のように体から力が抜けてしまいそうになる。俺はまだ湿り気の残る目元を手の甲で擦りながら、ただただ足を動かし続けた。
ひと月足らず住んでいる街だが、知っている場所はさほど多くない。大通りの人を掻き分け、道が途切れないことを祈りながら見知らぬ小路を抜け、がむしゃらに走るうちに民家のまばらな道の先、海沿いの小山が見えてきた。その頃には、息が上がって足も重く、まさに這々の体だった。貧弱な体が恨めしい。
幸いなことに、周囲にセブさんたちの気配どころか、人影ひとつ見当たらない。なんとか撒けたようだ。
ふらつきながら空を見上げる。初夏の空は高く、青が濃い。海の碧と木々の蒼が美しい。俺は特に考えがあるわけでもなく、時折転げそうになりつつ小山に続く細い道をよろよろと進んだ。
小山に一歩踏み込むと、下草が長く歩きづらいが、よく茂った木々が日を遮ってくれるためかとても涼やかだった。少し進むと小高い岩壁近くに、苔むしてはいるが座るにちょうどいい岩がいくつか転がっていた。自分の汗や草木の汁で全身湿っている俺は、特に汚れを気にする必要もないのでそこに躊躇いなく腰掛けた。足を休めたらなし崩し的に全身の力が抜けてしまって、しばらく立ち上がれる気がしない。俺はただの深呼吸というにはあまりに重過ぎる息を吐いた。
これからどうしよう。脱力した体を背後の岩肌に預けた。仰ぎ見た先には、木漏れ日がキラキラと揺れている。
今も最も気になるのは、彼は俺を捕らえた後どうするつもりなのかということだ。彼は苦労をして俺をここまで追い掛けてきていて、どう考えても俺を罵るだけでは割に合わないだろう。
スペンサーさんまで伴っているから、罪に問うために魔獣のジョスリーンで早急にバルデスに連れ戻すつもりなのだろうか。金銭が絡まないと詐欺罪にはならないと聞いたことがあるが、もしかしたら金銭要求などしなくても、平民が貴族を騙した時点で厳罰に処されるのかもしれない。
本当に、俺は最初の最初から間違えていたとつくづく思い知らされる。思い返せば、俺は彼に出会った最初の日から彼に心惹かれていた。一目惚れも同然だ。例えあの日からやり直したとしても、俺はいつかはきっとセブさんに恋をするし、きっと結局は同じことを繰り返してしまうだろう。
葉擦れの音を聞きながら、ぼんやりと木々の枝葉振りを数えていたら、不意に左足の脛辺りが妙に熱を持っていることに気付いた。視線を下向かせた俺は、左脛に張り付いた異様に大きなヤマビルに驚いて、「ひい!」と間抜けな声を出して岩から転げ落ちた。
低木で切ったかのか、着古したズボンの膝下が裂けていて、そこに人の腕ほどのあり得ない太さのヤマビルがしっとりと噛み付いていた。あまりのおぞましさに生きた心地がしなくて、俺は息を止めて右足の靴底で何度もこそぐようにヤマビルを蹴って地面に落とした。
しばらくうねうねと伸縮していたが、まるで俺のことが見えているように口のある先端をこちらにもたげたので、俺はまた「ひん!」と情けない声を出してしまった。
さすがにこんな非常識な大きさの虫がいるわけがない。当然、魔獣の類なのだろうとすぐ理解する。見た目こそ酷いが、どうやらのそのそ近付いて静かに血を吸うだけの比較的無害な区分のようだ。
どれくらい血を飲んだんだろう。魔獣にとって、魔力は根源的に求めるものだ。その魔力を含んだ血を、もし多分に飲んでいたら、産卵なり分裂なりしたとしてもおかしくはない。どちらもあまり喜べるものではないが、その間なら逃げやすいだろうか。
この場から離れようと立ち上がった時、俺はヤマビルの魔獣のささやかな異変に気付いてしまった。
220
あなたにおすすめの小説
美貌の騎士候補生は、愛する人を快楽漬けにして飼い慣らす〜僕から逃げないで愛させて〜
飛鷹
BL
騎士養成学校に在席しているパスティには秘密がある。
でも、それを誰かに言うつもりはなく、目的を達成したら静かに自国に戻るつもりだった。
しかし美貌の騎士候補生に捕まり、快楽漬けにされ、甘く喘がされてしまう。
秘密を抱えたまま、パスティは幸せになれるのか。
美貌の騎士候補生のカーディアスは何を考えてパスティに付きまとうのか……。
秘密を抱えた二人が幸せになるまでのお話。
お荷物な俺、独り立ちしようとしたら押し倒されていた
やまくる実
BL
異世界ファンタジー、ゲーム内の様な世界観。
俺は幼なじみのロイの事が好きだった。だけど俺は能力が低く、アイツのお荷物にしかなっていない。
独り立ちしようとして執着激しい攻めにガッツリ押し倒されてしまう話。
好きな相手に冷たくしてしまう拗らせ執着攻め✖️自己肯定感の低い鈍感受け
ムーンライトノベルズにも掲載しています。
親友が虎視眈々と僕を囲い込む準備をしていた
こたま
BL
西井朔空(さく)は24歳。IT企業で社会人生活を送っていた。朔空には、高校時代の親友で今も交流のある鹿島絢斗(あやと)がいる。大学時代に起業して財を成したイケメンである。賃貸マンションの配管故障のため部屋が水浸しになり使えなくなった日、絢斗に助けを求めると…美形×平凡と思っている美人の社会人ハッピーエンドBLです。
人気アイドルになった美形幼馴染みに溺愛されています
ミヅハ
BL
主人公の陽向(ひなた)には現在、アイドルとして活躍している二つ年上の幼馴染みがいる。
生まれた時から一緒にいる彼―真那(まな)はまるで王子様のような見た目をしているが、その実無気力無表情で陽向以外のほとんどの人は彼の笑顔を見た事がない。
デビューして一気に人気が出た真那といきなり疎遠になり、寂しさを感じた陽向は思わずその気持ちを吐露してしまったのだが、優しい真那は陽向の為に時間さえあれば会いに来てくれるようになった。
そんなある日、いつものように家に来てくれた真那からキスをされ「俺だけのヒナでいてよ」と言われてしまい───。
ダウナー系美形アイドル幼馴染み(攻)×しっかり者の一般人(受)
基本受視点でたまに攻や他キャラ視点あり。
※印は性的描写ありです。
待て、妊活より婚活が先だ!
檸なっつ
BL
俺の自慢のバディのシオンは実は伯爵家嫡男だったらしい。
両親を亡くしている孤独なシオンに日頃から婚活を勧めていた俺だが、いよいよシオンは伯爵家を継ぐために結婚しないといけなくなった。よし、お前のためなら俺はなんだって協力するよ!
……って、え?? どこでどうなったのかシオンは婚活をすっ飛ばして妊活をし始める。……なんで相手が俺なんだよ!
**ムーンライトノベルにも掲載しております**
初夜の翌朝失踪する受けの話
春野ひより
BL
家の事情で8歳年上の男と結婚することになった直巳。婚約者の恵はカッコいいうえに優しくて直巳は彼に恋をしている。けれど彼には別に好きな人がいて…?
タイトル通り初夜の翌朝攻めの前から姿を消して、案の定攻めに連れ戻される話。
歳上穏やか執着攻め×頑固な健気受け
何も知らない人間兄は、竜弟の執愛に気付かない
てんつぶ
BL
連峰の最も高い山の上、竜人ばかりの住む村。
その村の長である家で長男として育てられたノアだったが、肌の色や顔立ちも、体つきまで周囲とはまるで違い、華奢で儚げだ。自分はひょっとして拾われた子なのではないかと悩んでいたが、それを口に出すことすら躊躇っていた。
弟のコネハはノアを村の長にするべく奮闘しているが、ノアは竜体にもなれないし、人を癒す力しかもっていない。ひ弱な自分はその器ではないというのに、日々プレッシャーだけが重くのしかかる。
むしろ身体も大きく力も強く、雄々しく美しい弟ならば何の問題もなく長になれる。長男である自分さえいなければ……そんな感情が膨らみながらも、村から出たことのないノアは今日も一人山の麓を眺めていた。
だがある日、両親の会話を聞き、ノアは竜人ですらなく人間だった事を知ってしまう。人間の自分が長になれる訳もなく、またなって良いはずもない。周囲の竜人に人間だとバレてしまっては、家族の立場が悪くなる――そう自分に言い訳をして、ノアは村をこっそり飛び出して、人間の国へと旅立った。探さないでください、そう書置きをした、はずなのに。
人間嫌いの弟が、まさか自分を追って人間の国へ来てしまい――
転生したらスパダリに囲われていました……え、違う?
米山のら
BL
王子悠里。苗字のせいで“王子さま”と呼ばれ、距離を置かれてきた、ぼっち新社会人。
ストーカーに追われ、車に轢かれ――気づけば豪奢なベッドで目を覚ましていた。
隣にいたのは、氷の騎士団長であり第二王子でもある、美しきスパダリ。
「愛してるよ、私のユリタン」
そう言って差し出されたのは、彼色の婚約指輪。
“最難関ルート”と恐れられる、甘さと狂気の狭間に立つ騎士団長。
成功すれば溺愛一直線、けれど一歩誤れば廃人コース。
怖いほどの執着と、甘すぎる愛の狭間で――悠里の新しい人生は、いったいどこへ向かうのか?
……え、違う?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる