【完結】真実の愛に気付いたと言われてしまったのですが

入多麗夜

文字の大きさ
35 / 38

頼もしい将軍

しおりを挟む
 朝の光が差しているはずなのに、城都の空は鈍く沈んでいた。雲が陽を遮っているわけでもない。ただ、肌に触れる空気が妙に冷たく、街を歩く人々の足取りにも、どこか重苦しいものがあった。

 ローゼンの執務室。窓の外を見つめながら、レティシアは黙って立ち尽くしていた。

 ――今日で、補給の目処が立たなくなってから五日目。

 街の配給所では、今朝方も小競り合いが起きた。怒号と悲鳴。倉庫の在庫は減るばかりで、流通は未だ途絶えたまま。通商路は閉ざされ、支援の便りも、どこからも届かない。

「ミリア、今日の報告を」

「……はい」

 ミリアの返答は、普段よりもわずかに遅れた。その手には、朝一番に各地から集められた報告書の束が握られている。

「南区の配給所、今朝は早くから行列ができていて……列を乱した者が取り押さえられた際に、小規模な衝突が……怪我人も何名か出ております。あと、市場では今朝から塩が倍の値段に……」

 レティシアは目を閉じる。次の言葉を待たずとも、全てが想像できる。

 それでも、立ち止まることは許されない。

「州の備蓄を、さらに一部放出して。すぐにでも対応が必要よ」

「……はい。手配します」

 ミリアの声に張りがなかった。それでも、足を止める者はいない。

 この絶望の淵にあって、彼女たちはまだ、前を向いている。


(……エディン、カイル。どうか、無事でいて)

 胸の奥に沈めた願いは、誰にも告げられぬまま、レティシアは再び報告書に目を落とした。

 昼を過ぎても、街の混乱は止まらなかった。

 配給所では米の代用品すら足りず、庁舎には罵声混じりの陳情が押し寄せる。誰もが疲弊し、怒りと不安が街を蝕んでいた。

 レティシアは、静かに書類を脇に寄せた。

「……そろそろ限界ね」

 ミリアがふと顔を上げた。

「レティシア様……?」

「物資が足りない以上、気力だけでは持たない。支えるにも限界があるの。州の備蓄は……明日には尽きるわ」

 ミリアは唇を噛んだまま、何も言えなかった 

 静寂が執務室に落ちる。遠く、窓の外では鐘の音がひとつ、低く響いていた。正午を告げる合図だが、かつてのような活気は、その音にも、この街にも、どこにもなかった。

 机の上には、手を尽くして集めた在庫表が並んでいる。小麦、塩、干し肉、保存用の豆や野菜――すべてに朱線が引かれている。数字は現実を突きつけていた。もう“持たない”という、ただそれだけの冷酷な事実を。

 ミリアは、わずかに震える指先で紙の端を摘まんだ。そこには、南部倉庫の備蓄量が記されている。普段なら二週間はもつはずの量が、いまや一日分にも満たない。

「……配っても、間に合わないかもしれません」

 そう呟く声には、恐怖も絶望もあった。ただ、それでも目の前の事実から目を背けることはできなかった。

 レティシアはゆっくりと立ち上がる。窓辺に歩み寄り、カーテン越しに街の様子を見下ろした。

 人々は列を成していた。配給所の前には、子供を背負った母親や、腰を曲げた老人が並んでいる。中には、互いの食料を巡って声を荒げる者たちもいた。治安はまだ保たれている。だが、それがいつ崩れても不思議ではなかった。

「あと一つでも、手が打てれば……」

 誰に聞かせるでもない呟きが、窓辺に溶けていく。

 その時だった。

 執務室の扉が、勢いよく開いた。

「レティシア様!」

 駆け込んできたのは伝令の少年だった。顔を紅潮させ、息を切らしながら、握り締めた一通の書状を掲げる。

「北の関門から、旗印が――援軍です! ヴァルドリア本軍の第一陣が、間もなく到着すると!」

 その一言に、室内の空気が瞬時に変わった。

 レティシアが振り返る。ミリアが思わず口元を押さえる。数秒間、誰も言葉を発せず、ただ信じられないというように、少年の言葉の余韻に耳を澄ませていた。

「……本当なのね?」

 レティシアが静かに問うと、少年は力強く頷いた。

「はい! ヴァルドリアの紋章、確かに見えたと門兵が……!」

 その瞬間、ミリアが思わず叫ぶ。

「やった……! 本当に来てくれたんだ……!」

 レティシアはその場に立ち尽くしたまま、数度、まばたきをした。

「第一陣は、すでに城門まで数千の兵を展開中とのことです」

 伝令の声が重ねられるたび、執務室の空気が温度を取り戻していくようだった。ミリアは今にも泣き出しそうな顔で、机に置かれた報告書の山を見つめた。

「これで……これで、少しは持ち直せる……!」

 その瞬間――

「もう一つ、知らせが!」

 続いて入ってきた別の伝令が声を張る。青年の瞳は興奮と驚きに揺れていた。

「第二陣……第二陣として、西方の大国クレタリアの軍勢が到着! 我が軍と合流しつつ、現在、城都北部の丘陵地帯に布陣中とのこと!」

 ミリアが言葉を失う。レティシアも、一歩、踏み出しかけて足を止めた。

「……クレタリアが?」

 信じがたいというより、信じてはならない――それほどの存在だった。

 クレタリア。その国は、ただ軍事や経済で強大なのではない。民衆の意識の深層にまで根差した「信仰」が、国そのものをひとつにまとめ上げていた。

 大陸でも稀有な宗教国家――それが、クレタリアという国の本質だった。

 王も貴族も、兵士も商人も、すべての民が同じ教義のもとに育ち、動く。絶対的な精神的支柱を持つゆえに、彼らの行動には揺らぎがない。そして他国の利害や欲望によって翻弄されることも少ない。

 いざという時、彼らは疑わず、躊躇わず、動く。
 それは恐ろしくもあり、同時に、強大だった。

 そんな国が――今、ローゼンに旗を掲げて来たのだ。

 さらに、彼らはただ兵を送ったのではなかった。

 ――大量の物資。

 食料、衣料、薬品、燃料。物流が止まりかけていたローゼンの中枢へ、それらは整然と積まれ、次々と運び込まれていく。市場の空棚を満たし、配給所の行列を分断するようにして、無数の荷車が街道を埋め尽くしていた。

 それはまさに「救い」そのものだった。

 人々は最初、信じられないというように見つめていた。だが、実際に袋を手にし、湯気を立てるパンや、乾燥した保存食を目にした瞬間、歓声があがった。

 混乱に瀕していた城都が、息を吹き返したのだ。

 そんな中、執務室の扉が勢いよく開いた。

「レティシア様!」

 駆け込んできたのは従者のひとり。息を切らしながらも、興奮を押し隠せない面持ちで声を上げる。

「クレタリアの使節が、面会を希望しているとのことです!」

 その一言に、レティシアは顔を上げ、瞬時に表情を引き締めた。

「すぐに応接室を整えて。失礼のないように」

 命令を受けた従者は深く頷き、そのまま駆け足で執務室を出ていく。

 ――クレタリアは、動いた。ならば、こちらも覚悟をもって向き合わねばならない。

 レティシアは静かに歩を進め、扉の向こうに待つ交渉の場へと向かった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

夫「お前は価値がない女だ。太った姿を見るだけで吐き気がする」若い彼女と再婚するから妻に出て行け!

佐藤 美奈
恋愛
華やかな舞踏会から帰宅した公爵夫人ジェシカは、幼馴染の夫ハリーから突然の宣告を受ける。 「お前は価値のない女だ。太った姿を見るだけで不快だ!」 冷酷な言葉は、長年連れ添った夫の口から発せられたとは思えないほど鋭く、ジェシカの胸に突き刺さる。 さらにハリーは、若い恋人ローラとの再婚を一方的に告げ、ジェシカに屋敷から出ていくよう迫る。 優しかった夫の変貌に、ジェシカは言葉を失い、ただ立ち尽くす。

最近彼氏の様子がおかしい!私を溺愛し大切にしてくれる幼馴染の彼氏が急に冷たくなった衝撃の理由。

佐藤 美奈
恋愛
ソフィア・フランチェスカ男爵令嬢はロナウド・オスバッカス子爵令息に結婚を申し込まれた。 幼馴染で恋人の二人は学園を卒業したら夫婦になる永遠の愛を誓う。超名門校のフォージャー学園に入学し恋愛と楽しい学園生活を送っていたが、学年が上がると愛する彼女の様子がおかしい事に気がつきました。 一緒に下校している時ロナウドにはソフィアが不安そうな顔をしているように見えて、心配そうな視線を向けて話しかけた。 ソフィアは彼を心配させないように無理に笑顔を作って、何でもないと答えますが本当は学園の経営者である理事長の娘アイリーン・クロフォード公爵令嬢に精神的に追い詰められていた。

「犯人は追放!」無実の彼女は国に絶対に必要な能力者で“価値の高い女性”だった

佐藤 美奈
恋愛
セリーヌ・エレガント公爵令嬢とフレッド・ユーステルム王太子殿下は婚約成立を祝した。 その数週間後、ヴァレンティノ王立学園50周年の創立記念パーティー会場で、信じられない事態が起こった。 フレッド殿下がセリーヌ令嬢に婚約破棄を宣言した。様々な分野で活躍する著名な招待客たちは、激しい動揺と衝撃を受けてざわつき始めて、人々の目が一斉に注がれる。 フレッドの横にはステファニー男爵令嬢がいた。二人は恋人のような雰囲気を醸し出す。ステファニーは少し前に正式に聖女に選ばれた女性であった。 ステファニーの策略でセリーヌは罪を被せられてしまう。信じていた幼馴染のアランからも冷たい視線を向けられる。 セリーヌはいわれのない無実の罪で国を追放された。悔しくてたまりませんでした。だが彼女には秘められた能力があって、それは聖女の力をはるかに上回るものであった。 彼女はヴァレンティノ王国にとって絶対的に必要で貴重な女性でした。セリーヌがいなくなるとステファニーは聖女の力を失って、国は急速に衰退へと向かう事となる……。

もうあなた達を愛する心はありません

佐藤 美奈
恋愛
セラフィーナ・リヒテンベルクは、公爵家の長女として王立学園の寮で生活している。ある午後、届いた手紙が彼女の世界を揺るがす。 差出人は兄ジョージで、内容は母イリスが兄の妻エレーヌをいびっているというものだった。最初は信じられなかったが、手紙の中で兄は母の嫉妬に苦しむエレーヌを心配し、セラフィーナに助けを求めていた。 理知的で優しい公爵夫人の母が信じられなかったが、兄の必死な頼みに胸が痛む。 セラフィーナは、一年ぶりに実家に帰ると、母が物置に閉じ込められていた。幸せだった家族の日常が壊れていく。魔法やファンタジー異世界系は、途中からあるかもしれません。

美人な姉を溺愛する彼へ、最大の罰を! 倍返しで婚約破棄して差し上げます

佐藤 美奈
恋愛
伯爵令嬢マリアは、若き大神官フレッドとの結婚を控え、浮かれる日々を送っていた。しかし、神殿での多忙を理由になかなか会えないフレッドへの小さな不安と、結婚式の準備に追われる慌ただしさが、心に影を落とし始める。 海外で外交官の夫ヒューゴと暮らしていた姉カミーユが、久しぶりに実家へ帰省する。再会を喜びつつも、マリアは、どこか寂しい気持ちが心に残っていた。 カミーユとの再会の日、フレッドも伯爵家を訪れる。だが、その態度は、マリアの心に冷たい水を浴びせるような衝撃をもたらした。フレッドはカミーユに対し、まるで夢中になったかのように賛辞を惜しまず、その異常な執着ぶりにマリアは違和感を覚える。ヒューゴも同席しているにもかかわらず、フレッドの態度は度を越していた。 フレッドの言動はエスカレートし、「お姉様みたいに、もっとおしゃれしろよ」とマリアにまで、とげのある言葉を言い放つ。清廉潔白そうに見えた大神官の仮面の下に隠された、権力志向で偽善的な本性が垣間見え、マリアはフレッドへの信頼を揺るがし始める。カミーユとヒューゴもさすがにフレッドを注意するが、彼は反省の色を一切見せない。

お前との婚約は、ここで破棄する!

ねむたん
恋愛
「公爵令嬢レティシア・フォン・エーデルシュタイン! お前との婚約は、ここで破棄する!」  華やかな舞踏会の中心で、第三王子アレクシス・ローゼンベルクがそう高らかに宣言した。  一瞬の静寂の後、会場がどよめく。  私は心の中でため息をついた。

彼女よりも幼馴染を溺愛して優先の彼と結婚するか悩む

佐藤 美奈
恋愛
公爵家の広大な庭園。その奥まった一角に佇む白いガゼボで、私はひとり思い悩んでいた。 私の名はニーナ・フォン・ローゼンベルク。名門ローゼンベルク家の令嬢として、若き騎士アンドレ・フォン・ヴァルシュタインとの婚約がすでに決まっている。けれど、その婚約に心からの喜びを感じることができずにいた。 理由はただ一つ。彼の幼馴染であるキャンディ・フォン・リエーヌ子爵令嬢の存在。 アンドレは、彼女がすべてであるかのように振る舞い、いついかなる時も彼女の望みを最優先にする。婚約者である私の気持ちなど、まるで見えていないかのように。 そして、アンドレはようやく自分の至らなさに気づくこととなった。 失われたニーナの心を取り戻すため、彼は様々なイベントであらゆる方法を試みることを決意する。その思いは、ただ一つ、彼女の笑顔を再び見ることに他ならなかった。

幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢アイラは、婚約者であるオリバー王子との穏やかな日々を送っていた。 ある日、突然オリバーが泣き崩れ、彼の幼馴染である男爵令嬢ローズが余命一年であることを告げる。 オリバーは涙ながらに、ローズに最後まで寄り添いたいと懇願し、婚約破棄とアイラが公爵家当主の父に譲り受けた別荘を譲ってくれないかと頼まれた。公爵家の父の想いを引き継いだ大切なものなのに。 「アイラは幸せだからいいだろ? ローズが可哀想だから譲ってほしい」 別荘はローズが気に入ったのが理由で、二人で住むつもりらしい。 身勝手な要求にアイラは呆れる。 ※物語が進むにつれて、少しだけ不思議な力や魔法ファンタジーが顔をのぞかせるかもしれません。

処理中です...