キミに届く、一枚の勇気

伊咲 汐恩

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32.遠ざかる背中

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 ――翌朝。私はあくびをしながらマンションのエントランスを出た。
 昨晩はよく眠れなかった。
 八メートルほど先に、刈谷くんを発見する。

「……っ」

 声をかけられなかった。
 少し前なら、息をするみたいに「一緒に学校へ行こう」って言えたのに。
 見慣れた背中が、なぜか遠い――。
 背中を見つめたまま、黄色く染まったイチョウの葉を次々と踏みしめていく。

 ポケットの中のお助け券は、出番がないまま眠っている。
 使わなかったというより……、どこかで頼ってはいけないと思っていた。
 お助け券を手に取って眺める。
 ふわりと揺れる風に、紙の端がひらひらとはためく。

「私ったら、意地っ張りだね……」

 深いため息が落ちる。
 昨日の刈谷くんは、一段先の階段にいるように見えた。
 刈谷くんは『変わらないよ』って言ってくれたのに。
 もしかしたら、本気で紗穂さんと――。

 唇をかみしめ、指先が少し震える。

 ……ううん、私には関係ない。
 目が赤くなり、視界が歪んだ。
 鼻をすすり、空を見上げる。

 二人がどのような恋愛をしていたかなんて知るはずもないのに、むやみに口を出しちゃだめ。
 私は、ただの友達。
 たぶん刈谷くんも同じ――。
 刈谷くんが優しいから、頼ってしまっただけ。

 橋の上でお助け券をポケットに差し込もうとすると、左前方から自転車が曲がってきた。
 キキキーッ……!
 急ブレーキ音が耳の奥を切り裂くように突き、紙を手放した。
 肩が揺れ、目を見開く。
 30代くらいのスーツ姿の男性が、私の隣で自転車を止めた。

「ごめんなさい、大丈夫ですか?」

 そのひとことに、すっと肩の力が抜けた。

「は、はい。ちょっと驚いただけですから」
「よかった。……では」

 一瞬、自転車に轢かれるかと思った。
 ぼーっとしていた、自分もいけない。
 彼は軽く会釈をすると、再び自転車のペダルに足を乗せた。

 見上げると、刈谷くんはさらに先を歩いている。
 追いつけない距離じゃない。声が届かない距離じゃないのに――追わなかった。
 隣に行くのは、もう自分じゃないし……。
 遠退いていく背中に、胸がきゅっと締めつけられる。
 私たちの歩調が、少しずつズレていってるような気がした。
 
 ――この時は気づかなかった。
 ポケットに突っ込んだはずのお助け券が、ポケットの横を通り抜けて、川に落ちてしまったことを。

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