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第一部 大坂の変
第四章 乱世夢の果てには
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大坂城、奥御殿の一隅。
冬の淡い陽光が障子越しに差し込み、庭の松や梅の枝には白い霜が降りている。
外では凍てつく風が吹きすさんでいるが、室内には炭火の赤い温もりと、ほのかな茶の香りが静かに満ちていた。
秀頃は千姫、お奈津、お藤ら妻たちと共に、穏やかな茶会の席に着いていた。
女性たちはそれぞれ厚手の打掛に身を包み、白い息を吐きながらも、控えめな笑みを浮かべている。
中央で茶を点てるのは有楽斎――織田長益である。白髪をきりりと結い、黒の直衣に身を包んだ茶人が、静謐な所作で茶筅を振るう。湯気が立ち上り、茶碗からは優しい温もりが手のひらに伝わってくる。
「寒さ厳しき折、唐物の肩衝にて一服差し上げまする」
有楽斎は柔らかな声でそう告げ、秀頃の前に茶碗を差し出した。
秀頃は静かに受け取り、湯気に顔を近づける。
「有楽斎殿の茶は、冬の寒さを忘れさせてくれまする」
礼を述べる彼の声には、心からの安らぎが込められていた。
千姫はそっと茶碗を手に取り、その温もりを指先で確かめる。
「この温もりが、心まで染み入るようでございます」
柔らかく微笑む千姫の頬には、ほんのりと紅が差していた。袖口からのぞく手が、ふと秀頃の膝にそっと触れる。
この一年、夫婦として過ごす夜が増えたことを、千姫は誰にも言わず、ただ静かにその温もりを心に抱いていた。
『最初は戸惑いもあった。正室としての務め、母や周囲の期待、そして自分の心――すべてが絡み合い、何が正しいのか分からぬまま、ただ殿の温もりに身を委ねてきた。けれど、こうして茶会の席で、殿の膝にそっと手が触れるだけで』
心の奥に小さな灯がともる。
『殿の声、殿の笑顔、殿の手のぬくもり』
それらが、冬の寒さも、心の不安も、すべて溶かしてくれるように思えた。
『殿と共にある今が、どれほど幸せなことか……この温もりが、いつまでも続きますように――』
秀頃は炭火の赤い光に目を細め、ふと遠く方広寺の工事の進捗を思い浮かべていた。
「方広寺も、いよいよ完成が近い。この寺が、豊臣と徳川の和を結ぶ証となれば、天下も安らかに治まろう」
その声には、どこか安堵と希望、そしてわずかな無防備さが滲んでいる。
「戦も、争いも、もう遠い昔のこと。この城に、こうして皆が集い、茶を楽しむことこそ、余の望みである」
静かに語る秀頃を見つめながら、千姫は殿の安堵と油断に、ふと胸の奥に小さな不安を覚える。
『この平和が、いつまで続くのか。殿が心を許し、未来を信じている今こそ、何かが忍び寄るのではないか』
そんな予感が、冬の静けさの中に、微かに揺れていた。
お奈津は控えめに、
「御台様のご機嫌も、殿のお心も、こうしたひとときにて和らぎますれば……」
と、言葉を添える。
お藤は庭の霜を見やり、
「冬の静けさと、茶の香り――この城に、穏やかな日々が続きますよう」
と、祈るように呟いた。
有楽斎は茶筅を静かに置き、
「寒さの中こそ、心の和が大切にございます。殿も、御台様方も、どうぞご自愛くださいますよう」
と、席を締めくくった。
千姫はそっと秀頃の袖を指先でつまみ、
「殿……この冬は、ことのほか温うございます」
と、囁くように微笑んだ。
秀頃もまた、千姫の手のぬくもりを感じながら、
「そなたが傍におれば、いかなる寒さも苦にはならぬ」
と、静かに応えた。
炭火の赤い光と茶の香りに包まれ、冬の大坂城には、穏やかな幸福が静かに満ちていた。
千姫の胸には、殿と共にある今この時の温もりが、何よりも愛おしく、そして、いつか訪れるかもしれぬ嵐の前の静けさであることを、どこかで感じていた。
同じ冬の夜、大坂城下。
夜の帳が静かに降りる頃、市の片隅にある茶屋の奥座敷には炭火が赤く灯り、数人の影が畳に揺れていた。
盛親は商人姿のまま、盃を手にしている。その顔には家名への執着と現実への冷静な眼差しが浮かんでいた。
「家の再興こそ、我が至上命令。秀頃公の案に乗るも、家名のためよ。だが、徳川の目は厳しい。動くならば、今しかあるまい」
酒席を離れた後、盛親は夜の城下町へと姿を消す。町の裏路地や茶屋を巡り、浪人や町人、商人たちにさりげなく声をかけて回った。
「加賀の前田家はどう動いておる?」「広島の福島殿の家中に、不穏な噂はないか?」
情報を集めるだけでなく、「豊臣家は盟友を求めている」「いずれ大坂に旗が立つやもしれぬ」と噂を巧みに流す。浪人たちの間に再起の機運を煽り、町人や商人には「戦になれば商いの機会も増える」と耳打ちする。牢人衆の集まりにも顔を出し、「今はまだ時を待て。だが、いざという時は、力を貸してほしい」と結束を促していた。
茶屋に戻ると、勝永は静かに盃を傾けながら言った。
「無駄な死はご免だ。武士として生き残る道があるなら、力を貸す。だが、戦の火種はまだ静かに燻っている。秀頃公が本気で動くなら、我らも腹を決めねばならぬ」
又兵衛は苦笑し、
「毛利家もまた、表向きは徳川に従いながら、内心では機を窺っている節がある。大名たちは皆、家を守るために仕方なく従っているのだろうが……義や誇りは、どこへ消えたのかと思うこともある。浪人の身は肩身が狭いが、いずれ大坂に集う時が来るやもしれぬ」
重成は若き瞳に決意を宿し、
「大名方が動かぬ限り、我らも軽々しく動けぬ。だが、秀頃公が本気で動けば、あの連中もまた態度を変えるやもしれぬ。今はただ、時を見極めるしかない」
炭火の赤い光が、四人の顔を静かに照らしていた。
その酒席の隅に、明石全登が静かに座していた。盃には手を伸ばさず、炭火の揺らめきに顔を照らされながら、無言で四人のやりとりを見つめている。その眼差しは鋭くも、どこか遠くを見ているようで、口を開くことはない。信仰に根ざした沈黙、己の立場を語らぬ謎めいた存在――だが、時折、炭火の赤い光が瞳に映るとき、何かを見極めようとする静かな意志が感じられた。
盛親がふと明石に目を向けるが、明石はただ静かに頷くだけ。その仕草に、四人は言葉を止め、
『この男が動く時こそ、何かが始まる』
と、誰ともなく胸の奥で思うのであった。
外では、雪混じりの風が城下の屋根を叩き、茶屋の奥には、浪人たちの静かな決意と、盛親の工作、明石全登の沈黙がひそやかに息づいていた。
同じ夜、大坂城奥御殿の広間。
障子の外では雪がしんしんと降り積もり、城内は静かな緊張に包まれていた。
淀殿を上座に、大蔵卿局、大野治長・治房兄弟、塙団右衛門らが卓を囲んでいる。
広間の中央には、城の見取り図や兵糧の帳簿、武具の目録がずらりと並んでいた。
大野治長が帳簿を手に、胸を張って言う。
「兵糧米、蔵に三十万石。乾物や味噌、塩も十分に備えております。これだけあれば、籠城で勝てまする。徳川とて、易々と攻め落とすことはできませぬ」
治房が続けて、
「武具も槍・鉄砲・弓矢、いずれも数万。火薬も堺や伏見から密かに買い入れております。城の石垣も修繕を終え、堀も深く掘り直しました」
塙団右衛門は拳を握りしめ、声を張る。
「牢人衆、城下に集まる者およそ一万五千。加えて、城内の侍・足軽を合わせれば、二万を超えましょう。いざとなれば、我ら浪人衆が城外に打って出て、敵の背後を突きまする。味方も増えるはず――福島殿や前田殿も、いずれ我らに加わるやもしれませぬ!」
大蔵卿局は誇り高く頷き、
「豊臣の世は、まだ終わりませぬ。女も子も一丸となって、この城を守り抜きましょう」
ここで、治長が見取り図を指しながら、
「この大川を挟めば、敵は絶対に越えられませぬ。水際に鉄砲隊を並べれば、徳川勢も手も足も出ぬでございましょう」
治房は茶臼山の位置を指し、
「茶臼山に大軍を配置すれば、敵の主力は容易に蹴散らせまする。あの丘は、我らが睨みを利かせるに最適の地にございます」
塙団右衛門はさらに声を張る。
「城の南は堀が深く、敵は近づくことすら叶いませぬ。北は大川、東は森、いずれも我らの守りに有利な地形。徳川方がいかに大軍を集めようとも、ここ大坂城にて討ち果たしてみせまする!」
大蔵卿局は微笑み、
「いざとなれば、女たちも炊き出しや看護に励み、兵の士気を高めましょう。この城に集う者、皆が一丸となれば、敵など恐るるに足りませぬ」
淀殿は満足げに扇を静かに動かし、
「皆の働き、まことに頼もしい。この城を守り抜き、豊臣の名を後の世に残すのだ」
会議の空気は、次第に楽観的な色を帯びていく。
誰もが、城の堅さと備えの充実、そして根拠なき期待に自信を深めていた。
広間の外では、雪がしんしんと降り積もっていた。その静けさの中、豊臣家の慢心と、やがて訪れる運命の嵐は、まだ誰にも見えていなかった。
駿府城、冬の朝。
障子越しに冷たい光が差し込む広間に、家康は静かに座していた。
本多正純が無言で進み出て、几帳面に書き記した報告書を差し出す。家康はそれを受け取り、目を通すと、
「左様か。分かった、下がってくれ」
と、短く告げた。
正純が静かに下がると、家康は報告書を膝の上に置き、遠く駿河湾の波を見やった。
――大坂では、淀殿が密かに戦乱の準備を進めている。浪人衆を集め、兵糧や武具を蓄え、城の奥では密やかな策謀が渦巻いている。
だが、秀頃は未だその動きに気づかず、千姫や側室たちと穏やかな日々に心を委ねている。表向きは泰平、だがその実、城の奥底には火種が積み重なりつつある。
家康は静かに息を吐き、
「秀頃よ……余は、そなたに期待しておる。このまま平和の中に酔い続けるなら、豊臣も、そなた自身も、滅びるほかあるまい。だが、もし己の足元の毒に気づき、真に乱世を生き抜く力を示すなら――余は、そなたを徳川の後継として認める覚悟もある」
家康の眼差しは、波の彼方に鋭く向けられていた。
「武力で豊臣家を滅ぼすことは、徳川家にとっても大きな痛み。民の心は乱れ、千姫も不幸となる。できることなら、平和のうちに事を収めたい。そなたが自ら目を覚まし、城の毒を断ち切ること――それこそが、余の願いであり、帝王の愛にございます」
ふと、家康の胸に憂いがよぎる。
「もし、そなたがこの試練を乗り越えられぬなら……可愛き孫娘も、巻き添えとなる。千姫の幸せを願うがゆえに、余は豊臣の行く末を見守るしかない。愛屋及烏――そなたのために、余は鬼にもなろう」
家康は、波の向こうに秀頃と千姫の姿を思い描き、静かに目を閉じた。
冬の駿河湾に響く波音が、老将の心の奥底に眠る複雑な情愛を、静かに包み込んでいた。
紀伊九度山、冬の朝。
庵の外には雪がうっすらと積もり、竹林が山風に揺れている。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、庵の中には家族と家臣たちの息遣いが満ちていた。
庭先では、信繁が長男・幸昌と次男・守信に木刀を手渡し、
家臣たちがその稽古を見守っている。
堀田作兵衛は、背が高く骨太な体つきで、顔は日に焼けて浅黒く、眉が太い。
粗末な木綿の着物に身を包み、袖口は何度も繕われている。
無骨な手で薪を割りながら、時折幸昌の手元をじっと見つめ、
「大助、手首の力を抜かれませ。殿の型をよくご覧あれ」
と、実直な口調で助言を送る。
河原綱家は、やや小柄で、目元に優しさが滲む。
髪は短く、額に細かな皺が寄る。
着物は色褪せているが、襟元はきちんと整えられている。
守信の動きを見て、
「左馬助様、踏み込みが浅うございます。もう一歩、前へ」
と、柔らかな笑みを浮かべながらも、細やかな指導を惜しまない。
三井清兵衛は、痩身で指先が細く、手先の器用さが見て取れる。
古びた帯を締め、腰には小刀を差している。
壊れた木刀を手際よく修理し、
「これでまた稽古が続けられますな」
と、物静かに語る。
三好幸信と三好政康の兄弟は、どちらも丸顔で、頬が赤い。
兄は肩幅が広く、弟はやや細身。
二人とも野良着姿で、袖口には土の色が染みついている。
畑仕事を終えて庵に戻り、
「今朝は大根がよく採れました。昼餉に使いましょう」
と、明るく声をかける。
庵の中では、竹林院が娘たち――阿梅、阿菊、阿松――とともに、
色とりどりの糸を手に真田紐を編んでいる。
その傍らには、信繁の側室たち――高梨の娘・おこう、明るいおたつ、しっかり者のおまき――も静かに座り、手を動かしていた。
竹林院は、落ち着いた所作で糸を撚りながら、娘たちに優しく手本を示す。
「この結び目をしっかりと――ほら、こうすると丈夫になります」
阿梅は母の手元を真剣に見つめ、阿菊と阿松は姉や母に甘えながら、指先に集中している。
おこうは物静かで几帳面、細やかな作業を得意とし、
「奥方様、阿梅様の手つきが随分と上達されましたね」
と、控えめながらも周囲をよく見ている。
おたつは庵の中でもよく笑い、
「阿松、ここをもう少し強く引いてごらんなさい。ほら、上手にできたわ」
と、幼い娘たちの手を優しく導く。
おまきは家事や炊事を率先して手伝い、
「皆で作った紐は、きっと家の守りとなります」
と、実用的な視点で庵の暮らしを支えている。
家臣の妻や娘たちも加わり、
「この紐は、いざという時に役立ちますから」
「戦の備えも、女の手から始まるのですね」
と、静かに語り合いながら、手を動かしていた。
竹林院は、ふと手を止め、遠い昔のことを思い返す。
――かつては武家の娘として、京や信濃の屋敷で華やかな日々を過ごした。
絹の衣、賑やかな宴、季節ごとの贈り物。
けれど今、九度山の庵で粗末な着物に袖を通し、
家族や家臣、側室たちと肩を寄せ合いながら、寒さや飢えに耐える日々を送っている。
それでも、家族と共に困難を乗り越える力が自分の中にあることを、
竹林院は誇りに思っていた。
「皆が力を合わせてくれるからこそ、この地でも心強うございます」
と、感謝の気持ちを込めて微笑む竹林院。
おこうもおたつもおまきも、
「奥方様のお心遣いがあるから、私たちも安心して働けます」
「皆で作った紐は、きっと家の守りとなります」
と、穏やかに応じる。
糸の擦れる音と、時折交わされる小さな笑い声が、
庵の中に静かな温もりを広げていた。
寒さを忘れさせるような、男たちの武芸と女たちの手仕事――
それは、九度山の厳しい暮らしの中で、それぞれの役割が、寒さの中に温かな絆を織りなしていた。
信繁は、庭先から庵の中を見やり、
家族と家臣、そして子供たちの姿に目を細める。
「この日々こそ、何よりの宝……」
と、心の奥で静かに思うのであった。
庵の外では、竹林が風に揺れ、
雪解けの水が小さな流れとなって土を潤し始めていた。
遠くの山肌には、淡い霞がかかり、
空の色もどこか柔らかさを帯びている。
深夜の大坂城、奥御殿。
秀頼は、千姫の寝所でふと目を覚ました。
障子越しに月の淡い光が差し込み、静寂の中に遠く雪の気配が漂っている。
腕の中には、安らかな寝顔の千姫。
だが、秀頼の胸は激しく波打っていた。
夢の中で見た、城が炎に包まれ、家族や家臣が叫び声を上げる光景――
母・淀殿は無表情のまま最期を迎え、
千姫は家臣たちに強引に引き離され、
国松は処刑され、奈阿は泣きながら寺へ送られていく。
そして、夢の最後――
秀頼は静かに座し、短刀を腹に突き立てる。
傍らには毛利勝永が控え、秀頼の苦痛を悟ると、
無言で刀を振り上げ、主君の首を一閃で落とした。
血の匂いと、勝永の沈痛な表情が、夢の中であまりにも鮮烈に焼き付いた。
秀頼は、千姫の温もりを確かめるようにそっと抱き寄せ、静かに涙をこぼした。
頬を伝うその一筋の涙は、夢の衝撃と、
「この悪夢を決して現実にしてはならぬ」という、新たな決意の証でもあった。
千姫の寝息が静かに響く中、秀頼はもう一度、彼女を優しく抱きしめる。
夜の静けさの中で、未来への誓いだけが、彼の胸に静かに灯っていた。
冬の淡い陽光が障子越しに差し込み、庭の松や梅の枝には白い霜が降りている。
外では凍てつく風が吹きすさんでいるが、室内には炭火の赤い温もりと、ほのかな茶の香りが静かに満ちていた。
秀頃は千姫、お奈津、お藤ら妻たちと共に、穏やかな茶会の席に着いていた。
女性たちはそれぞれ厚手の打掛に身を包み、白い息を吐きながらも、控えめな笑みを浮かべている。
中央で茶を点てるのは有楽斎――織田長益である。白髪をきりりと結い、黒の直衣に身を包んだ茶人が、静謐な所作で茶筅を振るう。湯気が立ち上り、茶碗からは優しい温もりが手のひらに伝わってくる。
「寒さ厳しき折、唐物の肩衝にて一服差し上げまする」
有楽斎は柔らかな声でそう告げ、秀頃の前に茶碗を差し出した。
秀頃は静かに受け取り、湯気に顔を近づける。
「有楽斎殿の茶は、冬の寒さを忘れさせてくれまする」
礼を述べる彼の声には、心からの安らぎが込められていた。
千姫はそっと茶碗を手に取り、その温もりを指先で確かめる。
「この温もりが、心まで染み入るようでございます」
柔らかく微笑む千姫の頬には、ほんのりと紅が差していた。袖口からのぞく手が、ふと秀頃の膝にそっと触れる。
この一年、夫婦として過ごす夜が増えたことを、千姫は誰にも言わず、ただ静かにその温もりを心に抱いていた。
『最初は戸惑いもあった。正室としての務め、母や周囲の期待、そして自分の心――すべてが絡み合い、何が正しいのか分からぬまま、ただ殿の温もりに身を委ねてきた。けれど、こうして茶会の席で、殿の膝にそっと手が触れるだけで』
心の奥に小さな灯がともる。
『殿の声、殿の笑顔、殿の手のぬくもり』
それらが、冬の寒さも、心の不安も、すべて溶かしてくれるように思えた。
『殿と共にある今が、どれほど幸せなことか……この温もりが、いつまでも続きますように――』
秀頃は炭火の赤い光に目を細め、ふと遠く方広寺の工事の進捗を思い浮かべていた。
「方広寺も、いよいよ完成が近い。この寺が、豊臣と徳川の和を結ぶ証となれば、天下も安らかに治まろう」
その声には、どこか安堵と希望、そしてわずかな無防備さが滲んでいる。
「戦も、争いも、もう遠い昔のこと。この城に、こうして皆が集い、茶を楽しむことこそ、余の望みである」
静かに語る秀頃を見つめながら、千姫は殿の安堵と油断に、ふと胸の奥に小さな不安を覚える。
『この平和が、いつまで続くのか。殿が心を許し、未来を信じている今こそ、何かが忍び寄るのではないか』
そんな予感が、冬の静けさの中に、微かに揺れていた。
お奈津は控えめに、
「御台様のご機嫌も、殿のお心も、こうしたひとときにて和らぎますれば……」
と、言葉を添える。
お藤は庭の霜を見やり、
「冬の静けさと、茶の香り――この城に、穏やかな日々が続きますよう」
と、祈るように呟いた。
有楽斎は茶筅を静かに置き、
「寒さの中こそ、心の和が大切にございます。殿も、御台様方も、どうぞご自愛くださいますよう」
と、席を締めくくった。
千姫はそっと秀頃の袖を指先でつまみ、
「殿……この冬は、ことのほか温うございます」
と、囁くように微笑んだ。
秀頃もまた、千姫の手のぬくもりを感じながら、
「そなたが傍におれば、いかなる寒さも苦にはならぬ」
と、静かに応えた。
炭火の赤い光と茶の香りに包まれ、冬の大坂城には、穏やかな幸福が静かに満ちていた。
千姫の胸には、殿と共にある今この時の温もりが、何よりも愛おしく、そして、いつか訪れるかもしれぬ嵐の前の静けさであることを、どこかで感じていた。
同じ冬の夜、大坂城下。
夜の帳が静かに降りる頃、市の片隅にある茶屋の奥座敷には炭火が赤く灯り、数人の影が畳に揺れていた。
盛親は商人姿のまま、盃を手にしている。その顔には家名への執着と現実への冷静な眼差しが浮かんでいた。
「家の再興こそ、我が至上命令。秀頃公の案に乗るも、家名のためよ。だが、徳川の目は厳しい。動くならば、今しかあるまい」
酒席を離れた後、盛親は夜の城下町へと姿を消す。町の裏路地や茶屋を巡り、浪人や町人、商人たちにさりげなく声をかけて回った。
「加賀の前田家はどう動いておる?」「広島の福島殿の家中に、不穏な噂はないか?」
情報を集めるだけでなく、「豊臣家は盟友を求めている」「いずれ大坂に旗が立つやもしれぬ」と噂を巧みに流す。浪人たちの間に再起の機運を煽り、町人や商人には「戦になれば商いの機会も増える」と耳打ちする。牢人衆の集まりにも顔を出し、「今はまだ時を待て。だが、いざという時は、力を貸してほしい」と結束を促していた。
茶屋に戻ると、勝永は静かに盃を傾けながら言った。
「無駄な死はご免だ。武士として生き残る道があるなら、力を貸す。だが、戦の火種はまだ静かに燻っている。秀頃公が本気で動くなら、我らも腹を決めねばならぬ」
又兵衛は苦笑し、
「毛利家もまた、表向きは徳川に従いながら、内心では機を窺っている節がある。大名たちは皆、家を守るために仕方なく従っているのだろうが……義や誇りは、どこへ消えたのかと思うこともある。浪人の身は肩身が狭いが、いずれ大坂に集う時が来るやもしれぬ」
重成は若き瞳に決意を宿し、
「大名方が動かぬ限り、我らも軽々しく動けぬ。だが、秀頃公が本気で動けば、あの連中もまた態度を変えるやもしれぬ。今はただ、時を見極めるしかない」
炭火の赤い光が、四人の顔を静かに照らしていた。
その酒席の隅に、明石全登が静かに座していた。盃には手を伸ばさず、炭火の揺らめきに顔を照らされながら、無言で四人のやりとりを見つめている。その眼差しは鋭くも、どこか遠くを見ているようで、口を開くことはない。信仰に根ざした沈黙、己の立場を語らぬ謎めいた存在――だが、時折、炭火の赤い光が瞳に映るとき、何かを見極めようとする静かな意志が感じられた。
盛親がふと明石に目を向けるが、明石はただ静かに頷くだけ。その仕草に、四人は言葉を止め、
『この男が動く時こそ、何かが始まる』
と、誰ともなく胸の奥で思うのであった。
外では、雪混じりの風が城下の屋根を叩き、茶屋の奥には、浪人たちの静かな決意と、盛親の工作、明石全登の沈黙がひそやかに息づいていた。
同じ夜、大坂城奥御殿の広間。
障子の外では雪がしんしんと降り積もり、城内は静かな緊張に包まれていた。
淀殿を上座に、大蔵卿局、大野治長・治房兄弟、塙団右衛門らが卓を囲んでいる。
広間の中央には、城の見取り図や兵糧の帳簿、武具の目録がずらりと並んでいた。
大野治長が帳簿を手に、胸を張って言う。
「兵糧米、蔵に三十万石。乾物や味噌、塩も十分に備えております。これだけあれば、籠城で勝てまする。徳川とて、易々と攻め落とすことはできませぬ」
治房が続けて、
「武具も槍・鉄砲・弓矢、いずれも数万。火薬も堺や伏見から密かに買い入れております。城の石垣も修繕を終え、堀も深く掘り直しました」
塙団右衛門は拳を握りしめ、声を張る。
「牢人衆、城下に集まる者およそ一万五千。加えて、城内の侍・足軽を合わせれば、二万を超えましょう。いざとなれば、我ら浪人衆が城外に打って出て、敵の背後を突きまする。味方も増えるはず――福島殿や前田殿も、いずれ我らに加わるやもしれませぬ!」
大蔵卿局は誇り高く頷き、
「豊臣の世は、まだ終わりませぬ。女も子も一丸となって、この城を守り抜きましょう」
ここで、治長が見取り図を指しながら、
「この大川を挟めば、敵は絶対に越えられませぬ。水際に鉄砲隊を並べれば、徳川勢も手も足も出ぬでございましょう」
治房は茶臼山の位置を指し、
「茶臼山に大軍を配置すれば、敵の主力は容易に蹴散らせまする。あの丘は、我らが睨みを利かせるに最適の地にございます」
塙団右衛門はさらに声を張る。
「城の南は堀が深く、敵は近づくことすら叶いませぬ。北は大川、東は森、いずれも我らの守りに有利な地形。徳川方がいかに大軍を集めようとも、ここ大坂城にて討ち果たしてみせまする!」
大蔵卿局は微笑み、
「いざとなれば、女たちも炊き出しや看護に励み、兵の士気を高めましょう。この城に集う者、皆が一丸となれば、敵など恐るるに足りませぬ」
淀殿は満足げに扇を静かに動かし、
「皆の働き、まことに頼もしい。この城を守り抜き、豊臣の名を後の世に残すのだ」
会議の空気は、次第に楽観的な色を帯びていく。
誰もが、城の堅さと備えの充実、そして根拠なき期待に自信を深めていた。
広間の外では、雪がしんしんと降り積もっていた。その静けさの中、豊臣家の慢心と、やがて訪れる運命の嵐は、まだ誰にも見えていなかった。
駿府城、冬の朝。
障子越しに冷たい光が差し込む広間に、家康は静かに座していた。
本多正純が無言で進み出て、几帳面に書き記した報告書を差し出す。家康はそれを受け取り、目を通すと、
「左様か。分かった、下がってくれ」
と、短く告げた。
正純が静かに下がると、家康は報告書を膝の上に置き、遠く駿河湾の波を見やった。
――大坂では、淀殿が密かに戦乱の準備を進めている。浪人衆を集め、兵糧や武具を蓄え、城の奥では密やかな策謀が渦巻いている。
だが、秀頃は未だその動きに気づかず、千姫や側室たちと穏やかな日々に心を委ねている。表向きは泰平、だがその実、城の奥底には火種が積み重なりつつある。
家康は静かに息を吐き、
「秀頃よ……余は、そなたに期待しておる。このまま平和の中に酔い続けるなら、豊臣も、そなた自身も、滅びるほかあるまい。だが、もし己の足元の毒に気づき、真に乱世を生き抜く力を示すなら――余は、そなたを徳川の後継として認める覚悟もある」
家康の眼差しは、波の彼方に鋭く向けられていた。
「武力で豊臣家を滅ぼすことは、徳川家にとっても大きな痛み。民の心は乱れ、千姫も不幸となる。できることなら、平和のうちに事を収めたい。そなたが自ら目を覚まし、城の毒を断ち切ること――それこそが、余の願いであり、帝王の愛にございます」
ふと、家康の胸に憂いがよぎる。
「もし、そなたがこの試練を乗り越えられぬなら……可愛き孫娘も、巻き添えとなる。千姫の幸せを願うがゆえに、余は豊臣の行く末を見守るしかない。愛屋及烏――そなたのために、余は鬼にもなろう」
家康は、波の向こうに秀頃と千姫の姿を思い描き、静かに目を閉じた。
冬の駿河湾に響く波音が、老将の心の奥底に眠る複雑な情愛を、静かに包み込んでいた。
紀伊九度山、冬の朝。
庵の外には雪がうっすらと積もり、竹林が山風に揺れている。
囲炉裏の火がぱちぱちと音を立て、庵の中には家族と家臣たちの息遣いが満ちていた。
庭先では、信繁が長男・幸昌と次男・守信に木刀を手渡し、
家臣たちがその稽古を見守っている。
堀田作兵衛は、背が高く骨太な体つきで、顔は日に焼けて浅黒く、眉が太い。
粗末な木綿の着物に身を包み、袖口は何度も繕われている。
無骨な手で薪を割りながら、時折幸昌の手元をじっと見つめ、
「大助、手首の力を抜かれませ。殿の型をよくご覧あれ」
と、実直な口調で助言を送る。
河原綱家は、やや小柄で、目元に優しさが滲む。
髪は短く、額に細かな皺が寄る。
着物は色褪せているが、襟元はきちんと整えられている。
守信の動きを見て、
「左馬助様、踏み込みが浅うございます。もう一歩、前へ」
と、柔らかな笑みを浮かべながらも、細やかな指導を惜しまない。
三井清兵衛は、痩身で指先が細く、手先の器用さが見て取れる。
古びた帯を締め、腰には小刀を差している。
壊れた木刀を手際よく修理し、
「これでまた稽古が続けられますな」
と、物静かに語る。
三好幸信と三好政康の兄弟は、どちらも丸顔で、頬が赤い。
兄は肩幅が広く、弟はやや細身。
二人とも野良着姿で、袖口には土の色が染みついている。
畑仕事を終えて庵に戻り、
「今朝は大根がよく採れました。昼餉に使いましょう」
と、明るく声をかける。
庵の中では、竹林院が娘たち――阿梅、阿菊、阿松――とともに、
色とりどりの糸を手に真田紐を編んでいる。
その傍らには、信繁の側室たち――高梨の娘・おこう、明るいおたつ、しっかり者のおまき――も静かに座り、手を動かしていた。
竹林院は、落ち着いた所作で糸を撚りながら、娘たちに優しく手本を示す。
「この結び目をしっかりと――ほら、こうすると丈夫になります」
阿梅は母の手元を真剣に見つめ、阿菊と阿松は姉や母に甘えながら、指先に集中している。
おこうは物静かで几帳面、細やかな作業を得意とし、
「奥方様、阿梅様の手つきが随分と上達されましたね」
と、控えめながらも周囲をよく見ている。
おたつは庵の中でもよく笑い、
「阿松、ここをもう少し強く引いてごらんなさい。ほら、上手にできたわ」
と、幼い娘たちの手を優しく導く。
おまきは家事や炊事を率先して手伝い、
「皆で作った紐は、きっと家の守りとなります」
と、実用的な視点で庵の暮らしを支えている。
家臣の妻や娘たちも加わり、
「この紐は、いざという時に役立ちますから」
「戦の備えも、女の手から始まるのですね」
と、静かに語り合いながら、手を動かしていた。
竹林院は、ふと手を止め、遠い昔のことを思い返す。
――かつては武家の娘として、京や信濃の屋敷で華やかな日々を過ごした。
絹の衣、賑やかな宴、季節ごとの贈り物。
けれど今、九度山の庵で粗末な着物に袖を通し、
家族や家臣、側室たちと肩を寄せ合いながら、寒さや飢えに耐える日々を送っている。
それでも、家族と共に困難を乗り越える力が自分の中にあることを、
竹林院は誇りに思っていた。
「皆が力を合わせてくれるからこそ、この地でも心強うございます」
と、感謝の気持ちを込めて微笑む竹林院。
おこうもおたつもおまきも、
「奥方様のお心遣いがあるから、私たちも安心して働けます」
「皆で作った紐は、きっと家の守りとなります」
と、穏やかに応じる。
糸の擦れる音と、時折交わされる小さな笑い声が、
庵の中に静かな温もりを広げていた。
寒さを忘れさせるような、男たちの武芸と女たちの手仕事――
それは、九度山の厳しい暮らしの中で、それぞれの役割が、寒さの中に温かな絆を織りなしていた。
信繁は、庭先から庵の中を見やり、
家族と家臣、そして子供たちの姿に目を細める。
「この日々こそ、何よりの宝……」
と、心の奥で静かに思うのであった。
庵の外では、竹林が風に揺れ、
雪解けの水が小さな流れとなって土を潤し始めていた。
遠くの山肌には、淡い霞がかかり、
空の色もどこか柔らかさを帯びている。
深夜の大坂城、奥御殿。
秀頼は、千姫の寝所でふと目を覚ました。
障子越しに月の淡い光が差し込み、静寂の中に遠く雪の気配が漂っている。
腕の中には、安らかな寝顔の千姫。
だが、秀頼の胸は激しく波打っていた。
夢の中で見た、城が炎に包まれ、家族や家臣が叫び声を上げる光景――
母・淀殿は無表情のまま最期を迎え、
千姫は家臣たちに強引に引き離され、
国松は処刑され、奈阿は泣きながら寺へ送られていく。
そして、夢の最後――
秀頼は静かに座し、短刀を腹に突き立てる。
傍らには毛利勝永が控え、秀頼の苦痛を悟ると、
無言で刀を振り上げ、主君の首を一閃で落とした。
血の匂いと、勝永の沈痛な表情が、夢の中であまりにも鮮烈に焼き付いた。
秀頼は、千姫の温もりを確かめるようにそっと抱き寄せ、静かに涙をこぼした。
頬を伝うその一筋の涙は、夢の衝撃と、
「この悪夢を決して現実にしてはならぬ」という、新たな決意の証でもあった。
千姫の寝息が静かに響く中、秀頼はもう一度、彼女を優しく抱きしめる。
夜の静けさの中で、未来への誓いだけが、彼の胸に静かに灯っていた。
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