秀頼に迫られた選択〜トヨトミ・プリンスの究極生存戦略〜

中野八郎

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第一部 大坂の変

第八章 破滅への足音

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 広間に張り詰めた空気が満ちていた。
 障子越しの秋光が畳を淡く照らし、灯火の揺らめきが武士たちの影を長く伸ばす。

 上座には秀頼が静かに座し、その傍らには淀殿――豊臣家の象徴ともいうべき存在が、鋭い眼差しで一同を射抜いていた。
 その視線は、言葉よりも重く、広間の空気をさらに硬くする。
「戦わずして何が武士か!」
 塙団右衛門が拳を畳に叩きつけ、声は雷鳴のように響いた。
「徳川に屈するは豊臣の恥!籠城こそ我らの誇りぞ!」
 その言葉に、後藤又兵衛が膝を乗り出し、血走った眼で応じる。
「この城は難攻不落!戦えば必ず勝てる!徳川など恐るるに足らぬ!」
 怒号が重なり、畳を打つ音が広間に響き渡る。
 淀殿の声が鋭く空気を裂いた。
「その通りじゃ!豊臣の名を辱めること、決して許してはならぬ!
 籠城こそ安全、戦こそ誇り――これが我らの道ぞ!」
 その言葉には、母としての執念と、家の誇りを守ろうとする烈しさが滲んでいた。
 彼女の袖がわずかに震え、灯火に映る影が壁に大きく揺れる。

 対する和睦派、片桐且元は必死に声を張り上げる。
「戦になれば、城も民も滅びる!泰平を乱すことこそ、豊臣の名を汚すもの!
 大御所様はまだ和を望んでおられる。ここで血を流せば、天下は再び乱れるのだ!」
 その声は震え、膝の上の手は汗に濡れていた。
 だが、その必死の言葉は、怒号の渦に呑まれていく。
「戯言を!」
 塙団右衛門が嘲笑し、広間の空気はさらに荒れる。
「泰平?笑止千万!徳川の下風に立つくらいなら、死を選ぶまで!」
 畳を打つ音、怒号、嘲り――広間は戦場のような騒然さに包まれた。

 その中で、改革派の面々は沈黙を守っていた。
 真田信繁は静かに膝を正し、冷ややかな眼差しで議論を見つめる。
 毛利勝永は腕を組み、灯火の影に沈む横顔に、無駄な死を嫌う決意を刻んでいた。
 長宗我部盛親は、家名を思いながらも、唇を固く閉ざす。
 そして、明石全登――
 彼はただ、十字架を握りしめ、俯いたまま一言も発しなかった。
 灯火に映るその横顔は、祈りにも似た沈黙を湛え、広間の喧騒とは別世界にいるかのようだった。

 上座の秀頼は、黙して議論を見つめていた。
 視線は遠く、心中で呟く。
『この者たちは、誰のために争っているのか……
 余が決断せねばならぬのに、声ばかりが響く……』
 胸の奥に、呆れと虚しさが静かに広がっていく。
 灯火の炎が揺れ、その影が秀頼の顔に複雑な陰影を落とした。

 やがて、怒号が頂点に達した瞬間、秀頼がゆっくりと立ち上がった。
 広間に沈黙が落ちる。
「……」
 若き城主の視線が、主戦派と和睦派をゆっくりと掃き、最後に明石全登の沈黙に留まった。
 その沈黙こそ、秀頼の胸に重く響いていた。


 広間を後にし、秀頼は一人、奥御殿の静けさに身を沈めていた。
 灯火が揺れ、障子越しに秋の光が淡く差し込む。
 その光は穏やかでありながら、胸の奥の不安を照らし出すようだった。

『……あの夢を思い出す。
 一度きりの夢――だが、あまりにも鮮烈で、今も胸を締め付ける。
 炎に包まれる城、母の無表情、千姫の絶叫、国松の小さな背中……
 そして、余の前で血が流れ、勝永の沈痛な眼差しが余を見下ろす。
 あれは夢だ。だが、夢で終わる保証はどこにもない。』
 秀頼は膝の上で拳を握りしめる。
『徳川と和睦すれば、城も民も救える――それは分かっている。
 だが、母の声が耳に残る。「豊臣は屈せぬ」「籠城こそ誇り」――
 その言葉に逆らう勇気が、余にはまだ足りぬのか。
 戦えば血が流れる。和を選べば、母の誇りを踏みにじる。
 余の決断ひとつで、すべてが壊れるかもしれぬ。
 いや……壊れるのは、母の信じる世界か。
 それでも、余は……』

 灯火が揺れ、影が壁に伸びる。
 その影は、まるで炎に包まれた城の幻のように、秀頼の目に映った。
『必ず道を見つける。
 血を流さず、皆を守る道を――
 そのために、余は立たねばならぬ。
 母の影に怯えていては、何も変わらぬ……』

 遠くから響いた声が、静かな廊下を渡って秀頼の耳に届いた。
「殿……」
 その声は、秋風のように柔らかく、しかし震えていた。
 秀頼がゆっくりと顔を上げると、千姫の姿が障子越しの光に浮かんでいた。
 白い小袖に身を包み、細い影が畳に長く伸びている。
 彼女は一歩、また一歩と近づき、その足音が静寂を切り裂くたび、秀頼の胸に重く響いた。
「殿……」
 千姫は言葉を探すように唇を震わせ、やがてそっと秀頼の袖に手を伸ばした。
 その指先は冷たく、しかし確かな力を込めていた。
「どうか……ご無理はなさらぬでくださいませ。
 御身を損なえば、皆が……私が、悲しゅうございます。」

 秀頼は視線を落とし、袖に触れるその手を見つめた。
 灯火の揺らめきが二人の影を重ね、障子越しの秋空が淡く光を注いでいる。
 胸の奥で、先ほどまで荒れ狂っていた思考が、わずかに静まっていく。
『母の声が余を縛る。徳川の影が迫る。
 だが、この手の温もりだけは、余を現実につなぎ止めている……』
 千姫はさらに言葉を重ねた。
「殿、どのような道を選ばれようとも、私は殿の傍を離れませぬ。
 どうか……お一人で苦しまれぬように。」
 その声は震えていたが、瞳には揺るぎない覚悟が宿っていた。
 秀頼は深く息を吐き、袖に触れるその手にわずかな力を返した。
 その瞬間、灯火が静かに揺れ、二人の影が畳に重なった。


 秋の陽が庭園を柔らかく照らし、紅葉が風に舞っていた。
 池の水面には金色の光がきらめき、遠くで鶴の声が響く。
 縁側には女性たちが並び、湯気の立つ茶器を囲んでいた。
 笑みを交わしながらも、その奥には言葉にできぬ不安が潜んでいる。
 お奈津は、袖を整えながら静かに口を開いた。
「……殿のお顔、今朝はひどくお疲れでございましたね。」
 その声は上品で、どこか遠慮がちだった。
 お藤が扇を閉じ、低く応じる。
「評定の空気は重うございました。……戦か、和か。
 けれど、殿のお心はきっと泰平を望んでおられるはず。」
 その瞳には、聡明さとわずかな憂いが宿っていた。
 竹林院は、湯を注ぎながら穏やかに微笑む。
「秀頼様も、信繁様も……皆、家族を守りたいだけなのでしょうね。」
 その言葉に、おこうが柔らかく頷く。
「ええ……けれど、守るための道が、あまりにも険しゅうございます。」
 おたつが、少し声を弾ませる。
「でも、殿方は強いもの!きっと良き道を見つけてくださいますわ!」
 その明るさに、おまきが苦笑しながら扇で口元を隠す。
「楽観も時には薬ですが……現実は、そう甘くはございません。」

 女性たちの言葉が交錯する中、庭では子供たちが遊んでいた。
 庭の一角で、子供たちの笑い声が弾んでいた。
 国松は小さな木剣を振り回し、庭石の上に飛び乗ると、得意げに声を張り上げる。
「見よ、敵を退けるのはこうするのだ!」
 その姿に、奈阿姫が両手を叩いて笑った。
「兄上、かっこよい!」
 阿梅は少し離れた場所で紅葉を拾いながら、くすりと笑う。
「まあ、国松様は勇ましゅうございますね……でも、転ばぬように。」
 その言葉に国松は一瞬動きを止め、顔を赤らめて木剣を握り直した。
「余は転ばぬ!阿梅、見ておれ!」
 声には幼い誇りが宿っていた。

 守信は池のほとりで石を投げ、水面に波紋を広げている。
「ほら、阿菊、阿松、見よ!魚が驚いて逃げた!」
 阿菊は笑いながら裾をたくし上げ、池に近づこうとする。
「わたしもやってみたい!」
 阿松は小さな手で必死に石を握り、兄の真似をしようとするが、石は足元にぽとりと落ちた。
「……あれ?」
 その様子に、皆が笑い声を上げる。

 阿梅は紅葉を国松に差し出した。
「この葉、兜に似ておりますわ。国松様に似合いそう。」
 国松は目を丸くし、紅葉を受け取ると、胸の奥に不思議な熱が灯った。
「ありがとう……余が大将になったら、阿梅を……」
 言葉は途中で途切れ、国松は顔を赤らめて目を逸らす。
 阿梅もまた、頬を染め、袖で口元を隠した。
 庭の風が二人の間を渡り、紅葉の葉がひらりと舞い落ちる。
 その一瞬、世界が静かに二人だけを包んだ。

 奈阿姫が駆け寄り、阿梅の手を引いた。
「阿梅様、わたしも兜がほしい!」
 阿梅は笑みを取り戻し、奈阿姫の髪に紅葉をそっと挿した。
「まあ、奈阿姫様にはこちらが似合いますわ。」
 奈阿姫は嬉しそうに頷き、国松を振り返る。
「国松様、わたしも戦に出ます!」
 国松は木剣を高く掲げ、声を張り上げた。
「ならば、皆で豊臣を守るのだ!」
 国松の声が庭に響き、子供たちの笑い声が重なった。

 その光景を縁側から見守っていた女性たちは、しばし言葉を失い、やがて静かに視線を交わした。
 お奈津が扇を傾け、低く呟く。
「……守るべきものは、城だけではございませんね。」
 お藤がその言葉に応じ、声を潜める。
「ええ……泰平を望む殿のお心を、誰が支えられるのか――それが、すべてを決めるのでしょう。」
 竹林院は湯を注ぎながら、遠くで遊ぶ阿梅の笑顔を見つめ、静かに言った。
「子らの未来を守るために、血を流さぬ道を選べるのなら……」
 おまきが扇で口元を隠し、冷ややかに言葉を添える。
「……けれど、声高に誇りを語る者ほど、血を求めるものです。」
 おこうは小さく息を吐き、阿松を抱き寄せながら呟いた。
「どうか……嵐が来る前に、殿が正しき道を見つけてくださいますように。」
 おたつが、わずかに笑みを浮かべながらも、声を震わせた。
「……嵐は、もう庭の外に迫っているのかもしれませんね。」
 湯気の向こうで交わされたその言葉は、庭の笑い声とは裏腹に、重く沈んだ影を帯びていた。


 秋風が天守の高みを渡り、庭園の紅葉を遠くに染めていた。
 眼下には、子供たちの笑い声が小さく響く。国松が木剣を振り、奈阿姫が駆け回り、阿梅が紅葉を差し出す――その光景は、戦の影を忘れさせるほど穏やかだった。

 秀頼は欄干に手を置き、しばし黙して庭を見下ろしていた。
 やがて、低く口を開いた。
「……余は、戦など望んでおらぬ。」
 その声は風に溶けるほど静かだった。
「母は誇りを守れと申す。家臣は武を示せと迫る。
 だが、余が守りたいものは――あれだ。」
 秀頼の視線が庭に注がれる。
 国松の笑顔、奈阿姫の無邪気な声、阿梅の柔らかな仕草。
「家族だ。子らの笑顔だ。
 血を流さず、この笑顔を守る道があるなら……余は命を賭してでも選びたい。」
 秀頼は欄干を握りしめ、声を震わせた。
「だが、母の声は重い。
『豊臣は屈せぬ』『籠城こそ誇り』――その言葉に逆らう勇気が、余にはまだ足りぬ。
 誇りを守るために血を流すなど、愚かと分かっていても……母の影は鎖のようだ。」

 信繁はその言葉を受け、深く息を吐いた。
「殿……そのお心、痛いほど分かります。」
 彼の視線もまた、庭に向けられる。
 阿梅の笑顔に、十四年の蟄居で守り抜いた家族の記憶が重なる。
「余も同じです。戦で名を立てることなど、もはや望みませぬ。
 ただ、子らに未来を残したい――それが、余のすべて。」
 信繁は一歩、秀頼に近づき、声を低めた。
「殿……この思いは、余だけではございません。
 毛利勝永も、長宗我部盛親も、明石全登も――皆、血を流さぬ道を望んでおります。
 戦を避けるためなら、誇りを捨てる覚悟もある。それほどに、家族を守りたいのです。」
 秀頼の瞳がわずかに揺れた。
 信繁はさらに言葉を重ねる。
「もし殿が決断を下されるなら、余らはいつでも殿の意思で動きます。
 その時こそ、豊臣の未来を変える時――余は命を賭して殿に従います。」

 秀頼は信繁を見つめ、長い沈黙の後、わずかに笑みを浮かべた。
「……そなたがいてくれて、余は救われる。」
 その言葉は、秋空の下で静かに消え、庭の笑い声が遠くで響いていた。
 幸昌は少し離れた場所で、黙って父の背を見つめていた。
 その眼差しには、幼いながらも何かを悟るような光が宿っていた。


 寒風が吹き抜ける仮設の陣屋。
 白布を張った簡素な壁越しに、冬の光が淡く差し込み、外では槍の穂先が並び、馬の嘶きが遠くに響いていた。

 その静けさを破ったのは、早足で進み出た使者の声だった。
「大御所様――数日前に九度山を脱した真田信繁、昨夜、大坂へ入城したとの報にございます。」
 家康の手が、膝の上でわずかに止まった。
 扇を閉じる音が、陣屋に低く響く。
「……真田信繁が、か。」
 その声は穏やかでありながら、底に鋭い光を潜ませていた。
 本多正純が一歩進み出て、低く問う。
「大御所様、いかがなさいますか。
 信繁は、かつての戦で名を馳せし猛将――その入城は、浪人衆をさらに煽りましょう。」
 家康は白布の隙間から外を見やり、遠く京の方角を見つめた。
「……十四年の蟄居を経て、なお牙を失わぬか。
 あの男が動いたということは、大坂の空気が変わった証よ。」
 正純は声を潜め、さらに言葉を重ねる。
「方広寺の鐘銘を巡る騒ぎに続き、これで浪人どもは血を求めるでしょう。
 戦は、もはや避け難きものかと。」
 家康は長い沈黙の後、扇を静かに膝に置いた。
「……戦を望む者は多い。だが、余はまだ一縷の望みを捨てぬ。
 秀頼が己の意志でこの嵐を鎮めるなら――それを見極める時が来た。」
 正純が深く頭を垂れる。
「御意。されど、備えは怠りませぬ。」
 家康の眼差しは、白布越しの冬空を鋭く射抜いていた。
「諸大名に伝えよ。いかなる時も出陣の支度を怠るな。
 天下の行く末、今こそ見極める時ぞ。」

 その声は、寒風に乗って陣屋を震わせ、戦の影が濃く迫るのを告げていた。


 大坂城・広間。
 障子越しに冬の光が差し込み、畳に長い影を落としていた。
 広間には重苦しい空気が満ち、武将たちの視線が交錯する。

 淀殿が上座に座し、その傍らに秀頼。
 片桐且元は膝を正し、深く頭を垂れたまま、声を絞り出した。
「大御所様よりの返答、確かに承りました。
 徳川方の条件は――大坂城の破却、秀頼様の江戸御移り、そして御台様のご同行にございます。」
 広間にざわめきが走る。
 塙団右衛門が拳を畳に叩きつけ、怒声を上げた。
「戯言を!城を捨て、殿を人質に差し出せとは、豊臣の誇りを踏みにじるもの!」
 後藤又兵衛も声を荒げる。
「戦を避けるためとはいえ、これほどの屈辱、受け入れられる道理はない!」
 片桐は必死に言葉を重ねる。
「されど、戦となれば城も民も滅びます。
 和睦の道を探るため、我らは条件を示しました――
 秀頼様の身分と家格の維持、大坂城の保持、豊臣家の権威を守ること。
 しかし……徳川方は一歩も譲らぬ。」
 淀殿の声が鋭く響く。
「当然じゃ!豊臣は徳川の下風に立つものではない!
 城を捨てるなど、死しても許さぬ!」
 広間の空気はさらに張り詰め、怒号が重なった。
「戦だ!籠城して徳川を退ける!」
「和睦など臆病者の戯れ言!」
 片桐は沈黙し、やがて深く頭を垂れた。
 その背に、無念の影が濃く落ちる。
『これ以上、城に留まれば、血の海を避ける道は閉ざされる……』
 彼は静かに立ち上がり、広間を後にした。
 その足音は、豊臣家の運命が戦へ傾く音のように、重く響いていた。

 秀頼は欄干に視線を落とし、庭の紅葉を見つめていた。
 その胸に去りゆく片桐の背が焼き付き、言葉にならぬ焦燥が広がっていく。
『……このままでは、取り返せぬことになる。
 母の声に押され、誇りを守ると叫ぶ者たちに囲まれ――
 余は、ただ座して嵐を待つしかないのか。』

 視線が庭に落ちる。
 紅葉が風に舞い、子供たちの笑い声が遠くで響いていた。
 その光景が、かえって胸を締め付ける。
『守りたいのは、この笑顔だ。
 だが、戦になれば……』
 その時、脳裏にあの夢がよみがえった。
 炎に包まれる城、母の無表情、千姫の絶叫、国松の小さな背中――
 そして、自らの前で血が流れ、勝永の沈痛な眼差しが余を見下ろす。
 あまりにも鮮烈なその記憶が、現実の影となって迫ってくる。
 秀頼は膝の上で拳を握りしめた。
 指先が白くなるほど力を込めても、胸の奥の震えは止まらない。
『……何としても、あの惨劇だけは避けねばならぬ。
 だが、母の影は鎖のように余を縛る。
 この鎖を断ち切る勇気が、余にあるのか――』

 灯火が揺れ、広間の影が長く伸びる。
 その影は、まるで炎に包まれた城の幻のように、秀頼の目に映っていた。
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