笑いの授業

ひろみ透夏

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【高城の章】

7 ピエロの笑顔(2)

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「先生、すぐそばにいるよ」


 高城たかぎの全身に、電気が流れたような衝撃が走る。
 思わず抱えていた女子生徒を投げ出して、飛び跳ねるようにその場から離れた高城たかぎは、すばやく廊下を見渡した。
 しかし、どこにも神楽坂かぐらざか先生らしき人影なんてない。

「すぐそばって、どこ?! 脅かすなよ、どこにもいないじゃんか!」
 辺りに視線を走らせながら叫んだ、そのとき――。


「でで~ん! 高城たかぎくん、アウトーッ!」


 いきなり背後から聞こえた、明るくて大きな声。
 驚いて振り返ると、さっきの女子生徒が廊下に立っていた。
 血まみれの顔に、細い銀縁の眼鏡をかけながら続ける。


「……わたしが、先生でした」

 とつぜんの出来事に、高城たかぎはパニックにおちいるより先に、神楽坂かぐらざか先生が着ている制服の、胸の名札を確認した。
 そこには確かに、佐倉さくらと書かれてある。

「先生、佐倉さくらは……?」

佐倉さくらさんは、もう罰を受けました。制服はもう必要なくなったようなので、先生がもらいました」

 淡々とこたえる神楽坂かぐらざか先生。手には、血に染まったノコギリを握りしめている。

「動かないで! 塚田つかだくん」

 先生の背後で、そっと教室に入ろうとしていた塚田つかだが、びくりと足を止めた。
 振り返りもせず伸ばした手に握られたノコギリが、的確に塚田つかだの喉元をとらえている。

「きみたちもどうせ、ケータイを取りにきたんでしょう? だけど無駄です。
 ……頭のいい塚田つかだくん、まだわからない?」

 先生はじっと高城たかぎを見つめたまま、銀縁の眼鏡に人差し指をそえた。

高城たかぎくんにはヒントを教えたのにね。これは『鬼ごっこ』じゃなく、『缶蹴り』だって。
 ……缶蹴りの缶は、ここです」

 先生がかたわらに置かれた段ボール箱を蹴り上げた。生徒たちから集めた携帯電話が、ばらりと廊下に散らばる。

「いくら逃げ道をふさいだからといって、逃げまわるみんなに罰を与えるのは不可能だもの。言い換えればケータイは釣り針です。ここにおびき寄せて、みんなを釣るためのね」

 先生が得意げに両手を広げた。

「ほら見て! こんなにたくさん、釣り上げたんだから!」

 廊下に転がる生徒たちを見渡しながら、狂ったように高笑いする神楽坂かぐらざか先生。
 力なくしゃがみ込んだ高城たかぎが、そんな先生に向かって、うつろな目で訴えた。

「先生、もとの先生を返してください。明るくて面白い、俺が大好きだった、本当の神楽坂かぐらざか先生を……」

 高城たかぎの脳裏に、おばあさんが着るような、ふわふわで温かそうなカーディガンに身を包んでやさしく微笑んでいる、神楽坂かぐらざか先生の姿が浮かぶ。
 変わり果てた目のまえの先生の姿に、ぽろりとひとつぶ、涙がこぼれた。

高城たかぎくん、先生が別人に見えるの? 確かに先生は変わったように見えるかもしれない……。だけど本当は、なにも変わっていないのよ」

 神楽坂かぐらざか先生の狂喜じみた笑顔が、少しずつ消えていく。

「見て、高城たかぎくん」

 先生は廊下の壁を彩っている、文化祭のにぎやかな飾り付けを指さした。
 その中心にあるのは、おかしな顔で舌を出す、巨大なピエロ。
『世界に広げよう、笑顔の輪』というスローガンのもと、一年生が共同で制作したオブジェだ。

 昼間の鮮やかな色彩は失せ、黒とブルーの陰影で浮かび上がる夜のピエロは、なんとも哀しげな表情で舌を出している。

「不思議よね。昼間見ると、あんなにおかしなこのピエロも、夜の闇のなかで見ると、こんなにも哀しそうな表情に変わるのよ。ほっぺの星印がまるで涙みたい……。でもピエロは、なにも変わっていないのよ」

 尖った視線を高城たかぎに移しながら、先生が続ける。

「わたしたちが決めつけていただけじゃない? ピエロは笑っていい存在だって……。明るくて面白い、みんなのおもちゃだって……。
 ほんとは心のなかで泣きながら、無理して笑っているかもしれないのに……」

 神楽坂かぐらざか先生が、ゆっくりと一歩ずつ、くずおれている高城たかぎに近づいてくる。


「ねぇ高城たかぎくん。そうゆうことをさぁ……」

 振り上げたノコギリが、月明かりを受けてぎらりと光る。


「ちょっとは、考えたことあるわけっ?!」


 怒鳴り声を校舎じゅうに響かせながら、先生は手に持ったノコギリをいきおいよく振り下ろした。
 まるでスローモーションのように近づいてくる、銀色に輝くノコギリの歯をじっと見つめながら、高城たかぎはもうすっかり覚悟を決めていた。

神楽坂かぐらざか先生をここまで追い詰めたのは、この俺だ。
 こんなに冷たい廊下にみんなが倒れているのに、俺だけが無事でいいはずがない。
 みんなと一緒に、ここで終わろう)

 そう覚悟して、目を閉じようとした瞬間。
 目の前まで垂直に降りてきた銀色のノコギリが、直角に移動して廊下の壁に叩き付けられた。


「行け、亮介りょうすけ! 屋上へ逃げろ! そこに逃げ道がある!」

 塚田つかだが、うしろから先生を羽交い締めにしたのだ。
 神楽坂かぐらざか先生は、いまにも塚田つかだの巨体をふり飛ばしそうないきおいで、狂ったように暴れている。
 銀縁の眼鏡の奥からのぞく鋭く尖った視線だけが、ぴたりと高城たかぎを睨みつけていた。

「でも、とおる……!」

 立ち上がった高城たかぎが、暴れるふたりをおろおろと見つめる。

「俺は平気だ。いいから行け、亮介りょうすけ! 先生の言葉を思い出せ! 答えはそこにある!」


 高城たかぎは戸惑う気持ちを振り払うように踵を返すと、屋上を目指して廊下を走った。



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