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その日、私は診察室の椅子に座りながら、aの血液検査結果を確認していた。
「肝機能、血糖値、血小板、どれも正常だ。安心して大丈夫だよ」
アリピプラゾール、デパケン、リボトリール。私が彼女に処方している薬はこの3つだった。
アリピプラゾールは鬱病や双極性障害などの精神疾患に特化した薬で、気分を安定させる。
デパケンは気分の高まりや興奮に対して働き、衝動性を抑える。
最後のリボトリールは抗不安薬で、眠気を起こすこともあるが、長時間に渡って作用する。
今のaは急性期と比べて、症状は緩和したものの、不安や気分の波などが依然として残っているため、私は症状に合った薬を選んだ。
「入院中は、看護師の方が管理してくれるおかげで、薬の服用をきちんと守れるみたいです」
aは私から紙を受け取り、検査結果の項目を一つ一つ確かめるようにして見ていた。
精神科では、患者が薬を服用する場合、基本的には看護師が目視で確認することになっている。
食後などに、患者が薬を飲むのを目の前で見て、確かに飲んだことを医師に報告するのだ。
患者は薬を口に入れ、水で流し込む様子を観察されるため、薬を吐き出したり乱用のために溜めておくことは難しい。
『薬の適切な服用を守れず、睡眠薬を一度で大量に飲んだことがある』
私はパソコン画面をスクロールし、1年前のカルテに目を通していた。
その時の彼女は不安定で、いわゆる薬の過剰摂取を辞さない精神状態にあった。
当時のaにはやはり強い自殺願望があり、オーバードーズはそれを実行するための行為だったと考えられる。
また、それ以前から彼女の服用はまばらで、医師の指示通りに飲む時もあれば、自身の判断ですぐに止めてしまう時もあった。
入院直後も、彼女はしばらく薬の定期的な服用を躊躇ったが、徐々に慣れてきたのか、現在では指示を守るようになってきている。
「薬を飲み続けていて、調子はどうかな。副作用とか、そういった不具合はあるかい」
私は彼女の方に向き直り、表情を伺った。
aは何か話したそうだが、少し言いにくそうに下を向いた。
「えっと、大きな症状ではありませんが……。少しだけ、日中の眠気が残っています」
「そうか、教えてくれてありがとう。眠気が気になるようなら、少し薬の量を減らしてみようか?」
私は薬の処方を確かめ、リボトリールの減量を彼女に提案した。
「眠気が収まるのなら、それで……」
彼女はほんの少し目を泳がせながら、答えた。
彼女に迷いがあるらしかったので、私は相手をじっと見つめ、声をかけた。
「もし薬の減量について気になることがあれば、ここで遠慮なく話していいよ」
私の言葉に、aは膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
彼女は唇を噛み締めていたが、やがて恐る恐る口を開いた。
「馬鹿みたいな話かもしれませんが、少し不安なんです、薬を減らしても、本当に大丈夫なのか。
リボトリールは、確か緊張や不安を抑えてくれる薬ですよね、副作用は和らぐかもしれませんが、減量でますます不安に呑み込まれたら……。
『不安を自覚している間は大丈夫だ』って、前の医師は励ましてくれました。でも、たとえ自覚していても、不安は執拗につきまとってくるんです。
薬の服用だって、今は看護師の方が見ていてくれますが、退院後は自分で管理しなければいけませんよね。
でも私、自己管理で上手くいった試しがなくて」
aは抑えていた蓋が取れたように、次々と心の内を明かした。
話せば話すほど、彼女は流暢になり、思考が溢れ出すような勢いだった。
私は彼女の苦しげな笑みを見ながら、答えた。
「また以前と同じようなことが起こったらどうしようと、そんな不安があるのかな」
aが私の言葉に身を固め、診察室に沈黙が訪れる。
彼女は言葉に詰まり、口を震わせた。その後、何かを押し殺すようにして真剣な表情を浮かべた。
「変ですよね。義務でも何でもないのに、それに対して義務のようなものを感じるのは」
「そうしなければならないと、強く思う?」私はタイピングを止め、彼女に目を向ける。
aはしばらく俯いていたが、ふと何かを思い出したのか、小さく鼻で笑い、何処か皮肉めいた笑みを見せた。
「……こういう宿命的な思考は、馬鹿の一つ覚えのようなものでしょうね。
あまり心配する必要はないのでしょう。きっと、何かの本で悪知恵をつけてしまっただけです。
所詮、思想家や哲学者の真似事ですよ」
彼女の余裕には、思考を繰り広げているうちに不安からの出口を発見したかのような、そのような背景が見て取れた。
私はカルテを一瞥してから、aに尋ねた。
「この診察の後も、本を読むのかな」
「ここの病院図書館は、ありがたい場所です」彼女は思慮深い表情を浮かべながら、言葉を紡いだ。
「ロシア文学もフランス文学も、私の好きな海外文学が揃っている。
書店ではあまり見かけないような、埋もれがちな本まで。
そういう本を手にしていると、少しだけ幸せを掴めたような気がしてくるんです」
「肝機能、血糖値、血小板、どれも正常だ。安心して大丈夫だよ」
アリピプラゾール、デパケン、リボトリール。私が彼女に処方している薬はこの3つだった。
アリピプラゾールは鬱病や双極性障害などの精神疾患に特化した薬で、気分を安定させる。
デパケンは気分の高まりや興奮に対して働き、衝動性を抑える。
最後のリボトリールは抗不安薬で、眠気を起こすこともあるが、長時間に渡って作用する。
今のaは急性期と比べて、症状は緩和したものの、不安や気分の波などが依然として残っているため、私は症状に合った薬を選んだ。
「入院中は、看護師の方が管理してくれるおかげで、薬の服用をきちんと守れるみたいです」
aは私から紙を受け取り、検査結果の項目を一つ一つ確かめるようにして見ていた。
精神科では、患者が薬を服用する場合、基本的には看護師が目視で確認することになっている。
食後などに、患者が薬を飲むのを目の前で見て、確かに飲んだことを医師に報告するのだ。
患者は薬を口に入れ、水で流し込む様子を観察されるため、薬を吐き出したり乱用のために溜めておくことは難しい。
『薬の適切な服用を守れず、睡眠薬を一度で大量に飲んだことがある』
私はパソコン画面をスクロールし、1年前のカルテに目を通していた。
その時の彼女は不安定で、いわゆる薬の過剰摂取を辞さない精神状態にあった。
当時のaにはやはり強い自殺願望があり、オーバードーズはそれを実行するための行為だったと考えられる。
また、それ以前から彼女の服用はまばらで、医師の指示通りに飲む時もあれば、自身の判断ですぐに止めてしまう時もあった。
入院直後も、彼女はしばらく薬の定期的な服用を躊躇ったが、徐々に慣れてきたのか、現在では指示を守るようになってきている。
「薬を飲み続けていて、調子はどうかな。副作用とか、そういった不具合はあるかい」
私は彼女の方に向き直り、表情を伺った。
aは何か話したそうだが、少し言いにくそうに下を向いた。
「えっと、大きな症状ではありませんが……。少しだけ、日中の眠気が残っています」
「そうか、教えてくれてありがとう。眠気が気になるようなら、少し薬の量を減らしてみようか?」
私は薬の処方を確かめ、リボトリールの減量を彼女に提案した。
「眠気が収まるのなら、それで……」
彼女はほんの少し目を泳がせながら、答えた。
彼女に迷いがあるらしかったので、私は相手をじっと見つめ、声をかけた。
「もし薬の減量について気になることがあれば、ここで遠慮なく話していいよ」
私の言葉に、aは膝の上の手をぎゅっと握りしめた。
彼女は唇を噛み締めていたが、やがて恐る恐る口を開いた。
「馬鹿みたいな話かもしれませんが、少し不安なんです、薬を減らしても、本当に大丈夫なのか。
リボトリールは、確か緊張や不安を抑えてくれる薬ですよね、副作用は和らぐかもしれませんが、減量でますます不安に呑み込まれたら……。
『不安を自覚している間は大丈夫だ』って、前の医師は励ましてくれました。でも、たとえ自覚していても、不安は執拗につきまとってくるんです。
薬の服用だって、今は看護師の方が見ていてくれますが、退院後は自分で管理しなければいけませんよね。
でも私、自己管理で上手くいった試しがなくて」
aは抑えていた蓋が取れたように、次々と心の内を明かした。
話せば話すほど、彼女は流暢になり、思考が溢れ出すような勢いだった。
私は彼女の苦しげな笑みを見ながら、答えた。
「また以前と同じようなことが起こったらどうしようと、そんな不安があるのかな」
aが私の言葉に身を固め、診察室に沈黙が訪れる。
彼女は言葉に詰まり、口を震わせた。その後、何かを押し殺すようにして真剣な表情を浮かべた。
「変ですよね。義務でも何でもないのに、それに対して義務のようなものを感じるのは」
「そうしなければならないと、強く思う?」私はタイピングを止め、彼女に目を向ける。
aはしばらく俯いていたが、ふと何かを思い出したのか、小さく鼻で笑い、何処か皮肉めいた笑みを見せた。
「……こういう宿命的な思考は、馬鹿の一つ覚えのようなものでしょうね。
あまり心配する必要はないのでしょう。きっと、何かの本で悪知恵をつけてしまっただけです。
所詮、思想家や哲学者の真似事ですよ」
彼女の余裕には、思考を繰り広げているうちに不安からの出口を発見したかのような、そのような背景が見て取れた。
私はカルテを一瞥してから、aに尋ねた。
「この診察の後も、本を読むのかな」
「ここの病院図書館は、ありがたい場所です」彼女は思慮深い表情を浮かべながら、言葉を紡いだ。
「ロシア文学もフランス文学も、私の好きな海外文学が揃っている。
書店ではあまり見かけないような、埋もれがちな本まで。
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