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第一部
第八章 藤袴薫る 其の三
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回廊を渡り、家康と大姥局は奥へと進んだ。
桜や紅葉は赤く色づき、山茶花が清々しげに咲いていた。
二人がたどり着いた大姥局の部屋には、多くの酒や箏が並べてある。
「少々散らかっておりますが。」
大姥局が恐縮して家康を招き入れた。
「池上本門寺への寄進物か。」
品々をさらりと見て、家康が上座へゆっくりと座る。
「はい。まもなく御会式でございますゆえ。」
大姥局は答えながら、火鉢の上の鉄瓶の蓋をあげた。
このような宴の時は、いつ湯が足りなくなるかもしれぬゆえ切らさぬようにと、静にも教えておいた。
鉄瓶の中の湯は、ほどよい量で沸いている。大姥局は満足そうに肯いた。
「静、茶を入れる。」
大姥局が、キリッと一声かける。
「はい。ただいま。」
元気よい返事の後、静が道具を横に平伏した。
「失礼いたしまする。」
道具を捧げて入ってきた静が、大姥局より上座に座っていた老人に一瞬驚く。
しかし、福々しい老人のにこにこした笑顔に、静もいつもの愛嬌ある笑顔を返した。
「私はこのお方と話があるゆえ、そなたはしばらく下がっておれ。」
「はい。」
静はえくぼを作ってにっこり笑うと、美しい礼をして下がった。残っていた侍女も後へ続く。
「あれが利勝の拾うてきた娘か。」
家康が興味深そうに、静の去ったあとを眺めていた。
「はい。池上本門寺さまにて。」
大姥局は、急須にお湯を注いで温めている。
「まこと、江に声が似ておるの。」
うーむ。と大御所は唸った。
姿を見せるまで、本当は江ではないかと家康は思っていた。
「さようにございましょう?」
フフフとゆったり笑い、大姥局は急須の湯を捨てる。そのまま流れるように茶筒を封切り、茶葉を入れた。
「で、秀忠が相手しておるのか。」
大姥局に顔を寄せた家康が、声をひそめて好色そうな顔をする。
乳母はビクともせず、湯冷ましに入れた湯を一気に急須に注いで蓋をした。
「繁くというわけではございませぬが。」
「とは?」
冷静な大姥局に家康が続きをねだる。
「月終わりか月始めのお手つきですゆえ。」
瀬戸の薄い茶碗に湯を注ぎながら、大姥局は静かに報告した。
「なるほどの。それではなかなか子もできまい。天の気が少なかろう。」
じれったそうに渋い顔で、家康は肩を落とす。
医術に通じ、女の体を知り尽くした家康である。女子の多くが、新月を迎える頃に月の障りがあること、その前後にはなかなか子を宿さないことをよく知っていた。
「はい。ただ、側室にはせぬと仰せですゆえ、それでよいかと。」
静にはその方が幸せかもしれぬと、大姥局は思っている。
静の笑顔を思い出して柔らかく微笑みながら、茶碗の湯を捨て、きっちりと茶を注ぐと家康の前に置いた。
「……江のためか……。堅いのう……堅すぎて泣けてくるわ。」
家康は老人らしからぬ分厚い手で薄い茶碗を取り、ゆっくりと茶を口に含んだ。
爽やかな香りが鼻をくすぐり、甘味が口いっぱいに広がる。
「うむ。うまい。そなたの入れる茶は天下一じゃ。」
「おそれいりまする。」
大御所が寛いだ笑顔で誉めると、大姥局も同じ笑顔で軽く礼をした。
「しかし、子は欲しいのう。」
「は?」
続く家康の呟きがなにを指すのか解らず、大姥局は珍しく無礼に返した。
「利勝のような子じゃ。竹千代が継ぐにしろ、国松が継ぐにしろ、そういう子が欲しい。」
茶碗をくるくると手の中で回しながら、家康は虎のような目を大姥局に向けた。
「竹千代さまには、三十郎がおりまする。」
大御所の徳川を思う心を理解しながら、乳母はそら恐ろしくも感じる。
「ふむ。賢い小姓じゃときいておるがの。」
家康が茶で少し喉を潤した。
「三十郎にしても、竹千代と共に将軍家の中で育つ。」
ゆったりした大御所の言葉に、大姥局は(あぁ、)と察した。
「確かに、若君様がたが上様のように人質に出されることはございませぬな。」
人質にされるのは悪い面ばかりではない。
他家の家風、人との付き合い方をはじめ、辛抱の仕方から難癖をつけられたときの処し方まで、否応なく学ばされる。人を見る目も養えるし、人脈もできるのだ。
「そうじゃ。外で育つのが大事なのよ。大姥、孕んだら生ませよ。」
家康は厳しい口調で大姥局に命令し、また一口口に含んだ。
「したが上様なら、前のように屋敷を与え、切り離してしまわれるかと。」
困り顔の大姥局は、江よりも先に若君をあげた女を思い出している。秀忠は、なつばかりでなく、若君の長丸さえさっさと城外へ追い出してしまった。
家康は茶の余韻を楽しむように軽く舌打ちをし、茶碗をゆっくり茶托へと置く。
「まぁ、そうじゃろうな。それゆえ、それを逆手に取ればよい。庇護してくれそうなところを、今のうちに探しておくのじゃ。」
フフと笑い、家康はこともなげに指示する。
あの時は、若君として育てることしか考えなかったから、大姥局は秀忠に猛反対した。しかし、結果的には押し切られ、城の外に出したのである。
側室にしないのが端から判っているのならば、今度は事前に預けるところを決めておけ。と、大御所は言うのだ。
まだ子を産むどころか、宿してもいない。
それでもその準備をせよと、家康は命じるのであった。
大姥局は改めて、徳川家康という男の策略の深さ、用意周到さに畏れ入った。
海辺を渡る松風のような湯の沸く音だけが部屋に流れる。
大姥局は鉄瓶に水を差し、その音を止めた。家康は最後の茶を口に運んでいる。
鉄瓶の蓋を丁寧に置いた大姥局の目が、寄進する箏の上で止まった。
「……見性院さま……」
大姥局は、箏の名手である尼僧の名を呟く。夫の主君であった穴山梅雪の正室で、武田家の姫である。
「おお、見性院殿」
大御所も思わず膝を打った。
家柄も申し分なく、武田は家康も一目置く、武家の芯を持った家風である。
「御会式に出かける折、静を伴に連れてまいります。」
大姥のその言葉だけで家康は察した。
「儂からも文を書いておこう。女子であれば武田の姫とするがよし、男子なれば、そうじゃな……保科あたりに預けるようになろう。」
家康がニンマリとした。
のんびりとした大御所の言葉に、火鉢の炭を整えていた大姥局がギクリとする。
「たしかに保科殿は、いまだ見性院さまにご機嫌伺いする忠義者。したが、御正室は確か、真田昌幸殿の娘御。」
真田家も武田の元家臣とはいえ、秀忠の関ヶ原遅参の原因を作った。家康との因縁も多い。いわば、徳川の宿敵。そのゆかりの者に預けるとは……。
大姥局は秀忠を思うと、大御所の策には賛同しかねる。
大姥局の不満げな顔を見て、家康が笑った。
「わはは、だからよいのじゃぁ。宗家から弾かれたとあっては、真田の娘もあわれに思うて大事に育ててくれよう。……というよりの、あの信之が伯父となる。儂はのう、信之に預けたいぐらいじゃ。まだ世がどのように動くかわからぬゆえな。」
家康は空の茶碗を大姥局のほうへスッと押しやって続ける。
「……しかし秀忠は、そなたのいうとおり信之を睨んでおる。さすがの利勝も信之に預けるとは言い出せまい。仮に預けられても、秀忠の目の黒いうちは芽が出ぬやも知れぬ。」
大御所は一度ゆっくりとまばたきし、口角を上げてさらに続けた。
「その点、正光なら、秀忠の信も得ておる。正室が真田の娘であるくらい、利勝がなんとか丸め込もう。」
家康の読みに大姥局は、ただ感服する。感心した顔の老乳母に、家康はふふと笑った。
「じゃが、子が生まれぬにはどうしようもないの。」
「さようにございまする。」
顔を見合わせた二人が、朗らかに笑った。しかし、大御所はすぐに真顔になる。
「欲しいのう…、もう、一人か二人。できれば男子が。まぁ、細々しいことは、そなたに任せる。」
溜め息交じりの言葉は冗談ではなく、大姥局への密命となった。
「はい。」
老乳母は気を引き締めた顔で恭しく頭を下げる。
大御所が頷き、大姥局は改めて急須にお湯を差した。
「しかし、竹千代は秀忠によう似ておるの。」
「はい。お優しい若様です。」
「ふむ。じゃろうの。」
本日、竹千代に利勝、国松に正信が祝い役を務めただけで、家臣内がザワついているのを、家康は苦々しく思っていた。
(髪置き親は年寄りがするだけじゃに、愚か者の多いことよ。)
だからこそ、利勝のような子がいる。
(あやつも、もう少し遅う生まれておったら、どこぞの若君にできたのじゃが……。まぁ、よく儂の願いを汲んで育ってくれた。お愛と大姥のおかげじゃ。)
家康が大姥局を通して、どこか遠いところを見つめた。
「福が、竹千代を御台様に近づけませぬ。」
大姥局が小さな溜息を吐いて、二煎目の熱いお茶を差し出す。
「今は国松さまと松姫さまを、上様の御寝所で時々おやすみさせておりまする。竹千代さまもどうかと福に申したのですが、『上様や御台様のお手を煩わせるのは申し訳ない』と。」
「一理もあるが、竹千代が大事すぎるのじゃな。」
「はい。」
「その上に豊臣を忌んでおるか。」
「はい。」
「難儀じゃのう。……豊臣ゆかりとはいえ、江は好かれる女子じゃと思うておったが。」
「福は若様を庇おうとして御台様に逆ろうてしまうのでしょう。御台様はまっすぐなお方ゆえ。」
大姥局はそこで言葉を切ったが、家康にはそれで充分通じた。
「そなたも覚えがあるのか。」
「無論にございまする。けれど西鄕局様はいつもお見通しで、『長丸のためになりませぬ。』と、やんわり叱られました。」
「お愛はそういう奴であったの。江はまっすぐか。……福もじゃな。」
二人とも言葉の裏を読み取るのが苦手であろう……と、家康は熱めの茶をそっと口に含んだ。
「はい。西鄕局さまは、穏やかな水のような方で……。私の至らないところをよく補っていただきました。」
「そなたもまっすぐであったからの。」
フハハハという大御所の笑い声を契機に、老いた二人の昔話が続く。
部屋に生けられた藤袴の仄かな薫りが、二人の話を包んでいた。
[第八章 藤袴薫る 了]
桜や紅葉は赤く色づき、山茶花が清々しげに咲いていた。
二人がたどり着いた大姥局の部屋には、多くの酒や箏が並べてある。
「少々散らかっておりますが。」
大姥局が恐縮して家康を招き入れた。
「池上本門寺への寄進物か。」
品々をさらりと見て、家康が上座へゆっくりと座る。
「はい。まもなく御会式でございますゆえ。」
大姥局は答えながら、火鉢の上の鉄瓶の蓋をあげた。
このような宴の時は、いつ湯が足りなくなるかもしれぬゆえ切らさぬようにと、静にも教えておいた。
鉄瓶の中の湯は、ほどよい量で沸いている。大姥局は満足そうに肯いた。
「静、茶を入れる。」
大姥局が、キリッと一声かける。
「はい。ただいま。」
元気よい返事の後、静が道具を横に平伏した。
「失礼いたしまする。」
道具を捧げて入ってきた静が、大姥局より上座に座っていた老人に一瞬驚く。
しかし、福々しい老人のにこにこした笑顔に、静もいつもの愛嬌ある笑顔を返した。
「私はこのお方と話があるゆえ、そなたはしばらく下がっておれ。」
「はい。」
静はえくぼを作ってにっこり笑うと、美しい礼をして下がった。残っていた侍女も後へ続く。
「あれが利勝の拾うてきた娘か。」
家康が興味深そうに、静の去ったあとを眺めていた。
「はい。池上本門寺さまにて。」
大姥局は、急須にお湯を注いで温めている。
「まこと、江に声が似ておるの。」
うーむ。と大御所は唸った。
姿を見せるまで、本当は江ではないかと家康は思っていた。
「さようにございましょう?」
フフフとゆったり笑い、大姥局は急須の湯を捨てる。そのまま流れるように茶筒を封切り、茶葉を入れた。
「で、秀忠が相手しておるのか。」
大姥局に顔を寄せた家康が、声をひそめて好色そうな顔をする。
乳母はビクともせず、湯冷ましに入れた湯を一気に急須に注いで蓋をした。
「繁くというわけではございませぬが。」
「とは?」
冷静な大姥局に家康が続きをねだる。
「月終わりか月始めのお手つきですゆえ。」
瀬戸の薄い茶碗に湯を注ぎながら、大姥局は静かに報告した。
「なるほどの。それではなかなか子もできまい。天の気が少なかろう。」
じれったそうに渋い顔で、家康は肩を落とす。
医術に通じ、女の体を知り尽くした家康である。女子の多くが、新月を迎える頃に月の障りがあること、その前後にはなかなか子を宿さないことをよく知っていた。
「はい。ただ、側室にはせぬと仰せですゆえ、それでよいかと。」
静にはその方が幸せかもしれぬと、大姥局は思っている。
静の笑顔を思い出して柔らかく微笑みながら、茶碗の湯を捨て、きっちりと茶を注ぐと家康の前に置いた。
「……江のためか……。堅いのう……堅すぎて泣けてくるわ。」
家康は老人らしからぬ分厚い手で薄い茶碗を取り、ゆっくりと茶を口に含んだ。
爽やかな香りが鼻をくすぐり、甘味が口いっぱいに広がる。
「うむ。うまい。そなたの入れる茶は天下一じゃ。」
「おそれいりまする。」
大御所が寛いだ笑顔で誉めると、大姥局も同じ笑顔で軽く礼をした。
「しかし、子は欲しいのう。」
「は?」
続く家康の呟きがなにを指すのか解らず、大姥局は珍しく無礼に返した。
「利勝のような子じゃ。竹千代が継ぐにしろ、国松が継ぐにしろ、そういう子が欲しい。」
茶碗をくるくると手の中で回しながら、家康は虎のような目を大姥局に向けた。
「竹千代さまには、三十郎がおりまする。」
大御所の徳川を思う心を理解しながら、乳母はそら恐ろしくも感じる。
「ふむ。賢い小姓じゃときいておるがの。」
家康が茶で少し喉を潤した。
「三十郎にしても、竹千代と共に将軍家の中で育つ。」
ゆったりした大御所の言葉に、大姥局は(あぁ、)と察した。
「確かに、若君様がたが上様のように人質に出されることはございませぬな。」
人質にされるのは悪い面ばかりではない。
他家の家風、人との付き合い方をはじめ、辛抱の仕方から難癖をつけられたときの処し方まで、否応なく学ばされる。人を見る目も養えるし、人脈もできるのだ。
「そうじゃ。外で育つのが大事なのよ。大姥、孕んだら生ませよ。」
家康は厳しい口調で大姥局に命令し、また一口口に含んだ。
「したが上様なら、前のように屋敷を与え、切り離してしまわれるかと。」
困り顔の大姥局は、江よりも先に若君をあげた女を思い出している。秀忠は、なつばかりでなく、若君の長丸さえさっさと城外へ追い出してしまった。
家康は茶の余韻を楽しむように軽く舌打ちをし、茶碗をゆっくり茶托へと置く。
「まぁ、そうじゃろうな。それゆえ、それを逆手に取ればよい。庇護してくれそうなところを、今のうちに探しておくのじゃ。」
フフと笑い、家康はこともなげに指示する。
あの時は、若君として育てることしか考えなかったから、大姥局は秀忠に猛反対した。しかし、結果的には押し切られ、城の外に出したのである。
側室にしないのが端から判っているのならば、今度は事前に預けるところを決めておけ。と、大御所は言うのだ。
まだ子を産むどころか、宿してもいない。
それでもその準備をせよと、家康は命じるのであった。
大姥局は改めて、徳川家康という男の策略の深さ、用意周到さに畏れ入った。
海辺を渡る松風のような湯の沸く音だけが部屋に流れる。
大姥局は鉄瓶に水を差し、その音を止めた。家康は最後の茶を口に運んでいる。
鉄瓶の蓋を丁寧に置いた大姥局の目が、寄進する箏の上で止まった。
「……見性院さま……」
大姥局は、箏の名手である尼僧の名を呟く。夫の主君であった穴山梅雪の正室で、武田家の姫である。
「おお、見性院殿」
大御所も思わず膝を打った。
家柄も申し分なく、武田は家康も一目置く、武家の芯を持った家風である。
「御会式に出かける折、静を伴に連れてまいります。」
大姥のその言葉だけで家康は察した。
「儂からも文を書いておこう。女子であれば武田の姫とするがよし、男子なれば、そうじゃな……保科あたりに預けるようになろう。」
家康がニンマリとした。
のんびりとした大御所の言葉に、火鉢の炭を整えていた大姥局がギクリとする。
「たしかに保科殿は、いまだ見性院さまにご機嫌伺いする忠義者。したが、御正室は確か、真田昌幸殿の娘御。」
真田家も武田の元家臣とはいえ、秀忠の関ヶ原遅参の原因を作った。家康との因縁も多い。いわば、徳川の宿敵。そのゆかりの者に預けるとは……。
大姥局は秀忠を思うと、大御所の策には賛同しかねる。
大姥局の不満げな顔を見て、家康が笑った。
「わはは、だからよいのじゃぁ。宗家から弾かれたとあっては、真田の娘もあわれに思うて大事に育ててくれよう。……というよりの、あの信之が伯父となる。儂はのう、信之に預けたいぐらいじゃ。まだ世がどのように動くかわからぬゆえな。」
家康は空の茶碗を大姥局のほうへスッと押しやって続ける。
「……しかし秀忠は、そなたのいうとおり信之を睨んでおる。さすがの利勝も信之に預けるとは言い出せまい。仮に預けられても、秀忠の目の黒いうちは芽が出ぬやも知れぬ。」
大御所は一度ゆっくりとまばたきし、口角を上げてさらに続けた。
「その点、正光なら、秀忠の信も得ておる。正室が真田の娘であるくらい、利勝がなんとか丸め込もう。」
家康の読みに大姥局は、ただ感服する。感心した顔の老乳母に、家康はふふと笑った。
「じゃが、子が生まれぬにはどうしようもないの。」
「さようにございまする。」
顔を見合わせた二人が、朗らかに笑った。しかし、大御所はすぐに真顔になる。
「欲しいのう…、もう、一人か二人。できれば男子が。まぁ、細々しいことは、そなたに任せる。」
溜め息交じりの言葉は冗談ではなく、大姥局への密命となった。
「はい。」
老乳母は気を引き締めた顔で恭しく頭を下げる。
大御所が頷き、大姥局は改めて急須にお湯を差した。
「しかし、竹千代は秀忠によう似ておるの。」
「はい。お優しい若様です。」
「ふむ。じゃろうの。」
本日、竹千代に利勝、国松に正信が祝い役を務めただけで、家臣内がザワついているのを、家康は苦々しく思っていた。
(髪置き親は年寄りがするだけじゃに、愚か者の多いことよ。)
だからこそ、利勝のような子がいる。
(あやつも、もう少し遅う生まれておったら、どこぞの若君にできたのじゃが……。まぁ、よく儂の願いを汲んで育ってくれた。お愛と大姥のおかげじゃ。)
家康が大姥局を通して、どこか遠いところを見つめた。
「福が、竹千代を御台様に近づけませぬ。」
大姥局が小さな溜息を吐いて、二煎目の熱いお茶を差し出す。
「今は国松さまと松姫さまを、上様の御寝所で時々おやすみさせておりまする。竹千代さまもどうかと福に申したのですが、『上様や御台様のお手を煩わせるのは申し訳ない』と。」
「一理もあるが、竹千代が大事すぎるのじゃな。」
「はい。」
「その上に豊臣を忌んでおるか。」
「はい。」
「難儀じゃのう。……豊臣ゆかりとはいえ、江は好かれる女子じゃと思うておったが。」
「福は若様を庇おうとして御台様に逆ろうてしまうのでしょう。御台様はまっすぐなお方ゆえ。」
大姥局はそこで言葉を切ったが、家康にはそれで充分通じた。
「そなたも覚えがあるのか。」
「無論にございまする。けれど西鄕局様はいつもお見通しで、『長丸のためになりませぬ。』と、やんわり叱られました。」
「お愛はそういう奴であったの。江はまっすぐか。……福もじゃな。」
二人とも言葉の裏を読み取るのが苦手であろう……と、家康は熱めの茶をそっと口に含んだ。
「はい。西鄕局さまは、穏やかな水のような方で……。私の至らないところをよく補っていただきました。」
「そなたもまっすぐであったからの。」
フハハハという大御所の笑い声を契機に、老いた二人の昔話が続く。
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