【完結】照葉輝く~静物語

みなわなみ

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第四部

第二十四章 雫(しずく)、大流(たいりゅう)となる 其の一

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「親方、今年の梅雨は激しいかも知れねぇ。」 
 縁側で中年の男が、藤五と向き合っていた。せているが、まくりあげた袖から見える腕は、筋肉が隆々としている。 
「やっぱりそう思うかい。」 
 藤五が渋い顔をしながら、煙管きせるをコンと叩いた。 
「あぁ。どうも秋みてぇな雲が気になる。オイラもこんなこたぁは初めてだが、死んだ親父が『秋の雲が春にあっちゃなんねぇ。おてんとさまが狂っちまう』って言ってたからよ。」 
「よし。用心に越したことはねぇ。」 
 藤五はさっそく力自慢を集め、堤の低いところから土嚢どのうを積ませた。 
「いつもよりがっつりれきを入れろ!」 
「へいっ!」 
 藤五の用意は、他の名主のところの知ることとなり、「板橋の親方がいうのなら」と、川や溜め池に面した低いところには次々と土嚢が積み上げられていった。 

 そして、藤五たちの危惧した通り、皐月さつきだと言うのに暴風雨が吹き荒れた。 
 駿河、三河、遠江とうとうみ、美濃…徳川が所領としている、すなわち、今、秀忠が治めている土地は次々と洪水に見舞われた。 
 やっと大きくなり始めた稲は田の中で泳ぎ、難を逃れた畑の作物も雨続きで葉が溶けている。 
 次々届けられる様子に、秀忠も利勝も渋い顔をしながら口許を引き締めていた。 
「なかなか暑くもならんな。」 
 時々届く太陽の光は、真夏のまぶしさを見せている。しかし、その眩しさに見合う暑さはなかった。セミの鳴き声さえ、どこか弱々しい。 
 (今年は天の恵みが少ないか……) 
「不作であろうな……」 
 秀忠がポツリと呟いた。 
「さようでございましょうな。」 
 書状を見て、難しい顔をしたまま利勝が返した。 

「城の倉を開けねばならぬやもしれぬ。」 
 将軍は眉間に皺を寄せている。 
「あれはいざというときのもの。」 
 怒る様子もなく、利勝はさらりと返した。 
「不作がいざというときではないのか?」 
いくさ用、兵糧ひょうろうにございます。」 
「百姓が死んでしもうたら、次の兵糧はないぞ。」 
「そのときには考えまする。凶作とわかってからお考えなされませ。」 
 とげだった将軍に、老中は淡々と返し、再び厳しい顔で書状と向き合った。 
 その姿が、秀忠に早く仕事に戻るよう伝えている。 
 悔しそうに口許を動かして、秀忠は書状と向き合った。 

 (親父ならどうする…。豊臣と戦となれば大戦おおいくさじゃ。充分に蓄えられるまで戦はせぬだろうか……) 
 秀忠は、筆につけた墨を充分にしごく。 
 (動くときには、無理難題を抱えても動く。それが徳川家康と言う男じゃ。) 
 将軍は、短いながらも被害のあったところに次々と、見舞いと激励の文を書きつけた。いくつめかの伸びやかな花押かおうを書き終わる。 

「利勝、これからは夕に市中を見回れ。」 
 ふと顔をあげた将軍が唐突にめいを出した。 
「それは構いませぬが、溜まっております案件はいかがなされます。」 
 老中が怪訝そうに頭を上げ、山積みになった書状と将軍の顔を見る。 
「夜にやればよい。」 
 さらりという秀忠に、利勝は目をいた。 
「夜に『やればよい』とは、それがしもでございまするか?」 
「そうじゃ。」 
 こともなく将軍は返事をする。 
 (ご自分で夜に『やる』のはまだしも、某も一緒にじゃと?) 
 老中は黙って新しい書状を開いた。 

「毎日とは言わぬ。妻女に寂しい思いはさせとうないゆえな。」 
 秀忠がチラリと利勝を見て、ふっと口端を上げる。 
「別に構いませぬ。」 
 老中は呆れ返って憮然と返事をした。 
 秀忠が扇子でトントンと首の後ろを叩き、天井を見る。スッと息を吸い込み、家臣を見た。 
「聞いておるぞ、今一つなのであろう? 奥の具合が。このように雨が続くと心細かろう。夕方に一度帰ってやれ。」 
 秀忠が、やはりぶっきらぼうに優しい言葉をかけた。 
 (誰が耳に入れたのじゃ。この忙しい時に。) 
 利勝は思いがけない言葉に一瞬驚いたが、己の使命を全うしようとする。 
「武家の妻なれば、心得ておりまする。」 
 ちらりと目をあげて平然と言うと、再び書状を見比べにかかった。 
「帰ってやれ。」 
 秀忠が大きな手に扇子をパンと当てる。 
「ご用が先にござりまする。」 
 もはや老中は書状から目を離さない。 
「そなたも強情じゃな。」 
「上様ほどではありませぬ。」 
 将軍はフンとねるような、悔しそうな顔をした。額に皺を寄せながら一心に書状と向き合っている家臣をチロリと見る。秀忠は端整な手に沿わせて扇子を開くと、パタパタと己をあおいだ。 
 利勝が一瞬手を止め、秀忠をチロッと見る。
 秀忠が目を逸らし、しゃっと扇子をたたむと、肩で一息ついて、再び筆を取った。 

◆◇

 翌日も翌々日も強い雨が降ってはみが繰り返されていた。 
 今日も昼には雨が上がったとはいえ、また遠くで雷の音がしている。 
「利勝、見廻りにまいる。」 
 将軍が書状を畳むと、スッと立ち上がった。 
「これからでございますか? また雷が近づいておりまするぞ。」 
「嫌なのか? ならば一人で参る。」 
「御伴いたしまするっ。」 
 スタスタと部屋を出ようとする将軍をギッと睨み、利勝は慌てて筆を置いた。 

 みのと笠をつけた主従は馬を走らせ、川沿いや溜め池を次々と見て回る。 
 雨になると馬に負担がかかるため、今日も秀忠はむながいをつけずに走り、田畑の様子にも目を配った。 
 水かさがいくらか減っているとはいえ、川の水は濁り、渦巻きながら流れていく。 
 浅瀬の立ち木は、水面から頭を覗かせて、水かさが減るのを、体を震わせて待っていた。 
 川べりで、下帯姿の男二人が泥のこびりついた土嚢どのうを直している。秀忠は近寄って馬から降り、気さくに声をかけた。 

「この辺りは大事なかったのか。」 
「へい、お侍さま。降る前にこれを積んでおいたんでさぁ。」 
 がっしりと背の高い男が、盛り上った筋肉質の腕で、土嚢をポンポンと叩いた。 
「何故じゃ。」 
「なにゆえって言われても、そりゃぁ、親方がそう言ったからでさぁ。なぁ。」 
 秀忠の問いに、困った顔でもう一人の男に声をかけた。 
 小柄な男が、身軽に土嚢の上をひょいひょい動いて仕上がりを確認していた。 
「そうでさ。親方のお言いつけで。親方がいるから、うちの組の仕事は日の本一でさ。」 
 ピョンと土嚢の上から降りた男が、得意気に報告する。 
「そういうわけで。」 
 がっしりした男がいい、二人は明るい笑顔を秀忠に向けた。 
「そうか。」 
 今一つ的を射ない答えであったが、二人の日焼けした笑顔からは、天災を事前に防げた喜びと誇りが伝わってきた。 
 あちらこちらで見られた土嚢も、そのように積まれたのかもしれぬ。お陰で、江戸の被害が少なかったとしたら……。 
 (なかなかの者がおるようじゃ。) 
 秀忠も思わず笑みがこぼれるほど、ありがたく、そして嬉しかった。 

「上様、降りそうですぞ。」 
「うむ。」 
 遠くに雷の音が立て続けに聞こえ、辺りがみるみる真っ暗になる。 
 利勝のうながす声に、秀忠は馬の腹を蹴った。城が見えかけた頃に、ポツリと雨が落ちる。 
 黒い天井から落ち始めた大粒のしずくは、あっという間にまとまり、地にあるものに容赦なく降り注ぎ始めた。 
「降って参ったな。利勝、ついてまいれ。」 
 秀忠が大きく馬の脇腹を蹴る。馬が一声いななき、雨をものともせずに駆け出した。 
 城はすぐ近くに見えているが、秀忠の馬の鼻先はその方向を向いていない。利勝が慌てた。 
「上様! どこへ参られますっ?」 
 利勝の声にも振り向かず、大きな手で顔をぬぐいながら秀忠は馬を駆けさせる。 
「上様? 上様っ」。 
 利勝のとがめるような声を背に、広い武家屋敷が立ち並ぶ道を秀忠は駆けた。 
 堂々とした門の前で秀忠が手綱を引き、馬を止める。
 門番が門を開けると、ひらりと馬から降り、スタスタと中へ入った。 



 *****
【土嚢】 土をいれた袋。
【礫】 大小バラバラの石。 
皐月さつき駿河、三河、遠江、美濃の洪水】 史実。 この年の皐月朔日は西暦の6月21日にあたる。
花押かおう】 文の最後の自分のサイン。 

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