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憂鬱な業務
しおりを挟む「はあ……」
重いため息が静かなリビングに落ちた。
ソファに深く体を沈めたまま、私はただ天井を見上げていた。
佐伯くんの件はどうにかならないものかな……。
たしかに同じ業界に就職したのは私だ。
でもこの業界は広いというのに、同じところで働くことになるなんて……。
私がこめかみを強く押さえていると、不意に玄関のドアが開く音がした。
四宮くんが帰ってきたらしかった。
相変わらず今日も遅い。
日付が変わる前の帰宅だ。
忙しそうね……。
「ただいま」
「……おかえりなさい」
彼はリビングに入ってくると、いつものようにただジャケットを脱ぎハンガーにかける。
するといつもキッチンに向かってお茶を飲むのに、今日はそのまま私の隣に座った。
「なに?」
「いえ、別に……」
変だな。
普段こんなことしてこないのに。
疑問に思っていると、四宮くんは口を開いた。
「顔色があまりよくないですね。具合でも悪いですか?」
「ううん。別に」
彼の言葉に正直びっくりした。
結婚生活をはじめて、家にいてもお互いが別々のことをしている時間は多い。
一方が仕事をしていたり、一方は食事をしていたり……ただ同じ箱の中にいるというだけで全く別の生活だ。
それなのに……。
彼はそっと私の眉間に手を伸ばした。
「……シワが寄っていますよ」
その大きな指が私の眉間のシワを優しくなぞる。
彼は私のことなど気にもしていないと思っていたのに。
「……佐伯さんですか」
ぽつりと彼が言った。
確かに彼のことだけれど、会社の社長という立場を背負っている彼にその話をするのは気が引けた。
「ううん、別に……自分の問題」
私は咄嗟にそう答えた。
「周りの社員から聞きましたよ。桐谷さんが佐伯さんからいい寄られていると」
どこからそんなこと聞いてきたのか……。
でもウワサになるのも無理もない。
何度辞めてと言っても、彼は私のことを名前で呼ぶし、会社の中であることも関係無しに食事に誘ってきたりなんかするんだから。
もうこの話はしたくない。
私は立ち上がろうとしながら言った。
「別にいい寄られてたわけじゃない」
すると、彼はとっさに私の手を掴んだ。
「な、なに……」
彼の手が熱い。
「あなたの過去を教えるほど僕に心を許していないですか?」
そんな言葉が返ってくるとは思わず、私はたじろいでしまった。
「……別に、大した過去はないから」
手を振りほどこうとする。
だが彼の指は力強く私の手を握りしめて離さない。
「あなたを知ろうとしても、なかなか心を開いてくれない」
彼の瞳が揺れる。
その声はどこか寂しげで、普段は見せない彼の弱さが垣間見えるようだった。
「これじゃあまるで他人と同じだ」
私はそんな彼の言葉に戸惑いを覚える。
もともと他人だ。
愛のない同士が契約で結婚をしたに過ぎないのだから。
「……私たちはそういう関係で十分でしょ」
お互いの心の内側まで踏み込む必要なんてなくて、ただ同じ箱で生活をしていればいい。
私がそう言って彼を突き放そうとした時だった。
彼が私の手をさらに強く握った。
そして有無を言わさぬ力で私を自分の方へと引き寄せる。
「ちょっ……」
彼は後ろから私を包み込むと耳元で言った。
「仮にも夫婦です。他人とは違う。あなたに何かあった時、知ろうとしないのは怠惰でしかない」
その低く静かな声が私の心に伝わってくる。
つまり形だけでも夫としての役割を果たしたいということね。
ドキドキして落ち着かなかった心が落ち着きを取り戻す。
するとその時、彼は言った。
「……いや、違うな。そんな難しいことじゃない」
えっ。
「ただ桐谷さんのことが知りたい」
私は顔をあげる。
彼の心臓の音が私にも届いてきて、うつりそうになる。
四宮くんはどうしてこんなに寄り添おうとしてくれるのだろう。
四宮くんだって、利害関係で動く方が楽だと思うのに。
彼には心を開いていない。
それは契約関係である以上開くことはないだろう。
「……あなたには関係ない」
私は静かに彼に伝えた。
「手厳しいですね」
私の話をしたところでなにかが変わるわけじゃない。
私はそんな弱い女じゃないから、この件は自分で片づけて見せる。
可愛くない女っていうのはそんなものだ……。
翌日。
この日も私は佐伯くんと二人きりで外回りに行っていた。
部長からはもう少ししたら佐伯くんをひとり立ちさせると言ってくれて、少し気持ちが軽くなった。
その日、私たちは一件の大きな契約を取り付けて会社に戻ってきた。
会社に戻り、上に報告した後佐伯くんはかなり上機嫌だった。
会議室を出て彼は言う。
「やっぱり狙ってたところ1件取れたな~これは俺のお陰っしょ」
俺のお陰って……あなたは私の隣にいただけじゃない。
「やっぱり俺が美和の隣にいると、美和を成長させちゃうな」
いつまで先輩面するつもりだろう。
先輩だったのは大学生の頃だけなのに。
しかし、そんな男に付き合っている暇はない。
まだやらなきゃいけない仕事がたくさん残ってる。
「じゃ、お疲れ会ってことで……」
彼が廊下に備え付けられている自販機で缶コーヒーを買う。
そして二本買って、私に差し出した。
「これ俺のおごりな、美和にも。これ好きだっただろう?」
昔と同じ甘ったるいコーヒー。
そんな昔のことを覚えていたのか。
「……いらない。もうブラックしか飲まないから」
「えーウソつけ。背伸びなんかすんなよ~つーか、せっかく奢ってやってんだから受け取れって」
「……いらない」
私が受け取らないことに彼はあからさまに不満そうな顔をした。
「他の社員にあげたら」
「ちぇ」
そして一人でコーヒーを飲みだすと、懐かしむように目を細める。
「なんか今日車で走ってた道さ、俺たちが昔よく散歩してたところだったよな?昔あの辺で二人で広告の話とかでめちゃくちゃ盛り上がったじゃん?」
「……そうだったかしら」
私はなんの表情も見せずに答えた。
「それで美和も広告業界に行くとかホントすごいよ」
「…………」
「あの頃の美和はさ、俺が提案した広告案とか聞いても、すごいですって言ってくれて可愛かったよな」
誰か別の人間の話を聞いているみたいだった。
こんな話をしてもなにも楽しくないのに。
無視をして歩いていると、その態度に腹がたったのだろう、佐伯くんは言った。
「なぁ、待てってば!お前本当に可愛げがなくなったよな。昔はそんな冷たくなかったじゃん!俊さん、俊さんって俺の後ついてきたさぁ」
ああ、もうめんどくさい。
「ご自身がなにをしたのか忘れたんですか?」
「それは……」
まぁ、忘れてるんでしょうよ。
彼は自分の人生のことしか考えていないから。
彼は不意に私の肩に手を置いた。
「あの時は本当にごめんって!今日さ、改めて思ったんだ……美和、俺たちやり直そう。一緒にいたらきっと美和も俺のこといいって思ってくれるはずだ」
ただ自信家なだけでなにもかもが薄っぺらい人。
昔は自信があるのをカッコイイと思ってしまっていた。
すると彼は囁くような小さな声で言う。
「ほら身体の相性だってよかっただろ?」
「……っ!」
そのあまりにも下品な言葉に、私の心の奥底で何かがぷつりと切れる音がした。
「……っ、触らないで!」
私は、その手を強く振り払う。
この男はきっとハッキリ言わないと伝わらないのだろう。
本当は言いたくなかったけれど、強制的に距離をとるにはこれしかない。
「あのね。私……結婚してるの」
「えっ」
これ以上この男に踏み込ませてはいけない。
「だから、もう一度とか存在しないし……こういうの迷惑だから」
そこまで言うと、彼の顔が凍りついた。
「ウソ、だろ……絶対ウソだ!」
「決めつけないで」
結婚していてもおかしくない年だ。
だいたいいないと決めつけてそんな言葉を吐いてくる方が失礼なんだ。
「俺の誘いを断るためについたウソなんだろう?」
「そう思いたきゃ思っていれば」
冷たく返すと、彼は苛立ちが募ったのか私に顔をぐっと近づけてきた。
「変な冗談言ってないでさ……いい加減さ、素直になれよ」
私がなにか言い返す前に彼の手が私の肩を掴む。
その強い力に私の顔が歪んだ。
「あの時傷ついたから、俺と関わらないようにしてるんだろうけど、本当は俺と付き合いたいって思ってるだろ」
「……っ、離して!そんなわけないでしょ!」
「正直に言えよ」
その時だった。
オフィスに静かな足音が響いた。
コツコツと一定のリズムを刻む革靴の音。
その音は私たちのすぐ後ろでぴたりと止まった。
「佐伯さん、桐谷課長になにか」
穏やかな声だった。
だがその声に含まれた圧力に佐伯くんの肩がびくりと大きく跳ねる。
いつからそこに立っていたのだろう。
今さっきであのやり取りを聞いていないといいなと思ってしまう。
「えっ、あ、えっと……業務のことで」
四宮くんは、ただ静かに私たちを見ていた。
「社員から妙なウワサが上がっていてね……キミが桐谷さんに付き纏っているというような……」
「そ、そんな……!付き纏いだなんて」
佐伯くんの顔からさっと血の気が引いていく。
そして私の肩を掴む佐伯くんの手にその視線を移した。
「その手はなにかな?」
一瞬で空気が凍りつく。
「す、すみません……」
佐伯くんは、私の肩から手を離した。
「佐伯さんはまだ試用期間だ」
そう、彼はうちの決まりで3カ月間は試用期間中で、正式に雇用が決まっているわけではない。
とはいえ給料は社員と変わらないのだけど……。
「あまり問題を起こすのは得策ではないと思うが」
その静かな警告は、私ではなく佐伯くんに向けられていた。
「す、すみません……!気を付けます」
彼は背筋をピンっと伸ばした後、頭を下げその場から逃げるように立ち去っていった。
私と四宮くんはふたりきりになる。
気まずくて彼の目を見ることが出来なかった。
彼は一体どこから話しを聞いていたのだろう。
私が四宮くんとの関係のことを引き合いに出して……使わせてもらったところは聞いていただろうか。
お金のことだけでなく、他のことも自分のいいように使ってしまったのは罪悪感がある。
でもそんな話はここですることじゃない。
「助かりました、ありがとうございます」
そう言って立ち去ろうとした時、私は優しく手を取られた。
「な、なに……」
「結婚指輪を付けたらいいのでは?」
その静かな提案に私の心臓がどきりと跳ねた。
明らかにここでする話じゃない。
それは彼も分かっていることだ。
「職場で付けなきゃ牽制の意味もないでしょう」
でもあえてそれを言う。
ごくりと息をのむ。
「会社でそういのは……」
それだけを伝えると、彼はすぐに理解したようで手を離した。
「社長……お電話です」
それから社員から呼び出しがかかったことでその話は打ち切られた。
指輪をしていれば佐伯くんもさっきの話を信じるかもしれない。
でも。
それは私と彼が本当の夫婦だと認めてしまうことと同じだ。
外で結婚指輪を付けたら、もう戻れなくなってしまう。
それは、出来るだけしたくない。
特に会社では……。
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