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第23話 噂の否定

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 午後――。

 私は資料を提出しに九条課長のもとへ向かう。彼はいつも通り淡々と書類を受け取り、「確認しておく」とだけ告げた。

(……やっぱりいつも通り)

 無機質な声とともに手元へと消えていく書類を見送りながら、心の中でそう呟く。このやり取りは、何度繰り返してきたか分からない。ただの業務の一環として、感情の入り込む余地など微塵もない。ただ、差し出した書類が受理され、業務が流れるように処理されるだけ。それ以上でも、それ以下でもない。私は軽く頭を下げ、踵を返そうとした――その時、不意に背後から名を呼ばれた。

「佐倉」

 低く、静かな声だった。抑揚に乏しいその響きは、呼びかけでありながらどこか躊躇いを含んでいるようにも聞こえた。意識するより先に足が止まり、反射的に振り向く。視線の先、九条課長はデスクに目を落としたまま、指先でペンをゆっくりと回していた。無意識の癖なのか、それとも何か考え込んでいるのか。単調な動きの奥に、彼の思考の揺らぎが滲んでいる気がした。

「今日、少し時間あるか?」

 唐突な問いかけだった。一瞬、思考が止まる。

(え、また何か…?)

 冷静を装おうとするものの、胸の奥がざわめいた。課長が私に声をかけること自体が珍しい。それに、仕事の話とも思えない。何か特別な用件なのか、それとも単なる雑談なのか――理由が読めない。だが、戸惑うよりも先に、口が勝手に応じていた。

「はい、大丈夫です」

「なら、少し付き合え」

 それだけの会話。必要最低限の言葉しか交わしていないのに、妙な余韻が残る。淡々とした声色のはずなのに、言外に含まれた何かが心に引っかかって離れなかった。

 ――定時後。

 課長に連れられ会社を出ると、肌寒い風が頬を撫でた。夜の帳が降りた街には、仕事を終えた人々の気配がそこかしこに漂っている。車のヘッドライトが道を照らし、信号待ちの人々の吐く白い息が闇に溶けていく。遠くから響く誰かの笑い声や、行き交う靴音が耳に心地よく残る。

 そんな喧騒の中で、私たちは少し離れて歩いた。

 課長は無言だった。一定の速度で進む彼の背中を見ながら、私も黙って歩く。妙な緊張が胸の内に張り付き、何か話すべきかと迷う。しかし、何を切り出せばいいのか分からず、結局、沈黙を選んだ。歩調を合わせることで精一杯だった。

 やがて、歩みを止めたのは静かなカフェの前だった。ガラス越しに見える店内は温かみのある照明に包まれ、ゆったりとした空気が漂っている。ほんのりと香るコーヒーの匂いが、外の冷たい空気にふわりと溶け込む。

 課長が扉を押し開き、何の迷いもなく奥の席へと向かった。その背を追いながら、私はぎこちなく腰を下ろす。

(ここで……何の話を?)

 課長は当然のようにコーヒーを注文し、運ばれてきたカップに視線を落とした。ゆっくりとした動作でカップの取っ手に指をかけ、まるでその温もりを確かめるかのように指先でなぞる。店内には柔らかなジャズが流れていたが、それでもこの沈黙の中にある微かな緊張を覆い隠すには足りなかった。そして、静かに口を開く。

「今日聞いた話だが……」

 その声は、静寂の中にすっと溶け込んだ。落ち着いた低い声が空気を震わせ、私の背筋にひやりとしたものを走らせる。

「俺が他部署の誰かと親しいという噂が流れているらしいな。しかしそれは、根も葉もない話だ。気にするな」

「え……」

 驚きが思わず声になった。喉の奥がひりつくような感覚に襲われ、思わず手元のグラスに視線を落とした。指先がぎこちなく動き、無意識のうちにテーブルの縁をなぞっている。

「い、いえ、私は別に……」

 取り繕うように口にした言葉は、不自然に途切れた。我ながら、ぎこちなかった。

 課長はわずかに目を細め、「そうか」と短く返す。その言葉には、それ以上の追及はないはずなのに、どこか探るような含みがあった。ゆっくりとカップを持ち上げ、口元へ運ぶその仕草までもが、妙に落ち着いて見える。カップの縁に唇が触れる寸前、一瞬だけ私に向けられた視線が、射すように鋭かった気がした。

(……気づかれてる?)

 ふと息を詰める。肩に力が入り、わずかに指がこわばった。目の前のコーヒーからゆるやかに立ち上る湯気が、視界をかすかに揺らす。課長は何もなかったように一口、コーヒーを飲んだ。その表情には微かな変化もない。まるで、すべてを見透かした上で、わざと何も言わないかのように。

 私は目を逸らした。冷えた指先が、テーブルの端を無意識に撫でる。何もなかったようにコーヒーを飲む課長とは対照的に、私の心は静かに揺れていた。ただ、俯くことしかできずに。
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