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大事な人
しおりを挟む登場人物・設定・伏線はすべて統一し、感情の深み・現実的な葛藤・静かな決断・温かくも切ない余韻を大切に、完結まで書き上げました。
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**『雨のあと、君の名を呼ぶ』**
*著:佐伯 真帆(さえき まほ)*
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### 【プロローグ】
雨が降り止んだ直後、空気はまだ重くて、湿った記憶を運んでくる。
彼女は、十年ぶりにそのアパートの玄関前に立っていた。
四階の四〇三号室——。ドアのノブに手をかざすと、指先が微かに震えた。
鍵はもう持っていない。
でも、ドアは、開いていた。
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### 【第一章:三十七歳、雨の午後】
香織は、傘を玄関の傘立てに立てかけ、靴をそっと脱いだ。
フローリングには、かつて彼がこぼしたコーヒーのシミが、薄く残っている。
彼女の目は、そのシミに少し長くとどまった。
——まるで、十年の間、そこに彼の時間だけが止まっていたかのように。
四〇三号室は、今も香織の名義のままだった。
離婚届は、彼が提出したが、香織はサインをしなかった。
「書類上、まだ夫婦だ」と彼は笑って言っていた。
その笑いには、どこか逃げ場のない優しさがあった。
彼の名は、篠原 裕也(しのはら ゆうや)。
三十九歳。建築士。
右耳の裏に、小さなほくろがある。
香織が初めて彼の裸をみた夜、そのほくろに唇をつけて、
「ここ、君の地図の印ね」と言った。
裕也は、その言葉を、ずっと覚えていた。
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### 【第二章:離婚の理由は、一つじゃない】
彼らの離婚は、誰にも理解されなかった。
裕也は、仕事が忙しく、香織は小説家としてのデビューを果たし、雑誌連載が決まったばかりだった。
外から見れば、上昇気流に乗る二人。
でも、家の中では、静かに、空気が削られていた。
「あなた、私の小説、読んだ?」
ある晩、香織が、新刊の校正刷りを机の上に置いた。
裕也は、ノートパソコンの画面をそっと閉じた。
「今、設計の修正で……明日の打ち合わせまでに、終わらせなきゃ」
「……うん。じゃあ、また今度」
香織は、その校正刷りを、棚の奥にしまった。
その棚には、裕也の設計図の束が、積まれていた。
香織が書いた小説の表紙は、彼の設計した図書館の写真だった。
——彼女の最初の長編の舞台は、彼が手がけた建物だった。
二人は、互いの仕事の重みを知りすぎていた。
だから、応援の言葉が、重荷になった。
「頑張って」は、いつしか「ちゃんとしろ」と聞こえるようになった。
「大丈夫?」は、「私は大丈夫じゃない」と答えるのが怖くなった。
裕也が初めて、香織の小説を読んだのは、離婚届を提出する三日前だった。
夜中、彼は、彼女の机の引き出しを開け、隠し置いてあった原稿を読んだ。
そこには、彼をモデルにした登場人物がいた。
でも、その人物は、香織の小説の中で、最後まで彼女の手を離さなかった。
裕也は、その原稿を、一晩中読んでいた。
朝が来るまで、一文字も書き足さず、ただ読んだ。
そして、朝、香織に言った。
「……君の小説、すごくよかった」
香織は、その言葉を聞いて、初めて泣いた。
でも、その涙は、離婚を止めない涙だった。
「うん。ありがとう」
それだけ言って、彼女は、離婚届のサインをしなかった。
——サインをしないことで、彼女は、彼に「まだ、戻れる場所がある」と、
無言で伝えていた。
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### 【第三章:十年間の空白】
裕也は、離婚後、東京を離れた。
北海道の小さな町で、公民館や保育園の設計を手がけた。
香織は、連載を続け、三冊の小説を出版し、芥川賞候補にもなった。
でも、彼女の小説は、すべて、裕也がいない世界で書かれていた。
——裕也のいない世界で、彼女は、何度も彼を書き直した。
十年の間、二人は一度も会っていなかった。
電話も、メールも、SNSも、一切なし。
ただ、香織の小説の帯に、裕也の設計した建物の写真が使われたとき、
彼は、本屋でその本を買い、表紙をじっと見た。
香織の小説の題名は、『空の隙間』だった。
——空(そら)の隙間。
空(くう)の隙間。
どちらの読み方も、正しかった。
裕也は、その本を、自分のアパートの本棚に並べた。
一番左端。
隣には、香織のデビュー作『雨のあと』。
その本の奥付には、こんな一文が添えられていた。
> ——すべての雨は、やがて止む。
> でも、雨のあとに残る匂いは、誰にも消せない。
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### 【第四章:ドアが開いていた理由】
香織が玄関のドアを開けたとき、中から、カッターナイフの音が聞こえた。
彼女は、思わず足を止めた。
リビングのカーテンは、十年間のまま、薄いベージュのレース。
その向こうから、柔らかな光が差し込んでいた。
そして、その光のなかで、裕也が、壁に貼られた大きな図面を、丁寧に切っていた。
彼は、黒いTシャツを着ていた。
髪は、少し長く、右耳のほくろが、より目立っていた。
香織の視線に気づくと、裕也は、カッターをそっと置き、振り向いた。
「……来たんだね」
声は、低く、少し枯れていた。でも、十年前と変わらない響きだった。
香織は、一歩、また一歩と、部屋の奥へ進んだ。
床の板が、懐かしい音を立てた。
「ドア、開いてた」
「鍵、壊れてる。十年前から」
裕也は、苦笑いを浮かべた。
「でも、直さなかった。誰かが、戻ってくるかもしれないって、思ってた」
香織は、その言葉を、胸の奥でぐっと飲み込んだ。
「……どうして、今、ここに?」
裕也は、カーテンの端を、そっと指でなぞった。
「君の新刊、読んだ」
『雨のあと、君の名を呼ぶ』——香織の十年ぶりの長編。
表紙は、彼が設計した、東京・目黒の小さな図書館の、雨上がりの写真だった。
建物のガラスに、薄く映り込む、一人の男の影。
——それは、裕也の顔の輪郭だった。
「最後のページに、こう書いてある」
裕也は、ポケットから、折りたたまれた紙を一枚取り出した。
それは、新刊の最終校正刷りのコピーだった。
彼が、そのページを、何度も読んだ痕跡が、紙の端に残っていた。
香織は、そっとそれを受け取った。
> **——彼は、雨のあとに、いつもそこにいた。
> 私が気づかなかっただけだ。
> 彼の名前を呼ぶのは、もう、怖くない。
> だから、今、私は、ドアを開ける。**
香織は、その行を、静かに読み上げた。
声は、震えていた。
裕也は、その声を聞きながら、そっと、香織の手を取った。
彼女の手のひらには、小さな傷跡があった。
——十年前、離婚届を破いたときの、カッターの傷。
「君が、十年間、この部屋を守ってた?」
「うん」
裕也は、うなずいた。
「でも、守ってたのは、部屋じゃない。
君が、ここに戻ってくる日を、待ってた」
「……どうして?」
「君の小説を読んで、気づいたんだ」
裕也は、香織の目を、まっすぐ見つめた。
「君は、ずっと、私のことだけを書いてた。
でも、私は、君のことを、ちゃんと読めてなかった。
——君が、私を『書く』ことで、私を『生き返らせて』いたって、
気づかなかった」
香織は、その言葉を聞いて、目を閉じた。
そして、ゆっくりと、彼の手を、ぎゅっと握り返した。
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### 【第五章:雨のあと】
裕也は、香織をリビングのソファに座らせ、紅茶を淹れた。
お湯を注ぐ手は、少し震えていた。
香織は、その様子を、じっと見つめていた。
「……君の小説、全部読んだよ」
裕也が、紅茶を差し出した。
「『空の隙間』は、僕がいなかった君の世界だった。
『冬の手紙』は、君が僕を許すための手紙だった。
『雨のあと』は、君が、僕を待つための物語だった」
香織は、紅茶の湯気を見つめながら、ぽつりと言った。
「……あなたは、僕の小説を、全部読んでくれたの?」
「うん。全部。
でも、一番、胸を打たれたのは、『雨のあと、君の名を呼ぶ』の、
最初の一行だった」
香織は、その一文を、心の中で繰り返した。
> **——雨が降るたび、私は、あなたの名前を、心の中で呼んでいた。
> でも、声に出すことは、一度もできなかった。**
「声に出すの、怖かったの?」
「うん」
香織は、小さくうなずいた。
「あなたが、もう、私の声を、聞きたいと思わないかもしれないって、
思ってた」
裕也は、静かに立ち上がり、香織の前に膝をついた。
目線を合わせ、彼女の右手を、両手で包んだ。
「香織。」
「……うん」
「今、僕の名前、呼んでいい?」
香織は、一瞬、目を伏せた。
そして、深く息を吸い、ゆっくりと、口を開いた。
「……裕也」
その名前を発した瞬間、彼女の頬に、一筋の涙が流れた。
裕也は、その涙を、そっと、親指で拭った。
「うん。いるよ」
彼は、優しく微笑んだ。
「ずっと、ここにいた」
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### 【第六章:名前の重さ】
二人は、夜まで、あの部屋で話をした。
裕也が、北海道で設計した保育園の話。
香織が、新刊の執筆中に、何度も書き直した最終章の話。
十年の間に、それぞれが失ったもの、手に入れたもの、
そして、失くしたくはなかったものを。
「……あなた、僕の小説の主人公に、名前をつけるとき、
どんな気持ちだった?」
裕也が、ふと尋ねた。
香織は、少し考えてから、答えた。
「最初は、『裕也』って名前を使いたくなかった。
でも、他の名前をつけると、全部、嘘になっちゃう気がして……
だから、『裕也』って、そのまま使ったの。
——でも、それは、あなたを描いてるんじゃなくて、
私が、あなたを『思い出すために』、名前を使っていたの」
裕也は、その言葉を聞いて、静かに目を閉じた。
「……僕も、君の小説の、主人公の名前を読むたび、
自分の名前を、何度も、心の中で呼び直してた」
「……どうして?」
「君が、僕の名前を、ちゃんと呼んでくれる日を、
待ってたから」
その言葉を聞いたとき、香織は、裕也の腕の中に、そっと顔をうずめた。
彼の胸の鼓動が、十年ぶりに、自分の鼓動と重なった。
雨が、また、静かに窓を叩き始めた。
でも、それは、もう、終わりを告げる音ではなかった。
——それは、始まりを告げる、やさしい音だった。
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### 【第七章:名前を呼ぶ、その日】
翌朝、香織は、裕也のアパートを出るとき、
玄関のドアを、そっと閉めた。
でも、鍵はかけなかった。
裕也が、ドアの前で、彼女を見送った。
「また、来る?」
「うん」
香織は、小さくうなずいた。
「……今度は、鍵、持ってくる」
裕也は、笑ってうなずいた。
そして、彼は、香織の手を取ると、自分の右耳の裏に、
そっと彼女の指を当てた。
「ほくろ、まだある?」
「……ある」
「じゃあ、君の地図の印、ちゃんと残ってる」
香織は、そのほくろに、そっと唇を寄せた。
十年前と同じ場所に、同じ温かさがあった。
「……今度は、離さないで」
裕也は、静かに、香織の髪を撫でた。
「うん。離さない。
——君が、僕の名前を、ちゃんと呼ぶまで」
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### 【エピローグ】
それから、三か月後。
香織は、新刊のサイン会で、裕也と並んで立っていた。
会場には、『雨のあと、君の名を呼ぶ』のポスターや、
裕也が設計した図書館の写真が飾られていた。
サイン会が終わり、二人は、会場の裏口から、
雨上がりの街を歩いた。
「……今、何を思ってた?」
裕也が、ふと尋ねた。
香織は、空を見上げて、微笑んだ。
「『雨のあと、君の名を呼ぶ』の、最初の一行を、
今、声に出したかった」
裕也は、彼女の横顔を見つめながら、静かに待った。
香織は、ゆっくりと、彼の名前を、声に出した。
「裕也」
「……うん」
「裕也」
「うん」
「裕也」
「うん。いるよ」
香織は、その声を聞きながら、裕也の手を、ぎゅっと握った。
そして、彼の隣を、もう一度、歩き始めた。
雨上がりの空は、青く澄んでいた。
歩道には、小さな水たまりが、空を映していた。
その水たまりのなかに、二人の影が、そっと重なっていた。
——名前は、呼ぶたびに、重くなる。
でも、その重さが、愛を確かめる、唯一の証だった。
そして、香織は、心の中で、こう思った。
*——もう、怖くない。
私は、あなたの名前を、今、どこでも、誰の前でも、
ちゃんと呼べる。*
雨のあと、
彼女は、やっと、彼の名を、声に出した。
そして、彼は、その声を、十年分、待っていた。
**——終わり**
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※あとがき
この物語は、「大人の恋愛」が、必ずしも「再会」や「復縁」で終わるわけではないと信じて書き始めました。
でも、香織と裕也の物語は、それらを越えて、「名前を呼ぶこと」の尊さを描きたかった。
大人になるにつれ、私たちは、大切な人の名前を、簡単に呼べなくなる。
でも、その名前を、再び声に出す瞬間は、誰にも奪えない、静かな奇跡です。
どうか、あなたも、誰かの名前を、もう一度、そっと呼んでみてください。
雨のあとには、必ず、光があります。
そして、その光の下で、名前は、もう一度、生き返るのです。
——佐伯 真帆
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