レプリカは、まだ見ぬ春に恋を知る。

朱宮あめ

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第5章・僕たちに心がある意味

第31話

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 ――ゆっくりと目を開ける。
 あの日があるから、僕は今ここにいる。目の前には、あの頃より少しだけ老けた蝶々さんがいる。そして、蝶々さんの前には、少しだけ大人になった僕。
 もしかしたら、彼女も同じなのかもしれない。あの頃の僕と。
「……あの頃、僕は特別じゃなかった。だけど、僕には蝶々さんがいてくれた。だから踏ん張れました」
 あの頃、もし蝶々さんが寄り添ってくれていなかったら、僕は今生きているか分からない。それくらい、追い詰められていた。
 あの頃いつもじぶんを責めていた僕に、蝶々さんは言ってくれたのだ。しおちゃんは強いよ、と。
 いつの間にか、歯を噛み締めることがくせになっていた僕に、もっとじぶんを甘やかしていいのだと。
 おかげで僕は今、こうして生きている。蝶々さんは恩人だ。大袈裟じゃなく、本当にそう思う。
「私もよ」
「え?」
「私もあのとき、しおちゃんに救われたの」
 蝶々さんの言葉に、僕は戸惑う。僕が蝶々さんを救ったなんて、そんな記憶はない。そもそもそんな余裕はなかった。怪訝な顔をする僕に、蝶々さんは言う。
「話すことは吐き出すことでもあるけど、辛かったことを思い出すことでもあるでしょ。だから、踏み込んでいいのかいつも悩んでたんだ。でも、私は一度、気付けなくて親友を亡くしているから。だから、無理やり踏み込んだの。どうしてもしおちゃんを失いたくなくて。だからね、救われたのは私のほうなのよ」
 顔を上げる。
「っ……」
 蝶々さんの初めて見る表情に、胸が潰れそうになる。
「あの日からずっと後悔してた私を、しおちゃんは救ってくれたの。救わせてくれたの。ありがとう」
 蝶々さんは泣いていた。
 それがどんな涙なのか、子どもの僕にはきっと正確には理解できていない。
 でも、僕はたぶん、じぶんのために流した涙で蝶々さんの心を救ったのだろう。そんなつもりはなくとも、僕の存在や言葉が。不思議だ。
 ――巡りあいは、べつに恋に限られたものじゃないからね。
 ふと、蝶々さんがかつて話した言葉を思い出す。
 そうだ。巡りあいとは、こういう家族との出会いも含まれるのだ。
「……今、ようやく巡りあいの重要さが分かった気がします」
 呟くと、蝶々さんが目元を拭っていた手を止めた。
「……そう?」
「……僕、今、蝶々さんがいてくれてよかったって、心から思います。蝶々さんが、僕の叔母でよかったって、心から」
 そう言うと、蝶々さんは泣き笑いのような顔をした。
「そっか」
 ようやく分かった。彼女も今、僕と同じ状態なのだ。
 だれかに話したくて、助けてほしくて、でもできない。どうしたらいいのか分からない。八方塞がりになっているのだ。
 彼女の眼差しを思い出す。
 ――ずっと夢でいるのは、苦しいんだ。
 あれは、助けを求めている眼差しだった。
 簡単に話せるような内容ではないのかもしれない。だけど、本当は助けてほしいのではないだろうか。
 あの頃の僕のように。
「私が言いたいのはね、結局、相手の気持ちなんて考えても分かりっこないんだから、しおちゃんはもっとじぶん勝手になっていいってこと」
「……でも、もしそれを相手が望んでなかったら?」
「そんなの気にしなくていいのよ。相手が死ぬより辛いことなんてないんだから」
「それは……」
 ずしんときた。たしかにそのとおりだ。
「ねぇしおちゃん。好きなひとのことを知りたいと思うのは、ふつうのことよ。根本の気持ちさえしっかりしてれば、結果がどうあれ、それは誠実な行動だと私は思う」
「根本の、気持ち……?」
 蝶々さんは頷く。
「しおちゃんはどうしてその子の秘密を知りたいの?」
 じぶんの胸を押さえる。
 僕が真実を知りたい理由。
 真実を知りたい、というよりは、彼女を知りたいのだ。知って、理解して、そして力になりたい。
 彼女がもしなにかに苦しんでいるなら、助けてあげたい。
 それは僕が、彼女のことを好きだからだ。ふられてしまっても、放っておけないくらいに。
 最終的な結論に行き着き、僕は息を吐く。
「――好きだから、です」
 蝶々さんは柔らかく目を細め、僕に黒猫と桜のキーホルダーを差し出す。
「踏み込む理由は、もうそれだけで充分じゃない?」
「……そう、ですね」
 頭を下げつつ、僕は蝶々さんからキーホルダーを受け取る。
「ありがとうございます」
 ふと、桜がかつて呟いていた言葉を思い出した。
『――桜になりたい。実を結ばなくても、世界中に愛される桜に』
『――意味があるの、ぜったい。どんなものにも』
『――君は、必要な人間だよ』
『俯きそうになったら、桜の木を探してみて! 桜の花を見ようとすれば、顔を上げられるから』
 ……そうだ。
 桜はずっと、桜の木を見上げていた。
 焦がれるような眼差しで。
 怯えるような眼差しで。
 生きる意味を探しているような、切なげな横顔で。
 それは、彼女自身が俯きそうだったから。
 あの言葉は、じぶん自身へ向けたものでもあったのだ。
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