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第七十三話:革命の教室、最初の種蒔き
しおりを挟む辺境伯レオナルドから『疾風』分配に関する全権を委任された翌々日の朝。ランドールの街は、春の柔らかな日差しと、雪解け水を含んだ土の匂いに包まれていた。だが、その穏やかな空気とは裏腹に、俺の実験農場の小さな小屋の中は、静かな、しかし確かな熱気に満ちていた。
「トーマスさん、人集めは順調ですか?」
「へい、先生!昨日のうちに、俺と同じように、あのゴードンの親父さんの『魂』に心惹かれた連中に声をかけて回りやした!疑ってる奴もいやしたが、俺の畑を見りゃあ、黙るしかねえってもんでさ!」
トーマスさんは、少し日に焼けた顔を誇らしげに輝かせ、力強く胸を叩いた。彼が持つ、貧しさのどん底から這い上がろうとする者の切実な言葉は、どんな美辞麗句よりも、同じ境遇の農夫たちの心を揺さぶる力がある。
「ゴードンさん、鋤(すき)の準備は?」
「おうよ。見せてやるか、小僧」
ゴードンは、工房から運び込んできたのであろう、十数本の『疾風』が立てかけられた壁際を、親指でくいと指し示した。朝日を浴びて、風紋のように美しい刃紋(はもん)を浮かび上がらせるそれらは、もはや単なる農具ではない。新しい時代の到来を告げる、芸術品のような輝きを放っていた。だが、その本数は、辺境伯が約束した百本には、まだ遠く及ばない。これもまた、バルザックによる鉄の供給遅延という名の、静かなる妨害工作の一環だろう。
「ありがとう、ございます。…エレナ様、セバスチャンさん、ギデオンさん。準備はよろしいですか?」
俺が尋ねると、エレナ様は「もちろんですわ!」と力強く頷き、セバスチャンは「お嬢様のお側にいるのが私の務めにございます」と、もはや諦観の境地に至ったかのような顔で一礼し、ギデオンは無言で、しかしその目に確かな覚悟を宿して頷いた。
そして、俺はテーブルの上に置かれた、二つの小さなガラス瓶を手に取った。一つには、黄金色に輝くひまわり油。もう一つには、それを使って作った、琥珀色のドレッシング。これが、今日、俺たちが農夫たちに示す、未来の味だ。
「よし。…行きましょう。革命の、最初の教室へ」
俺たちは、それぞれの決意を胸に、貧民街の外れにある、トーマスさんの畑へと向かった。
◇
トーマスさんの畑は、異様な熱気に包まれていた。
噂を聞きつけたのであろう、三十人近い農夫たちが、畑を取り囲むようにして集まっている。その誰もが、このひと月で見違えるように生まれ変わったトーマスの畑と、その片隅に置かれた堆肥の山、そして何より、これから披露されるという『魔法の鋤』を、固唾を飲んで見つめていた。
彼らの顔に浮かんでいるのは、希望だけではない。長年、この痩せた土地と貧困に打ちのめされてきた者だけが持つ、深い疑念と、もし裏切られたら今度こそ立ち直れないという、悲壮な覚悟。その、あまりにも重い空気。
俺たちの姿を認めると、農夫たちの間に、ざわめきが走った。辺境伯の姫君、氷の騎士団長、伝説の鍛冶屋。その、ありえない顔ぶれ。そして、その中心に立つ、まだ幼い子供。彼らは、目の前の光景が現実のものだと、まだ信じきれないようだった。
「皆さん!静かに!」
その空気を一喝で断ち切ったのは、トーマスさんだった。彼は、集まった仲間たちの前に立つと、力強く宣言した。
「今日、俺たちの、いや、この辺境の農業の歴史が変わる!それを、この目で確かめに来たんだろ!?だったら、黙って、先生の話を聞こうじゃねえか!」
彼の、魂からの叫び。それが、ざわめきを静寂へと変えた。全ての視線が、俺に注がれる。
俺は、一歩前へ出た。そして、集まった農夫たち一人一人の顔を、ゆっくりと見渡した。厳しい暮らしが刻んだ深い皺。日に焼けた肌。土に汚れた、節くれだった手。彼らは皆、俺の故郷の父と同じ、大地と共に生きる、誇り高き人々だ。
「皆さん。俺は、ルークス・グルト。ただの、農民です」
俺は、静かに、しかしはっきりと、語り始めた。
「皆さんが、今、何を思い、何を疑っているか、俺には分かります。『疾風』という鋤が、本当に魔法なのか。そして、なぜ、それが俺たちの手に届かないのか。……まずは、その理由から、正直にお話しします」
俺は、辺境伯との約束、バルザックによる妨害の可能性、そして、俺が全権を委任された経緯を、包み隠さず語った。貴族社会の暗部を暴露するような内容に、農夫たちの間に、動揺が走る。
「ですが」
俺は、言葉を続けた。
「俺は、諦めません。皆さんの手に、『疾風』を届けることを。そして、皆さんが、自分の汗で、家族の未来を勝ち取るための手伝いをすることを。そのために、俺は今日、ここに来ました」
俺は、トーマスさんの方を見た。
「トーマスさん。皆に、見せてあげてください。革命の、第一歩を」
「……おう!」
トーマスさんは、力強く頷くと、ゴードンから『疾風』の第一号を受け取った。そして、まだ耕されていない、石ころだらけの硬い地面の前に立つ。
集まった農夫たちの視線が、その一点に集中する。息をのむ音だけが聞こえる、張り詰めた空気。
トーマスさんは、一度だけ、深く息を吸い込んだ。そして、力を抜いた、自然な構えから、そっと、刃を大地へと滑らせた。
**サ……。**
春のそよ風が、若草の葉を撫でる音。
抵抗がない。刃は、まるで水面に吸い込まれるかのように、何の躊躇もなく、黒い土の中へと沈んでいった。
「「「……!?」」」
農夫たちから、声にならない、驚愕のどよめきが上がる。
トーマスさんは、そのまま、ゆっくりと歩き始めた。彼の歩みに合わせて、大地が、まるで黒い絹の布を切り裂くかのように、いともたやすく、美しい畝となって、めくれ上がっていく。掘り起こされた土は、ふかふかと柔らかく、生命の匂いを放っていた。
それは、もはや労働ではなかった。大地との、舞踊だった。
「……嘘、だろ……」
「あのトーマスの畑が……。何の力も、入れてねえじゃねえか……!」
目の前で繰り広げられる、信じがたい光景。それは、どんな言葉よりも雄弁に、『疾風』が魔法ではない、本物の『革命』であることを、彼らに証明していた。
トーマスさんが、畑の端まで耕し終え、汗を拭いながら振り返った時、農夫たちの顔には、もはや疑念の色はなかった。代わりにあったのは、自分たちの未来が、今まさに変わろうとしている瞬間に立ち会ったことへの、純粋な興奮と、そして渇望だった。
「……今、見たものが、全てだ」
次に口を開いたのは、ゴードンだった。彼は、立てかけてあった残りの『疾風』を、まるで我が子を紹介するかのように、誇らしげに掲げてみせた。
「こいつは、俺の魂だ。だが、魂だけじゃ、腹は膨れねえ。だから、俺は、こいつをお前らに『貸す』。金は要らねえ。代わりに、秋になったら、お前らがこいつで育てた、最高の収穫物を、ほんの少しだけ、俺に分けてくれ。それが、お前らと俺との、『約束』だ」
金ではなく、収穫物での支払い。その、前代未聞の提案に、農夫たちは、再びどよめいた。
「そんな……。ただで、この魔法の鋤を……?」
「ただじゃねえ!」
ゴードンが一喝する。
「お前らが、こいつに相応しい『覚悟』を、その汗で示すことが条件だ。土を愛し、家族を想い、そして、この鋤と共に、未来を耕すと誓える奴だけに、俺の魂は、力を貸す。……どうだ?その覚悟が、てめえらには、あるか?」
職人の、魂の問い。
その問いに、農夫たちは、顔を見合わせ、そして、一人、また一人と、力強く頷き始めた。彼らの目には、もはや卑屈な光はない。自らの手で未来を掴み取ろうとする、誇り高き農夫の光が宿っていた。
その、感動的な光景を、締めくくったのは、エレナ様だった。
彼女は、俺が用意したひまわり油のドレッシングと、実験農場で採れたばかりの瑞々しいカブの薄切りを、農夫たち一人一人に、笑顔で手渡していった。
「さあ、召し上がれ。これが、あなた様たちの、未来の味ですわ」
農夫たちは、おそるおずると、その黄金色の液体がかかった白いカブを口にする。そして、次の瞬間、その顔が、驚きと、そして幸福感で、ぱあっと輝いた。
「う、美味え……!」
「油なのに、全然しつこくねえ!むしろ、爽やかで……!」
「カブが、こんなに甘かったなんて……!」
その、あまりにも豊かで、優しい味わい。それは、彼らが今まで知らなかった、豊穣の味。自分たちの畑でも、いつか、こんな素晴らしいものが作れるのだという、具体的な希望の味だった。
「……皆の者!」
俺は、熱気に満ちた輪の中心で、高らかに宣言した。
「革命の、始まりです!俺たち自身の手で、この辺境の未来を、黄金色に染め上げましょう!」
「「「おおおおおっ!」」」
地鳴りのような歓声が、春の空に響き渡った。
それは、長い冬の終わりと、新しい時代の幕開けを告げる、力強い産声だった。
その、歓喜の輪から少し離れた場所。
物陰から、一人の役人が、苦々しい顔で、その光景を記録していた。そして、足早に、その場を立ち去っていく。向かう先は、城の中枢。バルザックの元へ。
革命の歯車は、確かに回り始めた。
だが、それを阻む古い歯車もまた、静かに、しかし確実に、動き出していた。
俺たちの戦いは、まだ、始まったばかりなのだ。
【読者へのメッセージ】
第七十三話、お読みいただきありがとうございました!
ついに始まった、ルークスの『革命の教室』。道具の力だけでなく、新しい『約束』の形、そして『未来の味』を示すことで、農民たちの心を掴んでいく展開、いかがでしたでしょうか。光り輝く希望の裏で、静かに動き出す影の存在も匂わせつつ、物語のボルテージを上げてみました。ご指摘いただいた点も反映し、より熱い展開になっていれば幸いです。
「トーマスさん、かっこいい!」「ゴードンの演説、痺れる!」「ひまわり油ドレッシング、食べてみたい!」など、皆さんの感想や応援が、この革命をさらに加速させる力になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
ついに農民たちの心を掴んだルークス。しかし、バルザックの妨害は、ここからさらに本格化していきます。彼は、この革命の炎を、守り抜くことができるのか。そして、約束の秋は、無事に訪れるのか…?次回も、どうぞお見逃しなく!
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