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本編
十六歳②
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出立の前日に私の調剤室を訪れたのはスレンツェだった。
「いよいよ明日ね」
「ああ」
私の声に頷きを返した精悍な顔立ちの青年は、どことなく思い詰めたような表情をしている。
「……。帝国に隷属することになったあの日から、この皇宮の中で飼い殺されていくものとばかり思っていたが……こんな形で外へ出られることになるとは、正直思わなかった」
「……うらやましいわ」
冗談めかして本心を口にする私に、スレンツェは思案に沈んだ面持ちで問いかける。
「……。皇帝は、何を考えていると思う? フラムアークが語った額面通りだと思うか?」
「分からない。正直、何かを試されているような感じがしないでもないけれど……私はそもそも、領地視察自体がフラムアーク様に回ってくるとは思っていなかった」
病弱で次期皇帝候補になることはないと早々に見限られたフラムアークは、兄弟達と違い、いわゆる帝王学というものを受けていない。教養や作法を身に付ける為の教師こそあてがわれたものの、その他の学びについては一切指南役を与えられず、社交ダンスから乗馬、剣術、軍事戦略に至るまで、見かねたスレンツェがその代役を担ってきた。
無論スレンツェが教えられるのは自国流のものであり、帝国のものとは違いもあるので、フラムアークには独学でそういったものを補正する努力が必要だった。
その彼を今になって、他の皇子達と同様に領地視察へ出すという皇帝。
「これまで冷遇しておきながら、勝手ね……本当に、何を考えているのかしら。そもそもどうして私とあなたをフラムアーク様付きにしたのか……今更ながら、そんなことも考えてしまう。皇帝の思惑は、いったいどこにあるのかしら」
「……それが分かれば、オレもお前も必要以上に苦労をしなくて済むんだろうがな」
スレンツェは溜め息をひとつついて、彼にしては珍しく弱々しい笑みを口元に刷いた。
それを目にした瞬間、ふと、こんな言葉が口を突いて出た。
「スレンツェ……心配なの?」
長い付き合いで無意識のうちに彼の機微を感じ取った私の勘を、彼は否定しなかった。
「……そうなのかもしれないな」
「フラムアーク様のこと? それとも……あなた自身のこと?」
「……」
沈黙したスレンツェは床に視線を落とし、いつもの鋭さを失った黒い瞳を迷うように彷徨わせた。
「……あれから十年以上経っているんだ。かつての自分の国へ十余年ぶりに足を踏み入れて、その景色を見た時―――オレは、何を思うんだろうな。どういった感情が胸に込み上げてくるのか、自分でも想像がつかないんだ。その時傍らにいるだろうフラムアークに対して、オレに全幅の信頼を寄せているあいつに対して、自分がいったいどういう気持ちになるのか……分からない」
色が変わる程きつく握りしめられたスレンツェの拳が、自身の心に慄くように震えている。
私はその拳を自分の両の掌でそっと包み込み、葛藤する彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「私は、王子であった頃のあなたを知らないわ……。でも、共に第四皇子付きとなって、苦楽を共にしてきたあなたのことなら良く知っている。スレンツェ、あなたはどんな時でも自分を律し、他人を思いやることが出来る人。自分を慕ってくる者を見捨てず、導いていける人よ」
「……。そう、だろうか」
「私はあなたの存在に、あなたの言葉にどれだけ救われてきたか分からない。これからもあなたと共にフラムアーク様を支えていけると、そう確信している」
「ユーファ……」
私は少し口角を緩めた。
「怖がらなくて大丈夫よ。あなたが愛するかつての地を、フラムアーク様の隣で堂々と見てくればいい。そしてその時込み上げてきた感情を、素直に抱きしめてあげればいい。あなたの感情なんだもの、あなたがあなたであることを否定することはないのよ」
スレンツェの瞳に輝くものが見えた瞬間、私は彼にきつく抱きしめられていた。一瞬驚いたけれど、私を抱きしめたまま身体を震わせて微動だにしない彼の心中を察し、その背に腕を回して、ゆっくりと撫でるようにする。
これまでも私に見せてこなかっただけで、きっとたくさんの感情を飲み込んできたのよね……スレンツェは多感な時期に、言葉に出来ない凄絶な体験をしてきたのだろうから……。
最初に会った時は、まだ十五歳の少年だった。自分以外の全てが敵だという目をして、全身に殺気をみなぎらせていた。
大きくなった―――今ではすっかりたくましい青年になって、私などその胸の中にすっぽりと収まってしまう。無駄な筋肉の削ぎ落とされた鋼のような質感の胸板と私の背を抱え込んだ両腕は力強く、温かい。
姉のような気持ちになってしばらく大きな背中を撫でさすっていると、やがて気を落ち着かせたらしいスレンツェが私の肩を押すようにして身体を離し、あからさまに顔を逸らしながらボソリと言った。
「……悪かったな」
「いいのよ」
「何か、買ってきてほしいものはあるか」
我に返って相当気まずいらしく、私と視線を合わせないようにしたまま口早に言葉を紡ぐ彼に、私は瞬きを返した。
「視察のお土産、っていうこと?」
「そうだ。お前は外へ出れないだろう。故郷のものとかで……その、何か懐かしいものとか、欲しいと思うものはないのか」
「うーん……そうね、食べ物は途中で悪くなってしまっても困るから……。私の故郷の辺りでその地方のお茶や調味料を買ってきてもらえたら嬉しいかしら。あとはあなたの故郷のお勧めのものがいいかな」
「そんなものでいいのか」
「一番は、あなた達が無事で帰ってくることよ」
その言葉でようやくスレンツェと目が合った。私はそんな彼の瞳を見つめて微笑する。
それは、紛れもない私の本心。そうでなければ、意味がないの。
「行ってらっしゃい、スレンツェ。フラムアーク様を宜しくね」
「ああ。行ってくる、ユーファ。……ありがとう」
どこか晴れやかで穏やかな、こんなスレンツェの顔は初めて見たような気がする。
彼の心に圧しかかっていたものを吐き出させる手伝いが私に出来たなら、良かった。そう思ったのは事実だったのだけど。
―――とは言うものの、び、びっくりした……やっぱり、スゴくびっくりしたわ!
スレンツェの後ろ姿を見送り一人きりになった途端、急にもの凄い動悸がしてきた。
顔がひどく熱くなって、兎耳がくてんと横にしおれるのが分かる。私は煩悩を振り払うように熱い両の頬を押さえて、ぎゅっと目をつぶった。
年長者としてしっかりしなければダメよ、ユーファ!
あの子達は身体は大きくなってもまだまだ人として未成熟なんだから、年上の私がそこを支えてあげなければ……!
明日スレンツェと会った時に、いつも通りの私で見送れるように、今からしっかりと心構えしておかなきゃ……!
私はそう自分に言い聞かせながらその夜眠りについたのだけれど、実際に出立の朝を迎えると、それどころではなくなった。
旅支度を整えたフラムアークとスレンツェの姿を見た途端、二人が本当に行ってしまうのだと急に実感が湧いて、猛烈な寂しさに襲われたのだ。
ずっと三人、一緒だったのに―――今日からしばらく、二人に会えなくなってしまう。
皇族の旅装に身を包んだフラムアークは何だかいつもより大人びて、高貴な身の上を感じさせて、遠い人のように思えた。あの小さかった彼が急に大きくなって私の手から羽ばたいていってしまうような、そんな寂寥感に駆られ、長衣の胸元の辺りを無意識のうちに握りしめてしまう。
領地視察へと赴く馬車が待機する城門付近で人や物が忙しなく行き交う中、私を見つけたフラムアークがこちらへとやってきて、いつもと変わらない笑顔を見せた。
「行ってくるよ、ユーファ」
「……はい。お気を付けて、行って来て下さいね」
顔の筋肉を意識的に笑みの形へと持って行きながら、ともすると緩みそうになる涙腺を引き締める。フラムアークはそんな私に気付く様子なく言った。
「ねえユーファ、お願いがあるんだけど。ハグしてもらえないかな?」
「ハグ、ですか?」
自分の心を守る為の「好きだよ」という呪文とセットで、幼い頃のフラムアークは自らを落ち着かせる為や奮い立たせる為にハグをせがんでくることがあった。
成長して年頃になってからはそれもすっかりなくなっていたので、こんなふうにお願いをされるのは実に久し振りのことだった。
旅立ちに際して相手の無事を祈る意味もある別れのハグは、それ自体は一般的な行為で決して珍しくはなかったけれど、第四皇子という身分にあるフラムアークにはおいそれと出来るものではなく、あらぬ噂などを立てられても困るという懸念があった。
「ここではちょっと……人目もありますので」
そう告げると、心得ていたようにフラムアークは私の手を取って、積み荷の影に移動した。
「ここならいい?」
言いしな、私の返事を待たずに腕を伸ばし、ぎゅっと抱き寄せてくる。
大人のスレンツェとは違い、まだ成長途中のフラムアークの胸板は薄くて、けれど私を包める広さを持ち始めていた。控え目な香水の香りと耳をかすめる低い声が、少年から青年へと移り変わろうとする瑞々しい気配を感じさせる。
「好きだよ、ユーファ」
「……私もです、フラムアーク様」
少し前まで、包み込むのは私の方だった。少し前まで、何のためらいもなく返せていた言葉だった。
なのに私は今、自分で状況を鑑みてからでないと、その言葉を返せない。
おかしくないわよね? 変じゃないわよね?
十六歳という年齢になった第四皇子に対して、私はどこか、線の引きどころを見極めきれずにいる。
フラムアークからは香水の香りに混じって私があげたポプリの匂いがして、彼がそれを身に着けてくれているのを感じ、自分の代わりに香袋を連れていってもらえることを嬉しく思った。
「どうか、お気を付けて」
フラムアークと挨拶を交わし終えたタイミングを見計らったようにスレンツェが現れて、彼を促した。
「そろそろ集合だ」
「うん、今行く。じゃあね、ユーファ」
「無事に視察を終えられますよう、ここで祈っています」
一礼してフラムアークを見送った私にスレンツェが声をかけた。
「視察中、近況を報告する手紙を書く。……そんなに心配するな。ふた月は存外あっという間だ」
長年の付き合いで私がスレンツェの機微を察したように、スレンツェもまた私の機微を察している。
「……急に色々実感して、寂しくなったの。大丈夫よ、ちゃんと笑顔で見送るから。手紙、心待ちにしているわ」
不安定な気持ちを見抜かれて苦笑する私の頭にスレンツェの手が置かれ、雪色の髪をゆっくりと撫でた。
「いい子で待ってろ。土産もちゃんと買ってくるから」
「……!? ちょ、ちょっと、子ども扱いしないでよ! 年下のクセに!」
驚くやら恥ずかしいやらで思わず声を荒げると、スレンツェは口角を上げて小憎らしい物言いをした。
「さあ? オレは未だにお前の年齢を聞かせてもらってないし、見た目ならもうオレの方が年上みたいだしな」
ぐぬぬぬぬ……! ここでそれを持ち出してくる辺り、何でもないような顔をして、実はそこを根に持っていたのね!?
「無理に大人ぶってるよりそっちの方がらしいぞ。じゃあな、行ってくる」
そう言い置いて背を翻したスレンツェに私は頬を膨らませた。
分かっているのよ、さっきの一連のやり取りがあなたなりの不器用な優しさだってことくらい。私は伊達にあなたより長く生きていないんだから、そのくらい気付いている。
「お土産をたくさん持って帰って来なさいよ! 待ってるから!」
精一杯の強がりを、私は彼の背中にかけた。
それからほどなくして準備が整い、フラムアークの視察団は出立した。
スレンツェの発破のおかげで私は彼らを笑顔で見送ることが出来たけれど、城門が開き、最後の馬車が門の向こうへ出て行ってしまうと、胸の奥がつかえるような寂しさが込み上げてきて、涙を堪えることが出来なかった。
城門の向こうに広がる遥かな大地。記憶の中にある、懐かしい景色。私は踏み出すことが叶わない世界へと、彼らは旅立ってしまった。
―――行ってしまった。置いて、いかれてしまった。
私はどうして、兎耳族なのだろう。どうしてこの地に縛りつけられ、身動きが許されないのだろう。
重々しい音を立ててゆっくりと閉ざされていく城門を涙ながらに見つめる私の耳に、近くの建物のバルコニー付近から心ない声が流れ込んできた。
「―――あの虚弱な穀潰しに領地視察が務まるのかねぇ」
「無理だろう。途中できっと音を上げて帰ってくる」
「はは。体調を崩して帰ってくるに金貨十枚」
「では、どこかの領主になじられて泣いて帰ってくるに十枚」
「なら、途中で不幸な事故に遭うに十枚」
「目付きの悪い亡国の生き残りに殺されるに十枚」
「兎耳のママが恋しくなって帰ってくるに十枚」
「父上も酔狂なことをなさる……あの役立たずに国庫の金を使うこともあるまいに」
声高に好き勝手な雑言を口にするのは、血を分けたフラムアークの兄弟達だ。
兎耳族の私には、距離があってもハッキリとその会話が聞こえる。
私はきつく唇を噛みしめ、心の中で「フラムアークが立派に務めを終えて無事に帰ってくる」に金貨十枚(実際には持っていないけど)を賭けた。
フラムアークはあんた達よりよっぽど人としてまともよ。皇帝としての資質は、人の痛みを知らないあんた達よりずっとずっと高いものを持っている。
先天的なハンデを克服した努力を認めず、見下げ果てて愚弄ばかりするあんた達に、フラムアークは絶対に負けない。
立派に領地視察を果たして、必ずこの広大で冷たい箱庭へと戻ってくる。
「いよいよ明日ね」
「ああ」
私の声に頷きを返した精悍な顔立ちの青年は、どことなく思い詰めたような表情をしている。
「……。帝国に隷属することになったあの日から、この皇宮の中で飼い殺されていくものとばかり思っていたが……こんな形で外へ出られることになるとは、正直思わなかった」
「……うらやましいわ」
冗談めかして本心を口にする私に、スレンツェは思案に沈んだ面持ちで問いかける。
「……。皇帝は、何を考えていると思う? フラムアークが語った額面通りだと思うか?」
「分からない。正直、何かを試されているような感じがしないでもないけれど……私はそもそも、領地視察自体がフラムアーク様に回ってくるとは思っていなかった」
病弱で次期皇帝候補になることはないと早々に見限られたフラムアークは、兄弟達と違い、いわゆる帝王学というものを受けていない。教養や作法を身に付ける為の教師こそあてがわれたものの、その他の学びについては一切指南役を与えられず、社交ダンスから乗馬、剣術、軍事戦略に至るまで、見かねたスレンツェがその代役を担ってきた。
無論スレンツェが教えられるのは自国流のものであり、帝国のものとは違いもあるので、フラムアークには独学でそういったものを補正する努力が必要だった。
その彼を今になって、他の皇子達と同様に領地視察へ出すという皇帝。
「これまで冷遇しておきながら、勝手ね……本当に、何を考えているのかしら。そもそもどうして私とあなたをフラムアーク様付きにしたのか……今更ながら、そんなことも考えてしまう。皇帝の思惑は、いったいどこにあるのかしら」
「……それが分かれば、オレもお前も必要以上に苦労をしなくて済むんだろうがな」
スレンツェは溜め息をひとつついて、彼にしては珍しく弱々しい笑みを口元に刷いた。
それを目にした瞬間、ふと、こんな言葉が口を突いて出た。
「スレンツェ……心配なの?」
長い付き合いで無意識のうちに彼の機微を感じ取った私の勘を、彼は否定しなかった。
「……そうなのかもしれないな」
「フラムアーク様のこと? それとも……あなた自身のこと?」
「……」
沈黙したスレンツェは床に視線を落とし、いつもの鋭さを失った黒い瞳を迷うように彷徨わせた。
「……あれから十年以上経っているんだ。かつての自分の国へ十余年ぶりに足を踏み入れて、その景色を見た時―――オレは、何を思うんだろうな。どういった感情が胸に込み上げてくるのか、自分でも想像がつかないんだ。その時傍らにいるだろうフラムアークに対して、オレに全幅の信頼を寄せているあいつに対して、自分がいったいどういう気持ちになるのか……分からない」
色が変わる程きつく握りしめられたスレンツェの拳が、自身の心に慄くように震えている。
私はその拳を自分の両の掌でそっと包み込み、葛藤する彼の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「私は、王子であった頃のあなたを知らないわ……。でも、共に第四皇子付きとなって、苦楽を共にしてきたあなたのことなら良く知っている。スレンツェ、あなたはどんな時でも自分を律し、他人を思いやることが出来る人。自分を慕ってくる者を見捨てず、導いていける人よ」
「……。そう、だろうか」
「私はあなたの存在に、あなたの言葉にどれだけ救われてきたか分からない。これからもあなたと共にフラムアーク様を支えていけると、そう確信している」
「ユーファ……」
私は少し口角を緩めた。
「怖がらなくて大丈夫よ。あなたが愛するかつての地を、フラムアーク様の隣で堂々と見てくればいい。そしてその時込み上げてきた感情を、素直に抱きしめてあげればいい。あなたの感情なんだもの、あなたがあなたであることを否定することはないのよ」
スレンツェの瞳に輝くものが見えた瞬間、私は彼にきつく抱きしめられていた。一瞬驚いたけれど、私を抱きしめたまま身体を震わせて微動だにしない彼の心中を察し、その背に腕を回して、ゆっくりと撫でるようにする。
これまでも私に見せてこなかっただけで、きっとたくさんの感情を飲み込んできたのよね……スレンツェは多感な時期に、言葉に出来ない凄絶な体験をしてきたのだろうから……。
最初に会った時は、まだ十五歳の少年だった。自分以外の全てが敵だという目をして、全身に殺気をみなぎらせていた。
大きくなった―――今ではすっかりたくましい青年になって、私などその胸の中にすっぽりと収まってしまう。無駄な筋肉の削ぎ落とされた鋼のような質感の胸板と私の背を抱え込んだ両腕は力強く、温かい。
姉のような気持ちになってしばらく大きな背中を撫でさすっていると、やがて気を落ち着かせたらしいスレンツェが私の肩を押すようにして身体を離し、あからさまに顔を逸らしながらボソリと言った。
「……悪かったな」
「いいのよ」
「何か、買ってきてほしいものはあるか」
我に返って相当気まずいらしく、私と視線を合わせないようにしたまま口早に言葉を紡ぐ彼に、私は瞬きを返した。
「視察のお土産、っていうこと?」
「そうだ。お前は外へ出れないだろう。故郷のものとかで……その、何か懐かしいものとか、欲しいと思うものはないのか」
「うーん……そうね、食べ物は途中で悪くなってしまっても困るから……。私の故郷の辺りでその地方のお茶や調味料を買ってきてもらえたら嬉しいかしら。あとはあなたの故郷のお勧めのものがいいかな」
「そんなものでいいのか」
「一番は、あなた達が無事で帰ってくることよ」
その言葉でようやくスレンツェと目が合った。私はそんな彼の瞳を見つめて微笑する。
それは、紛れもない私の本心。そうでなければ、意味がないの。
「行ってらっしゃい、スレンツェ。フラムアーク様を宜しくね」
「ああ。行ってくる、ユーファ。……ありがとう」
どこか晴れやかで穏やかな、こんなスレンツェの顔は初めて見たような気がする。
彼の心に圧しかかっていたものを吐き出させる手伝いが私に出来たなら、良かった。そう思ったのは事実だったのだけど。
―――とは言うものの、び、びっくりした……やっぱり、スゴくびっくりしたわ!
スレンツェの後ろ姿を見送り一人きりになった途端、急にもの凄い動悸がしてきた。
顔がひどく熱くなって、兎耳がくてんと横にしおれるのが分かる。私は煩悩を振り払うように熱い両の頬を押さえて、ぎゅっと目をつぶった。
年長者としてしっかりしなければダメよ、ユーファ!
あの子達は身体は大きくなってもまだまだ人として未成熟なんだから、年上の私がそこを支えてあげなければ……!
明日スレンツェと会った時に、いつも通りの私で見送れるように、今からしっかりと心構えしておかなきゃ……!
私はそう自分に言い聞かせながらその夜眠りについたのだけれど、実際に出立の朝を迎えると、それどころではなくなった。
旅支度を整えたフラムアークとスレンツェの姿を見た途端、二人が本当に行ってしまうのだと急に実感が湧いて、猛烈な寂しさに襲われたのだ。
ずっと三人、一緒だったのに―――今日からしばらく、二人に会えなくなってしまう。
皇族の旅装に身を包んだフラムアークは何だかいつもより大人びて、高貴な身の上を感じさせて、遠い人のように思えた。あの小さかった彼が急に大きくなって私の手から羽ばたいていってしまうような、そんな寂寥感に駆られ、長衣の胸元の辺りを無意識のうちに握りしめてしまう。
領地視察へと赴く馬車が待機する城門付近で人や物が忙しなく行き交う中、私を見つけたフラムアークがこちらへとやってきて、いつもと変わらない笑顔を見せた。
「行ってくるよ、ユーファ」
「……はい。お気を付けて、行って来て下さいね」
顔の筋肉を意識的に笑みの形へと持って行きながら、ともすると緩みそうになる涙腺を引き締める。フラムアークはそんな私に気付く様子なく言った。
「ねえユーファ、お願いがあるんだけど。ハグしてもらえないかな?」
「ハグ、ですか?」
自分の心を守る為の「好きだよ」という呪文とセットで、幼い頃のフラムアークは自らを落ち着かせる為や奮い立たせる為にハグをせがんでくることがあった。
成長して年頃になってからはそれもすっかりなくなっていたので、こんなふうにお願いをされるのは実に久し振りのことだった。
旅立ちに際して相手の無事を祈る意味もある別れのハグは、それ自体は一般的な行為で決して珍しくはなかったけれど、第四皇子という身分にあるフラムアークにはおいそれと出来るものではなく、あらぬ噂などを立てられても困るという懸念があった。
「ここではちょっと……人目もありますので」
そう告げると、心得ていたようにフラムアークは私の手を取って、積み荷の影に移動した。
「ここならいい?」
言いしな、私の返事を待たずに腕を伸ばし、ぎゅっと抱き寄せてくる。
大人のスレンツェとは違い、まだ成長途中のフラムアークの胸板は薄くて、けれど私を包める広さを持ち始めていた。控え目な香水の香りと耳をかすめる低い声が、少年から青年へと移り変わろうとする瑞々しい気配を感じさせる。
「好きだよ、ユーファ」
「……私もです、フラムアーク様」
少し前まで、包み込むのは私の方だった。少し前まで、何のためらいもなく返せていた言葉だった。
なのに私は今、自分で状況を鑑みてからでないと、その言葉を返せない。
おかしくないわよね? 変じゃないわよね?
十六歳という年齢になった第四皇子に対して、私はどこか、線の引きどころを見極めきれずにいる。
フラムアークからは香水の香りに混じって私があげたポプリの匂いがして、彼がそれを身に着けてくれているのを感じ、自分の代わりに香袋を連れていってもらえることを嬉しく思った。
「どうか、お気を付けて」
フラムアークと挨拶を交わし終えたタイミングを見計らったようにスレンツェが現れて、彼を促した。
「そろそろ集合だ」
「うん、今行く。じゃあね、ユーファ」
「無事に視察を終えられますよう、ここで祈っています」
一礼してフラムアークを見送った私にスレンツェが声をかけた。
「視察中、近況を報告する手紙を書く。……そんなに心配するな。ふた月は存外あっという間だ」
長年の付き合いで私がスレンツェの機微を察したように、スレンツェもまた私の機微を察している。
「……急に色々実感して、寂しくなったの。大丈夫よ、ちゃんと笑顔で見送るから。手紙、心待ちにしているわ」
不安定な気持ちを見抜かれて苦笑する私の頭にスレンツェの手が置かれ、雪色の髪をゆっくりと撫でた。
「いい子で待ってろ。土産もちゃんと買ってくるから」
「……!? ちょ、ちょっと、子ども扱いしないでよ! 年下のクセに!」
驚くやら恥ずかしいやらで思わず声を荒げると、スレンツェは口角を上げて小憎らしい物言いをした。
「さあ? オレは未だにお前の年齢を聞かせてもらってないし、見た目ならもうオレの方が年上みたいだしな」
ぐぬぬぬぬ……! ここでそれを持ち出してくる辺り、何でもないような顔をして、実はそこを根に持っていたのね!?
「無理に大人ぶってるよりそっちの方がらしいぞ。じゃあな、行ってくる」
そう言い置いて背を翻したスレンツェに私は頬を膨らませた。
分かっているのよ、さっきの一連のやり取りがあなたなりの不器用な優しさだってことくらい。私は伊達にあなたより長く生きていないんだから、そのくらい気付いている。
「お土産をたくさん持って帰って来なさいよ! 待ってるから!」
精一杯の強がりを、私は彼の背中にかけた。
それからほどなくして準備が整い、フラムアークの視察団は出立した。
スレンツェの発破のおかげで私は彼らを笑顔で見送ることが出来たけれど、城門が開き、最後の馬車が門の向こうへ出て行ってしまうと、胸の奥がつかえるような寂しさが込み上げてきて、涙を堪えることが出来なかった。
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―――行ってしまった。置いて、いかれてしまった。
私はどうして、兎耳族なのだろう。どうしてこの地に縛りつけられ、身動きが許されないのだろう。
重々しい音を立ててゆっくりと閉ざされていく城門を涙ながらに見つめる私の耳に、近くの建物のバルコニー付近から心ない声が流れ込んできた。
「―――あの虚弱な穀潰しに領地視察が務まるのかねぇ」
「無理だろう。途中できっと音を上げて帰ってくる」
「はは。体調を崩して帰ってくるに金貨十枚」
「では、どこかの領主になじられて泣いて帰ってくるに十枚」
「なら、途中で不幸な事故に遭うに十枚」
「目付きの悪い亡国の生き残りに殺されるに十枚」
「兎耳のママが恋しくなって帰ってくるに十枚」
「父上も酔狂なことをなさる……あの役立たずに国庫の金を使うこともあるまいに」
声高に好き勝手な雑言を口にするのは、血を分けたフラムアークの兄弟達だ。
兎耳族の私には、距離があってもハッキリとその会話が聞こえる。
私はきつく唇を噛みしめ、心の中で「フラムアークが立派に務めを終えて無事に帰ってくる」に金貨十枚(実際には持っていないけど)を賭けた。
フラムアークはあんた達よりよっぽど人としてまともよ。皇帝としての資質は、人の痛みを知らないあんた達よりずっとずっと高いものを持っている。
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