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本編
二十二歳⑦
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彼女の口から消え入るような声で紡がれたのは、二人の秘密の逢瀬だった。
―――そうだったの……。
私は胸が詰まるような思いに迫られながら、そっと睫毛を伏せた。
だからレムリアはここへ……。
確かにここなら、密会にはうってつけの場所と言えそうだ。
ゆっくりとこちらを振り返ったレムリアは真っ赤に泣き腫らした目を私に向けて、震える唇を動かした。
「ここで彼を待っている間はワクワクして……表現しようがないくらい幸せな気持ちになった……向こうが先に来ているのを見つけると、嬉しくて胸が高鳴って、言葉に出来ないくらい温かな気持ちになった……」
大きなトルマリン色の瞳に新たな涙が溢れて、とめどなく頬を伝い落ちていく。
「なのに、もう……もう、彼がこの世にいないなんて……殺されちゃったなんて―――しかも、フラムアーク様を殺そうとして? 信じられないよ……! もう―――もう、何が何だから分からない……」
レムリアは虚ろな表情で瞳を彷徨わせながら、ぎゅっと自分の身体を抱くようにして、一歩後退った。
「あんなことがあったのに助けてもらったフラムアーク様をバルトロが本当に殺そうとしたっていうんなら、その恋人で二年前の当事者であるあたしは生きていていいのかな……? それとも、罪人になって牢にずっと繋がれないといけないのかな……?」
ぶつぶつと呟きながらよろめくように後退するレムリアの足が花壇に乗り、その背後の柵が腐食して抜け落ちているのを目にした私は色を失くした。
「レムリア、止まって、危ないから。バルトロのことはもう一度ちゃんとよく確認してみよう? 何かの間違いじゃなければ、余程の事情があるはずだよ。彼はそんなことをするような人じゃないって、私もそう思うもの。フラムアーク様はキチンと調べてくれるし、正当な理由なくあなたを投獄したりなんてしないから、絶対に」
「余程の事情って、何……?」
崖から吹き上げてくる風が、顎の辺りでそろえられたレムリアの雪色の髪をなびかせていく。
「それは、確認してみないと分からないけど―――」
私は言葉を詰まらせながら、その間にもじりじりと後退していく彼女に向かって懇願した。
「ねえレムリア、お願いだから足を止めてちょうだい。私ともっとよく話そう? ねえ、お願いだからこっちへ来て」
「……」
思い詰めた表情のレムリアが返事をしてくれないことが、ひどく怖かった。頭の中をチラつく恐ろしい予感に、胃の腑の辺りがぎゅうっと締め付けられるような思いがする。
「じゃあ、私がそっちへ行ってもいい? そっちへ行くからそこで待っててくれる?」
「……」
私はレムリアを刺激してしまわないよう、いつも通りの表情と声色を心掛けながら、手を差し出してゆっくりと彼女に歩み寄った。心臓がひりつくような焦燥感に苛まれながら、慌てて駆け寄りたくなる衝動をぐっと堪えて、彼女の様子に細心の注意を払いながら距離を詰めていく。
「バルトロがいないのに、あたしが生きてる意味なんてあるのかな……?」
その呟きに、彼女が抱える絶望の深さが見て取れて、切なくなった。
「あるよ。あるにきまってる。私にはレムリアが必要だよ……!」
私は距離を測りながら彼女に向かって必死に訴えた。
「私、これまで何度レムリアに助けてもらったか分からない。何度もあなたの前で弱音を吐いて、その度にあなたが励ましてくれたから、そのおかげでどうにか私はやってこれたの。レムリアがいなかったら、今の私はいない。お願いだから、そんなふうに自分に何もないみたいに言わないで」
レムリアの足が止まった。私はすかさず踏み込んで、彼女の手首を捕まえる。
掴んだ彼女の体温に、心から安堵した。
―――危なかった……! もう二、三歩下がっていたら、本当に柵の外へ転落してしまいかねないところだった。
私は間違ってもレムリアが崖下へ落ちてしまわないよう、泣きじゃくる彼女の手を引いて自分と立ち位置を入れ替え、彼女をぎゅっと抱きしめた。それからこれまで彼女がしてくれたように、何度も何度も優しく慈しむようにして彼女の頭を撫でた。
「ユーファ……ユーファぁっ……!」
レムリアがむせび泣きながら私にしがみついてくる。私も涙ぐみながら改めて彼女を抱きしめ返した。
「レムリア……!」
「バルトロがいないのに、あたし、生きていていいのかなぁ? バルトロのいない世界で、あたし、生きていけるのかなぁ!? 想像がつかないよ……!」
鼻をすすりながら訴えるレムリアの両肩に手を置いて、私は彼女の目を見据えながら言った。
「生きていていいに決まっているし、生きていかなきゃダメよ。私に出来ることなら何でも協力するから」
「本当……?」
泣き濡れた顔で心細そうに見つめ返してくる彼女に、私は力強く頷いた。
「ええ」
その、刹那。
ドンッ。
胸の辺りに予想外の強い衝撃を受けて、全くの無防備だった私の身体は大きく後方へと弾かれていた。たたらを踏もうとした足は、そこに地面を見つけることが出来なかった。
―――え?
私はサファイアブルーの瞳をいっぱいに見開いた。
混乱する視界に、朝焼けに染まる空と、屈託のない微笑みを湛えるレムリアの姿とが映る。
「ユーファなら絶対にそう言ってくれると思ってた! ありがとねぇ」
何が起こったのか理解するまでに果てしなく時間がかかったようにも、瞬時に理解したようにも感じられた。
レムリアに突き飛ばされた私の身体は柵を超え、宙空へと押し出されていたのだ。
下から吹き上げてくる風に自分の長い雪色の髪が舞い上げられて踊り、白い長衣がはためいて、レムリアに向かって伸ばした手が彼女から遠ざかっていく。胸の奥からヒンヤリとする浮遊感が込み上げて、私を見下ろすレムリアの姿が小さく、崖下から見上げるアングルへと変わっていった。
―――何故、どうして、いつから―――とめどない思考がもの凄い勢いで溢れ出し、とりとめのない過去の映像達が凄まじい速さで瞼の裏に再生されていく。反対に視界に映る全ての光景はスローモーションとなって、現実の時間の経過がひどくゆっくりと感じられた。
これがいわゆる「記憶が走馬灯のように」という現象―――? 一説によると、生き残る為の方策を過去の情報の中から模索している状態という―――知識としては知っていたけれど、まさかこんな形でこれを体験することになるなんて―――。
どこか他人事のようにそんなことを思う傍ら、次々と浮かんでは消えていくフラムアークとスレンツェの映像の多さに涙が溢れた。
このまま私がここから堕ちて死んでしまったら―――貴方達はきっと、自分を責めて責めて責め抜いて、癒えることのない深い傷を負ってしまうわね。
それでも人前では毅然とした姿を崩さずに、きっと独り、人目を忍んで慟哭する。
―――あの時みたいに。
崩れ落ちるようにして膝をつき、身体を打ち震わせて嗚咽するいつかのフラムアークの姿が、声もなく肩を震わせて涙するスレンツェの姿が脳裏をよぎった。
その時、傍でそれを支えてくれる人がいたらいい―――その痛みを分かち合ってくれる人がいたらいい。
エレオラの姿が一瞬浮かんで消えていき、次いでアデリーネ嬢の輪郭が浮かびかけたその瞬間、どこからともなく現れた覚えのある二本のたくましい腕が、私を背後から掻き抱くようにしてその中に収め、彼女の輪郭をかき消した。
『―――っ……ユーファ……、ユーファッ……』
耳に甦る、私を求めて嗚咽する声。
その声に、走馬灯の只中にいた私はハッと目を見開いた。
―――フラムアーク。
その瞬間、瞼の裏を流れる膨大な映像の全てが彼へと置き換わり、滾るような熱情となって私の中に溢れ出した。
―――死ねない……!
迸るような激情に突き動かされるままに、私は胸元から取り出したナイフを振りかぶり、力の限り崖の斜面へと突き立てていた。
ガキィッ、と硬い音を立てて刃が弾かれ、体験したことのない衝撃と痺れを掌に伝えてくる。
私は奥歯を噛みしめながら、必死に継ぎ目のようになっているところを探してナイフを突き立てた。
けれど硬い岩肌は無情にも刃を通さず、当たった摩擦で火花を散らせながら、滑るようにして落下していく。途中で窪みのようになっているところに刃先が一度引っ掛かり、反動でバウンドして小さな岩棚に乗り上げるようにした後、そこが崩れて、また空中へと投げ出される。
左手を伸ばして崖から生える細い木を懸命に掴むも瞬時に折れ、右手でナイフを岩壁に突き立てようとするも三度弾かれ、全身全霊で挑んだ四回目、ようやくナイフが斜面に突き刺さった。と思ったのも束の間、足がぶらん、となった直後に負荷に耐え切れなくなったナイフが根元から折れ、頼みの綱が切れた私はそのまま為す術なく、真っ逆さまに落下していった。
―――死ねない。死ねないのに……!
泣きたくなるような焦燥感に苛まれながら、私は歯を食いしばった。
私を手放す覚悟を決めて、精一杯強がって見せていた、あの時のフラムアークの姿が脳裏に浮かぶ。
私がここで死んでしまったら、誰がフラムアークの心の拠り所になるの?
上に立つ者としては優し過ぎて、自分よりも他人のことを優先してしまいがちで、なのに自分を律することが上手過ぎて、その器量と包容力で自身の痛みも弱みも綺麗に包み隠してしまうあの人が本音を曝け出せる場所を、誰が提供してあげられるの?
本当は寂しがりで甘えたがりで、他人と争うことなんて大嫌いで、けれどこの国で生きていく為に、自分の信念を貫く為に、掲げる理想を実現させる為に、骨肉の争いに身を投じる覚悟を決めたあの人を、誰が―――!
―――ううん、違う。
この時ようやく、私には私の心が見えた。
他の誰でもなく、この私が―――私自身があの人の一番傍にいて、どんな時も支えていきたいんだ、ずっと。
他の誰かじゃ、嫌なんだ―――他の誰にも任せたくなんかないんだ。
おこがましくても、不相応でも、それを分かっていても、あの男性の傍にいたい。守りたい。
フラムアークのことを、愛しているから。
ようやく見出せたその想いが涙となって溢れていく。
死ねない―――死にたくない―――……!
もう一度フラムアークに会いたい。会わなくちゃいけない。
彼の身に危険が迫っている。レムリアのことを伝えなければ―――!
めくるめく様々な思いとは裏腹に、私の身体は盛大な水飛沫を上げて、深い崖の下を流れる冷たい川底へと沈んでいった。
―――そうだったの……。
私は胸が詰まるような思いに迫られながら、そっと睫毛を伏せた。
だからレムリアはここへ……。
確かにここなら、密会にはうってつけの場所と言えそうだ。
ゆっくりとこちらを振り返ったレムリアは真っ赤に泣き腫らした目を私に向けて、震える唇を動かした。
「ここで彼を待っている間はワクワクして……表現しようがないくらい幸せな気持ちになった……向こうが先に来ているのを見つけると、嬉しくて胸が高鳴って、言葉に出来ないくらい温かな気持ちになった……」
大きなトルマリン色の瞳に新たな涙が溢れて、とめどなく頬を伝い落ちていく。
「なのに、もう……もう、彼がこの世にいないなんて……殺されちゃったなんて―――しかも、フラムアーク様を殺そうとして? 信じられないよ……! もう―――もう、何が何だから分からない……」
レムリアは虚ろな表情で瞳を彷徨わせながら、ぎゅっと自分の身体を抱くようにして、一歩後退った。
「あんなことがあったのに助けてもらったフラムアーク様をバルトロが本当に殺そうとしたっていうんなら、その恋人で二年前の当事者であるあたしは生きていていいのかな……? それとも、罪人になって牢にずっと繋がれないといけないのかな……?」
ぶつぶつと呟きながらよろめくように後退するレムリアの足が花壇に乗り、その背後の柵が腐食して抜け落ちているのを目にした私は色を失くした。
「レムリア、止まって、危ないから。バルトロのことはもう一度ちゃんとよく確認してみよう? 何かの間違いじゃなければ、余程の事情があるはずだよ。彼はそんなことをするような人じゃないって、私もそう思うもの。フラムアーク様はキチンと調べてくれるし、正当な理由なくあなたを投獄したりなんてしないから、絶対に」
「余程の事情って、何……?」
崖から吹き上げてくる風が、顎の辺りでそろえられたレムリアの雪色の髪をなびかせていく。
「それは、確認してみないと分からないけど―――」
私は言葉を詰まらせながら、その間にもじりじりと後退していく彼女に向かって懇願した。
「ねえレムリア、お願いだから足を止めてちょうだい。私ともっとよく話そう? ねえ、お願いだからこっちへ来て」
「……」
思い詰めた表情のレムリアが返事をしてくれないことが、ひどく怖かった。頭の中をチラつく恐ろしい予感に、胃の腑の辺りがぎゅうっと締め付けられるような思いがする。
「じゃあ、私がそっちへ行ってもいい? そっちへ行くからそこで待っててくれる?」
「……」
私はレムリアを刺激してしまわないよう、いつも通りの表情と声色を心掛けながら、手を差し出してゆっくりと彼女に歩み寄った。心臓がひりつくような焦燥感に苛まれながら、慌てて駆け寄りたくなる衝動をぐっと堪えて、彼女の様子に細心の注意を払いながら距離を詰めていく。
「バルトロがいないのに、あたしが生きてる意味なんてあるのかな……?」
その呟きに、彼女が抱える絶望の深さが見て取れて、切なくなった。
「あるよ。あるにきまってる。私にはレムリアが必要だよ……!」
私は距離を測りながら彼女に向かって必死に訴えた。
「私、これまで何度レムリアに助けてもらったか分からない。何度もあなたの前で弱音を吐いて、その度にあなたが励ましてくれたから、そのおかげでどうにか私はやってこれたの。レムリアがいなかったら、今の私はいない。お願いだから、そんなふうに自分に何もないみたいに言わないで」
レムリアの足が止まった。私はすかさず踏み込んで、彼女の手首を捕まえる。
掴んだ彼女の体温に、心から安堵した。
―――危なかった……! もう二、三歩下がっていたら、本当に柵の外へ転落してしまいかねないところだった。
私は間違ってもレムリアが崖下へ落ちてしまわないよう、泣きじゃくる彼女の手を引いて自分と立ち位置を入れ替え、彼女をぎゅっと抱きしめた。それからこれまで彼女がしてくれたように、何度も何度も優しく慈しむようにして彼女の頭を撫でた。
「ユーファ……ユーファぁっ……!」
レムリアがむせび泣きながら私にしがみついてくる。私も涙ぐみながら改めて彼女を抱きしめ返した。
「レムリア……!」
「バルトロがいないのに、あたし、生きていていいのかなぁ? バルトロのいない世界で、あたし、生きていけるのかなぁ!? 想像がつかないよ……!」
鼻をすすりながら訴えるレムリアの両肩に手を置いて、私は彼女の目を見据えながら言った。
「生きていていいに決まっているし、生きていかなきゃダメよ。私に出来ることなら何でも協力するから」
「本当……?」
泣き濡れた顔で心細そうに見つめ返してくる彼女に、私は力強く頷いた。
「ええ」
その、刹那。
ドンッ。
胸の辺りに予想外の強い衝撃を受けて、全くの無防備だった私の身体は大きく後方へと弾かれていた。たたらを踏もうとした足は、そこに地面を見つけることが出来なかった。
―――え?
私はサファイアブルーの瞳をいっぱいに見開いた。
混乱する視界に、朝焼けに染まる空と、屈託のない微笑みを湛えるレムリアの姿とが映る。
「ユーファなら絶対にそう言ってくれると思ってた! ありがとねぇ」
何が起こったのか理解するまでに果てしなく時間がかかったようにも、瞬時に理解したようにも感じられた。
レムリアに突き飛ばされた私の身体は柵を超え、宙空へと押し出されていたのだ。
下から吹き上げてくる風に自分の長い雪色の髪が舞い上げられて踊り、白い長衣がはためいて、レムリアに向かって伸ばした手が彼女から遠ざかっていく。胸の奥からヒンヤリとする浮遊感が込み上げて、私を見下ろすレムリアの姿が小さく、崖下から見上げるアングルへと変わっていった。
―――何故、どうして、いつから―――とめどない思考がもの凄い勢いで溢れ出し、とりとめのない過去の映像達が凄まじい速さで瞼の裏に再生されていく。反対に視界に映る全ての光景はスローモーションとなって、現実の時間の経過がひどくゆっくりと感じられた。
これがいわゆる「記憶が走馬灯のように」という現象―――? 一説によると、生き残る為の方策を過去の情報の中から模索している状態という―――知識としては知っていたけれど、まさかこんな形でこれを体験することになるなんて―――。
どこか他人事のようにそんなことを思う傍ら、次々と浮かんでは消えていくフラムアークとスレンツェの映像の多さに涙が溢れた。
このまま私がここから堕ちて死んでしまったら―――貴方達はきっと、自分を責めて責めて責め抜いて、癒えることのない深い傷を負ってしまうわね。
それでも人前では毅然とした姿を崩さずに、きっと独り、人目を忍んで慟哭する。
―――あの時みたいに。
崩れ落ちるようにして膝をつき、身体を打ち震わせて嗚咽するいつかのフラムアークの姿が、声もなく肩を震わせて涙するスレンツェの姿が脳裏をよぎった。
その時、傍でそれを支えてくれる人がいたらいい―――その痛みを分かち合ってくれる人がいたらいい。
エレオラの姿が一瞬浮かんで消えていき、次いでアデリーネ嬢の輪郭が浮かびかけたその瞬間、どこからともなく現れた覚えのある二本のたくましい腕が、私を背後から掻き抱くようにしてその中に収め、彼女の輪郭をかき消した。
『―――っ……ユーファ……、ユーファッ……』
耳に甦る、私を求めて嗚咽する声。
その声に、走馬灯の只中にいた私はハッと目を見開いた。
―――フラムアーク。
その瞬間、瞼の裏を流れる膨大な映像の全てが彼へと置き換わり、滾るような熱情となって私の中に溢れ出した。
―――死ねない……!
迸るような激情に突き動かされるままに、私は胸元から取り出したナイフを振りかぶり、力の限り崖の斜面へと突き立てていた。
ガキィッ、と硬い音を立てて刃が弾かれ、体験したことのない衝撃と痺れを掌に伝えてくる。
私は奥歯を噛みしめながら、必死に継ぎ目のようになっているところを探してナイフを突き立てた。
けれど硬い岩肌は無情にも刃を通さず、当たった摩擦で火花を散らせながら、滑るようにして落下していく。途中で窪みのようになっているところに刃先が一度引っ掛かり、反動でバウンドして小さな岩棚に乗り上げるようにした後、そこが崩れて、また空中へと投げ出される。
左手を伸ばして崖から生える細い木を懸命に掴むも瞬時に折れ、右手でナイフを岩壁に突き立てようとするも三度弾かれ、全身全霊で挑んだ四回目、ようやくナイフが斜面に突き刺さった。と思ったのも束の間、足がぶらん、となった直後に負荷に耐え切れなくなったナイフが根元から折れ、頼みの綱が切れた私はそのまま為す術なく、真っ逆さまに落下していった。
―――死ねない。死ねないのに……!
泣きたくなるような焦燥感に苛まれながら、私は歯を食いしばった。
私を手放す覚悟を決めて、精一杯強がって見せていた、あの時のフラムアークの姿が脳裏に浮かぶ。
私がここで死んでしまったら、誰がフラムアークの心の拠り所になるの?
上に立つ者としては優し過ぎて、自分よりも他人のことを優先してしまいがちで、なのに自分を律することが上手過ぎて、その器量と包容力で自身の痛みも弱みも綺麗に包み隠してしまうあの人が本音を曝け出せる場所を、誰が提供してあげられるの?
本当は寂しがりで甘えたがりで、他人と争うことなんて大嫌いで、けれどこの国で生きていく為に、自分の信念を貫く為に、掲げる理想を実現させる為に、骨肉の争いに身を投じる覚悟を決めたあの人を、誰が―――!
―――ううん、違う。
この時ようやく、私には私の心が見えた。
他の誰でもなく、この私が―――私自身があの人の一番傍にいて、どんな時も支えていきたいんだ、ずっと。
他の誰かじゃ、嫌なんだ―――他の誰にも任せたくなんかないんだ。
おこがましくても、不相応でも、それを分かっていても、あの男性の傍にいたい。守りたい。
フラムアークのことを、愛しているから。
ようやく見出せたその想いが涙となって溢れていく。
死ねない―――死にたくない―――……!
もう一度フラムアークに会いたい。会わなくちゃいけない。
彼の身に危険が迫っている。レムリアのことを伝えなければ―――!
めくるめく様々な思いとは裏腹に、私の身体は盛大な水飛沫を上げて、深い崖の下を流れる冷たい川底へと沈んでいった。
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