金色(こんじき)の龍は、黄昏に鎮魂曲(レクイエム)をうたう

藤原 秋

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 不気味に空を覆い尽くした黒雲の下、一振りの刀に向けられる、禍々しい輝きを放つ死者達の怨念。

(―――さぁ、砕け散れッ!)

 地龍の号令と共に、霊達の強大な念が空中の蒼影牙に向かって放たれた!

 バチィィ……ン!

 けたたましい音を立てて激突し、激しい光のスパークを巻き起こしながら、念が蒼影牙の結界を脅かす!

 バチッ……バチバチバチッ!

 力と力の激しい応酬。蒼の光と赤黒い光とが入り乱れて辺りに氾濫する。凄まじい力の余波を受けた崖が崩れ落ち、煽りを受けた周囲の木々が根こそぎ薙ぎ倒される!

 オレを抱きかばうようにして伏せ、衝撃波から守る那由良。彼女の肩越しに、オレは徐々に圧され始める蒼影牙の姿を見た。

 結界が圧迫され、蒼い刀身が無理な力で捻じ曲げられるようにして反り返る。ギシギシと、それが限界なのを訴えるように、軋みが空気を通して伝わってくる。

 ―――アオッ……!

 自分の激痛を忘れ、息を飲み見つめるオレの前で、ビキッ、とその刀身にヒビが入った。

(妖刀よ、滅びるがいい、永遠に……!)

 ――――――!!

 その瞬間、水龍の宿った神刀―――蒼影牙は甲高い金属音を響かせて砕け散った!

「ア……オッ―――!」

 呻くオレの眼前で、折れた蒼影牙の柄が、大きな弧を描いて落下する。

(―――はあっはっは! 砕けおった! 砕けて粉々になりおった! いい気分だ……実にいい気分だ! 小賢しいアヤツめ、砕けて永遠になくなりおったわ!!)

 耳障りな地龍の笑い声が、暗雲に覆われた龍神の谷にこだまする。

 チッ……ク、ショオ……! アオ……!

 指の間から、希望がこぼれ落ちていくような気がする。

 もう、ダメ……か? 終わりなのか?

 那由良が頑張って傷を治してくれたとしても、これじゃあ―――。

 絶望感に、心がゆっくりと支配されていく。

 そんなオレの目に、役目を終え散り散りになっていく霊達の姿が映った。

 ―――そして。オレは、見た。

 彼らの頬を伝う、仄赤い光を……。

 血の……涙……?

 一瞬、息が出来なかった。

 彼らも……必死に戦っていたのか? 精神の底で……。

 怒りに任せて怒鳴っていた自分を、オレは恥じた。

 彼らは多分、ずっと必死で抵抗していたに違いない。おそらくは何十年も何百年も……気の遠くなるような昔から、地龍の呪縛から逃れようともがいてもがいて……それでも、圧倒的な力に勝てなくて。

 ―――オレは、バカだ……。

 遠くで、雷鳴が鳴り響いた。無残に転がる蒼影牙の柄を見つめる那由良の頬に、雨の雫が当たる。それを合図にするようにして、涙雨が降り始めた。

 ……負けられ、ねぇ……絶対に!

 激痛に苛まれながら、オレは震える指先で土を掻いた。

 心の底から込み上げてくる熱い力。勇気はこんなにも奮い立つのに、深い傷を負った肉体がそれを許してくれない。

(くくく、絶望という気分を味わうのはどんな気持ちだ? 待たせたな……次はいよいよ貴様らの番だ。覚悟は出来たか……?)

 耳元まで裂けた地龍の口の中に、凶悪な白銀の輝きが生まれる。

 ―――吹雪!?

(凍りつけて動けなくしてから、たっぷりとなぶってやる……!)

 目を剥くオレ達の前で、ドッ、と白銀の悪夢が吐き出された!

「くぅっ!」

 動けないオレの前に立ちはだかった那由良が両手を広げ、結界でそれを受け止める!

 ドゴオォォッ!

 全てを飲み込むような凄まじい音を立てて激突した吹雪が、結界の外に吹き荒れる!

(愚か者め! 貴様のチカラが、このワシに敵うかぁッ!)

「……っ!」

 顔を歪めて吹雪を受け止める那由良の結界がビリビリと揺れる。長い黒髪が煽られてたなびき、圧倒的な力に圧され、彼女の足が後退する!

「く……そっ……!」

 オレはどうにか身体を起こそうと試みたが、身体が全く言うことを利かない。頭をもたげるのが精一杯という有様だ。

「あうっ……!」

 那由良の掌から血が噴き出す!

「彪……ごめん……ごめんねぇっ……。こ……んなことに、巻き込んじゃって……!」

 悲鳴に近い彼女の声。

「ごめんねぇっ……!」

 オレ、は……オレは―――!

 自身に対する激しい苛立ち。

 小六の最期の光景が、涙ながらに見送る村人達の姿が、過去のアオの記憶が、砕け散る蒼影牙が、目の前を走馬灯のように駆け抜けていく。

 そして今まさに、目の前で力尽きようとする、那由良の姿―――……。

「アオ―――ッ!!」

 感情が爆発する。吹き荒れる激情を言霊に込め、オレは喉が張り裂けんばかりにその名を呼んだ。

「アオ! アオ! 聞こえるか!?」

 呼吸をする度、喉から喘息にも似たヒューヒューという異音が漏れる。口いっぱいに広がる鉄の味を意識しながら、オレは全身全霊でアオに呼びかけた。

「お前とオレは、一蓮托生だろう! 人間のオレがまだ生きてんのに、龍のお前が先にくたばってんじゃねぇ!」

 血の泡を吹きながら、オレは折れた蒼影牙の柄に向かって腕を伸ばした。

「オレの匂いを感じろ! ―――来い!!」

(……。……)

 それに反応するように、柄にわずかに残る蒼影牙の刀身が微かに光った。

「アオ! 来いッ!!」

 奇跡が起こった。見えない引力に導かれるようにして、蒼影牙の柄がオレの掌の中に飛び込んでくる。

「父、さん……、母さん……! 助けて!」

 祈るような呟きが那由良の口から漏れると同時に結界が破れ、オレは凍てつく吹雪が迫り来る瞬間をストップモーションで見た。

 絶体絶命。今まさに白銀の魔の手に飲み込まれようとするオレ達の前に、柔らかな光のヴェールが立ちはだかったのはその時だった。

(な……!?)

 驚愕の光景に目を疑う地龍。ヴェールは人の姿を形取り、一瞬那由良に微笑みかけた後、眩い閃光となって吹雪を打ち消した。目鼻立ちが、彼女にそっくりだった。

(ぐぁっ―――!)

 目を焼かれた地龍が、苦悶の声を上げてのたうつ。

 思いがけぬ現象に言葉も出ないオレ達の前で、温かな光の残滓ざんしが、宙に溶け込むようにして消えていく。

「かっ……」

 それを追いかけるように一歩踏み出して、那由良は絶叫した。

「母さぁーんッ!!」

 その時、まるでそれに導かれるかのようにして、手の中の蒼影牙から求めていた声が聞こえてきた。

(……お前か、彪……至高の……匂いだ……)

「ア、オ……!」

(お互い、ヒドい有様のよう、だな……)
(―――どっちかっつーと、お前の方がヒドくね? オレは一応、五体満足だし)

 声に出すのが辛いので心の中でそう返すと、偉そうな、いつものアオの答えが返ってきた。

(フン、生意気なヤツだ……私を握る力は、残っているんだろうな……)
(ギリギリ、かな……立つのが厳しい、ってのが問題だ……)

 そんな会話を交わすオレ達の上に、那由良の影が差した。凛とした彼女の瞳は、見上げるオレではなく、オレの手の蒼影牙に向けられていた。

「……。父さん―――」

(那由良……)

「あたしに、力を貸して」

(……。お前は、私と水那の娘だ……)

 初めて交わされる、父娘おやこの会話。こんなに柔らかくて温かいアオの声は、初めて聞いた。

 父の言葉を受け、何かが吹っ切れたように微笑んだ那由良は、オレの傷口にそっと手をあてがった。

「自信を持て、ってこと、だね。さっき、彪にも似たようなこと、言われたよ……」

 澄み切った黒の瞳が、仄かに蒼い色を帯びる。彼女の掌から強い癒しのチカラが流れ込んでくるのを、オレは感じた。じわり、と肉体を穿つ氷の槍が溶けるごとに、その周囲の組織が回復していく気配が伝わってくる。

(く……おのれ、小賢しい真似をっ……!)

 視力を取り戻した地龍がいまいましげに舌打ちした。

(虫の息にありながら絶対者に逆らう見苦しき者共……もはや容赦せんぞ! 黄泉への引導を渡してくれる!!)

 氷の呪縛から解き放たれた滝が、轟々と渦巻きながら地龍の背後に集まり、その質量を瞬く間に増大させていく。

 津波……! でかい! 半端ねぇ!!

 あの時とは、比べモンにならねーぞ!

 傷はまだ半分程度しか回復していない。

 青ざめながら、オレはその脅威を仰ぎ見た。

 ―――くそ、どうする!?

(身体中の骨をへし折られ、苦痛に喘ぎながら溺れ死ね!)

 地龍の怒号が轟く! まるで高層ビルのような波が黄泉への影を落として、オレ達に向かい一気になだれこんだ!

 死へのカウントダウンが背筋を駆け上る。傷の癒えない身体を引きずるようにして無理矢理立ち上がろうとしたその瞬間、巨大な水の流れが何故かビタリ、と静止した。

(うっ……!?)

 地龍の顔が苦しげに歪む。

 ……!?

 いったい何が起こったのか、ワケも分からぬままそれを見つめるオレの前で、少しずつ、少しずつ、水の進路が変わっていく。

(う、が、あっ……!)

 地龍が呻く。まるで、何か強大な力と戦っているかのようだ。

 何だ!? いったい何と戦って―――まさか!?

 振り仰いだそこには、悟りを開いたかのような那由良がいた。

 鮮やかに煌く、宝玉のような蒼の双眸。長い黒髪は水中を泳ぐ魚のように宙に揺らめき、その身体には神々しい蒼のオーラを纏っている。まるで聖域に湛えられた泉のような静謐せいひつさと、神秘的で荘厳な佇まいが融和した、水龍の娘たる彼女の姿―――……。

(うぐぅぅっ!)

 地龍の顔が痛烈に歪む。その口から、喘ぎとも悲鳴ともつかぬ声が漏れた。

(こっ、小娘がっ……貴様なんぞに、水の絶対主である、このワシがぁぁっ……!)

 那由良の瞳がぎん、と鋭さを帯びる。

「お前が、水の絶対主であるものか……!」

 開眼した水の巫女の口から、絶対の意を込めた言霊が迸る!

「水よ、あたしに従え!!」

 瞬間、津波は勢いよく取って返すと、数百年もの間水龍として君臨し続けた地の龍に巻きつき、その身体を縛り上げた!

(うがああぁ―――ッ!!)

 自由を奪われた邪龍の怒声が龍神の谷にこだまする!

 覚醒した那由良の手から放たれる癒しの光が、氷の槍を溶かし、オレの傷口を完全に塞いでいく。

(く、くくく……那由良よ、ワシを拘束したはいいが、そこから先の手はあるのか? 水では、この肉体は殺せぬぞ……)

 冷静さを取り繕いながら、地龍は喉の奥で嗤った。

(まさか、でこのワシと勝負する気ではあるまいな?)

 立ち上がったオレが手にした蒼影牙を見やり、嘲りを込めて言う。

 刀身がわずかにしか残っていない、神刀の成れの果ての姿―――侮る地龍を見据えながら、オレはアオに語りかけた。

「アイツを永久に黙らせるコト、出来んだろうな?」

(私に同調しろ、彪。蒼影牙の真の力は刀身にくたいにあらず―――)

「同調、って、どうやって」

(私を握る掌に意識を集中させろ。そして、感じろ。私から伝わる全てを―――)

 オレはアオに言われるまま目を閉じ、全神経を蒼影牙と繋がる掌に集中させた。

 ……トクン。

 静かに響き渡る自分の鼓動。掌に感じる、蒼影牙の内なる脈動。熱い想いが混じり合い、高まり合い、そして―――。

 ……これは?

 ふと聞こえた何かに、オレは耳を澄ませた。

 人の声? どこからだ? たくさんの人の声、が―――……。

 その瞬間、瞼の裏に鮮やかな光景が広がった。

 小さな社の前で、肩を寄せ合いながら祈りを捧げる人々の姿―――サチ、おタキ、村長……あの村の人達が涙ぐみながら、一心不乱に、オレ達の無事を、勝利を祈っている。

 それとは違う場所から流れてくるのは、嘆きに満ちた人々の声。助けを求める、死者達の声。死してなお縛り続けられる者達の、もがき苦しむ悲愴な響き―――……。

『彪……』

 闇の中に現れた蒼い物の怪が、オレの名を呼ぶ。

『私の全てと引き換えに、お前に―――』

 吸いこまれるようにクローズアップされる蒼い炎がオレに重なり、溶け込んでいく。

 ―――那由良を、この地を、救ってくれ……。

 掌の中に、チカラが生まれる。溶け合い、湧きでる、この地に住む者達の全ての想い―――!

 熱い。熱い。全身を駆け巡る、沸騰するような血のたぎり。

「うおおぉぉ―――ッ!!」

 願いが、祈りが、想いが、ひとつになる。それに応えるように、黒雲から迸ったいかづちが蒼影牙に降臨する!

 鼓膜が破れんばかりの轟音と、射抜かれるような衝撃。凄まじい熱と光を受け止め、うっすらと瞼を開けたそこに、オレは見た。雷光が刃へと変わっていく、その瞬間を!

(な……何だとッ!?)

 地龍の声に動揺が走る。

(バカな……! 水に属する貴様が、いかづちなど! 己の魂魄こんぱくをも、消し去る気か!?)

 手の中にある、強い力。絶対的な、神威。その凄まじい感覚に、全身が粟立った。

「これが……」

 これがアオ、、蒼影牙の真の力―――!

 蒼影牙と寸分たがわぬ、黄金の刃。強い光を放つそれは、まさしく、雷光で出来た神の刀。

「那由良……援護を頼む」

 傍らの彼女にそれだけ言い置いて、オレは地龍に対峙した。傷は癒えたものの、大量の血を失った身体がふらつく。

(―――く、くく……まともに歩くのがやっとの人間風情が、何をする気だ? 過ぎた力を手にしたところで、扱いきれまい……)

 水に拘束されたまま、虚勢を張る地龍を見やり、オレは言った。

「伝わってくるぜ……お前の怯えが……」

 その言葉は、地龍の逆鱗に触れた。

(怯えだと? このワシが、貴様如き虫ケラに? 小僧がっ……動きを封じられた程度で、このワシが貴様なんぞに遅れを取ると思うのか!)

 深い怒りが、大気を震撼させる。その恫喝に臆することなく、オレは蒼影牙を構えた。

「オレじゃない。コイツに、さ」

 あの時―――オレは、全てを理解した。

(身の程知らずが!)

 激昂する地龍が吹雪を吐く! 那由良の結界がオレを包み、その猛威を遮断する!

(ぐっ……おのれぇぇぇ!)

 ―――蒼影牙は『心』で使うんだ!

「だあぁっ!」

 裂帛の気合もろとも、地龍の脇腹が剣圧で裂け、淀んだ血が噴き出す!

(がっ……!?)

 その傷口を穿つ雷撃の余波。苦痛に顔を歪める地龍の足元に、一瞬にしてオレは詰め寄っていた。

(なっ!? こ、小僧っ……!)

「今度こそ最後だ……!」

 オレに残された最後の力……地を踏みしめて蒼影牙を構え―――念じる!

(ぐあぁっ!)

 地龍の左腕が飛ぶ!

 ―――後は、蒼影牙が引っ張っていってくれる!

(むっ、虫ケラがぁ~っ……!)

 地を這うような、絶対主を名乗る龍の呻き。深い傷を負った巨躯をわななかせ、残った腕と尾をめちゃくちゃに振り回し、地龍が暴れる! 大地が波打ち、砕け散った岩壁が周囲に飛び散り、手当たり次第に口から放たれる波動が爆音を深い谷に轟かせる!

 オレは那由良の結界に護られ、それらをすんでのところでかわしながら、蒼影牙を振るった。瞬く間に、拘束された地龍の身体が血に染まっていく。

(おおっ……バカ、な……バカなぁっ! 我はこの地の絶対者……龍神だぞぉっ!? に……ん、げんに……こんなっ……たかが人間にぃぃっ……!)

「ここはてめぇの居るべき場所じゃねぇ!」

 悠然とした態度の、蒼い物の怪の姿が脳裏をよぎる。

「ここは、てめぇなんかが居ていい場所じゃねぇんだ! その肉体を天に還して、地獄へ堕ちやがれ!!」

 ヒイィィィン!

 オレの心に共鳴して、その輝きを一層増した蒼影牙が黄金の唸りを上げる!

 波動を放とうとした地龍の口を、那由良が水の縄で封じた。

(く……まっ、待てッ!)

「うおおぉぉ―――ッ!!」

 残る全ての力をもって、オレは地龍の脳天に蒼影牙を振り下ろした。

(ギャアアアァ―――ッ!!)

 龍神の谷に響き渡る、偽りの水神の断末魔。その末期の叫びは幾度も幾度も反響を繰り返しながら、永きに渡って蹂躙し続けた地に轟き、そして、ゆっくりと消えていった。

 長い長い死闘に、ようやく幕が下ろされた瞬間だった……。







 ピキィィィ……ン!

 まるで空が共鳴するかのような、不思議な音が辺りに響き渡った。

 血の海が広がる大地に両手両膝をついて肩で呼吸をしていたオレは、その音を聞いて顔を上げた。

 そして、息を飲んだ。

 あちらこちらから、半透明の球体が天に向かって昇り始めたからだ。

 いつの間にか雨が上がり黒雲の合間から夕陽が差し込む空を、茜色に照らされた半透明の球体達がゆっくりと上昇していく。

「結界が、解けたんだ……」

 背後から、涼やかな声音が響いた。

 言葉を失って幻想的なその光景に見入るオレの元へ歩み寄ってきた那由良が、空を見上げ、囁くような口調で言った。

「地龍に閉じ込められていた者達の魂だよ……。長い束縛から解放されて、今、やっと成仏出来るんだ……」
「魂……」

 そう呟いたオレは、ハッとして手元の蒼影牙を見やった。

「アオ……!」

 輝きを失った神刀は、わずかに刀身の残った無残な姿を晒したまま、ひっそりと息絶えていた。

「アオ、お前……! マジかよ……!?」

 涙ぐむオレの手の中の蒼影牙に愛しむように触れ、那由良はそっと父の形見を手に取った。

「父さん……」

 あぁ、オレが泣いている場合じゃ、ない。那由良にとって、アオは父親だったんだ。あんな形で再会して、またすぐにこんなふうに別れなければならないなんて……オレが、彼女を支えてやらなきゃ―――。

 目頭を拭い、蒼影牙を胸に抱く那由良に向き直ったオレは、おぼろげに輝く彼女の姿を見て、愕然となった。

 彼女の身体は淡い光に包まれ、その向こうの景色がうっすらと透けて見えていた。

「那由良!? お前―――!」

 消えかけている……!?

 言葉を失うオレに、彼女は小さく寂しげに微笑みかけた。

「地龍が死んで呪いが解け……この地の生きとし生けるものは、あるべき自然の姿を取り戻したんだ……」
「それ、って……」
「この肉体は、本来の寿命をとっくに超えてしまっているんだよ」

 そう言って、彼女はそっと睫毛を伏せた。

 あまりのことに、思考能力が停止して言葉が出てこない。

 震えながら伸ばした手は、まだ彼女に触れることが出来た。

 けれど……何ておぼろげで、儚い感触なんだ……。

「―――何だよ、それ……。聞いてねぇ……聞いてねぇぞ!」

 ようやく発した言葉と共に、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 やっと―――やっと、分かった。

 村人達は、こうなるだろうことを予感していた。だから、あれほどためらい、ぎりぎりまで反対していたんだ。

『この刀の持つ全てを受け入れ、それを背負う覚悟がお前にはあるのか』

 あの時のアオの言葉が、耳に甦る。

 あれには、こういう深い意味が込められていた。オレは、分かっているつもりで、何も分かっていなかった。根本的なことを、何も理解出来ていなかった!

「ごめんね、彪……。伝えると、お前の負担になると思ったんだ。ずるいよね、ごめん……」

 心の底から申し訳なさそうに、那由良は声を殺して泣くオレを見つめた。

「あたし、ずっと父さんのことを憎んできた……母さんには恨まれていると思っていた……。でも、それは誤解だった。あたしは、二人に愛されていた……」
「那由良……」
「ありがとう。彪のおかげで、それを知ることが出来て……本当に、嬉しかったよ。地龍の手先としてただ生きていただけだったあたしの人生に、彪は本当の意味を見い出させてくれた。お前と出会ってからが、あたしの本当の人生の始まりだった……」

 両の掌で包むようにして抱く蒼影牙を大切そうに胸に押し当て、那由良は語った。

「彪からは、本当にたくさんのものをもらったよ。いくら感謝しても、し足りない。辛い役目を担わせて、ごめんね。地龍から解放してくれて、ありがとう。あたし、彪に会えて、本当に良かった……!」

 そう言って微笑んだ那由良の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちる。肩を震わせて泣く彼女を、オレは抱きしめた。

 儚げな感触が、どんどん心許なくなっていく。それは、彼女が消えてしまう時が間近に迫っていることを示していた。

「彪ともう少し、一緒にいたかった。もっとたくさん、話したかった。こうして、体温を感じていたかった……」
「―――オレも、だよ……」

 高ぶる感情の中で、それだけ言うのが、精一杯だった。

「罪を償って、生まれ変わることが出来たなら……そして、いつかまた、彪に巡り会うことが出来たなら……一緒に、を食べたいな……」

 オレの胸に頬を押し当ててそう話す那由良の温もり。今感じているこの温もりがもう少しで失われてしまうなんて、信じられない。

 込み上げてくる嗚咽を奥歯を噛みしめて押し殺し、深く頷くオレに、濡れた瞳で、優しく那由良が微笑みかける。

「約束だよ」

 再び深く頷くオレの頬に、そっと彼女の手が添えられた。

「泣かないで……」

 ゆっくりと、静かに唇が重なる。

 流れ落ちる滝の轟きに、雨上がりの湿った夏の空気。雲の合間から差す、赤い夕陽の色。

 それらの情景は、忘れえぬ記憶となって、オレの胸に深く深く刻み込まれた。

「大好きだよ、彪……」

 そして、最後の那由良の言葉―――。

 彼女が胸に抱いた蒼影牙共々、溶け合うように光の結晶となって、淡い光を放ち、オレの腕からこぼれていった。

「―――那由良……。アオッ……!」

 とめどなく溢れ落ちる、涙。淡く輝く光の結晶に包まれながら、彼女の温もりだけを残す自分の腕を見つめ、震える声で呟いた、次の瞬間―――!

 そこからひと際眩い光が生まれると、その中から、金色こんじきに輝く黄金の龍が現れた。

 息を飲むオレの前で、光の龍はその穏やかな金色きんいろの瞳を一度だけオレに向けると、ひと声高くいて、二度、三度、魂達の間を飛び回り、やがてそれらを導くように上空へ舞い上がった後、溢れる光と化して、大地へと降り注いだ。

 まるでこの地を包み込むかのような、柔らかな浄化の光―――その光が降り注ぐ中、オレは頬を流れ落ちる涙を止めることが出来ないまま、龍神の谷に立ち尽くし、幾重にもこだまする光の龍の声を聞いていた。

 それはまるで、霧に閉ざされたこの地で散った、全ての者達へ捧げる、鎮魂曲レクイエムのように聞こえた。
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