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第一章 来訪者たち
第七節 福 笑 い
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その二人に、どういう事情があったのかは分からない。
しかし、顔面傷だらけの男に、いきなり、
「おい……」
と、声を掛けられて驚き、その姿を見て怯えを感じる程度には、心に余裕があった。
少なくとも、それまで鼻頭まで真っ赤にして泣きじゃくって、男の手首を掴んでいた女の方には。
「何だァ、てめぇは?」
男の方も顔が赤かったが、これはアルコールによるものだろう。黄色く濁った歯の間から、酒の匂いがぷんぷんと漂って来る。皮膚の上に一枚、タバコの匂いを染み付かせているようだった。見れば足取りも何となく覚束ないし、手の指先がひくひくと痙攣している。
眼は下水のように濁り、髪の毛の間にはフケがこびり付いているのが見えた。
泥酔男は、傷の男を見てげらげらと笑い出した。
「ひでぇ顔! まるで福笑いじゃねぇか」
傷の男を指差して、泥酔男は笑い転げた。女の方は顔から血の気を引かせて、さっきまでとは打って変わって冷静な調子を取り戻した。
「ちょ……やめなよ、莫迦」
「五月蠅ぇっ、誰が莫迦だ! この糞ブスが!」
泥酔男は自分を卑下する女の言葉に発狂したようになって、彼女の髪を掴んだ。
わざわざ色を抜いて、黄土色っぽく染めた髪は、傷の男から見ても傷んでいるのが分かる。
顔色も悪いし、何となく健康的ではない肉が付いている。
「てめぇ、低学歴の豚がよ! 俺の事を莫迦にしてるんだろう!? 糞がっ、舐めやがって!」
泥酔男は女の髪を掴んで地面に引き倒すと、顔に足を踏み下ろし始めた。女は両腕で頭を庇うのだが、酔っ払ってリミッターを外し掛けている男の蹴りに、いつまでも耐えられる訳がない。
すると傷の男が、泥酔男の左肩に左の手を載せて短く言った。
「や、め、ろ……」
「あぁんっ!?」
泥酔男は傷の男の手を振り払い、彼の黒々と沈んだ眼を見た。酒や薬で淀んだ眼ではない。もっと深く、不気味で、気持ち悪く、生理的嫌悪を催す闇のような瞳だ。
しかし傷の男の眼に対する恐怖も、酒と薬の前にはあっと言う間に霞んでしまう。泥酔男は自分の肩に見知らぬ男の手が乗った事が気に食わず、ただでさえ血が昇り切っていた頭にますます熱い血を駆け上がらせた。
泥酔男は右のパンチで、傷だらけの顔を殴り付けようとした。
ばきっ、と、嫌な音がする。
しかしそれは、傷の男の鼻の骨が折れた音ではなかった。
泥酔男の右手は、身体の脇から相手の顔まで持ち上がるその途中で、明後日の方向を向いていた。
「へ……」
泥酔男が肘から右腕を持ち上げる。手の甲が前腕に張り付いていて、指先は地面を向いていた。前腕の一番上からは、皮膚を突き破って、尖った白っぽいものが突き出している。
傷の男の素早い手刀が、男の手首の手前を打ち、骨を圧し折っていたのである。
「げげげぇ!?」
泥酔男が奇怪な悲鳴を上げた。
今更のように、突き破られた皮膚から血がこぼれ出している。
泥酔男はその血と一緒に少しでもアルコールを排出したのか、僅かに冷静さを取り戻し、そしてそれ以上の怒りを込めた眼で傷の男を睨み付けた。
見れば、傷の男の手は、他の部分と同じで傷だらけではあるのだが、それ以上に形が整っているように思われた。他の人間よりも指が太く、ころころとしている印象だ。特に指の付け根などは、皮膚の色が異なっていたりすると共に犀の皮膚のように角質層が形成されていた。
拳胼胝――空手などの打撃系の格闘技に顕著な特徴が備わっている。パンチを当てる部分は基本的に人差し指と中指の付け根と言われ、サンドバッグや砂袋などを叩いていると、その部分の骨が削れて平らになる。そして削れた部分が再生されて膨らんでゆく。平らになった状態でも拳の稽古をやめなければ、自然と残る薬指と小指の付け根も削れてゆき、自然と拳が全体的に巨大化する。
だが泥酔男は、自分の腕を壊した鈍器がそのような手から繰り出されたという事には気付かずに、シンプルな怒りのままに傷の男に喰って掛かった。
「この野郎!」
無事な方の左手で殴り掛かってゆく。
傷の男にとってみれば、それはビデオのスロー再生みたいなものであっただろう。傷の男は顔を歪める事もせず、その昏い瞳で泥酔男の顔を眺め、ぽん、と右足を繰り出した。
しかし、顔面傷だらけの男に、いきなり、
「おい……」
と、声を掛けられて驚き、その姿を見て怯えを感じる程度には、心に余裕があった。
少なくとも、それまで鼻頭まで真っ赤にして泣きじゃくって、男の手首を掴んでいた女の方には。
「何だァ、てめぇは?」
男の方も顔が赤かったが、これはアルコールによるものだろう。黄色く濁った歯の間から、酒の匂いがぷんぷんと漂って来る。皮膚の上に一枚、タバコの匂いを染み付かせているようだった。見れば足取りも何となく覚束ないし、手の指先がひくひくと痙攣している。
眼は下水のように濁り、髪の毛の間にはフケがこびり付いているのが見えた。
泥酔男は、傷の男を見てげらげらと笑い出した。
「ひでぇ顔! まるで福笑いじゃねぇか」
傷の男を指差して、泥酔男は笑い転げた。女の方は顔から血の気を引かせて、さっきまでとは打って変わって冷静な調子を取り戻した。
「ちょ……やめなよ、莫迦」
「五月蠅ぇっ、誰が莫迦だ! この糞ブスが!」
泥酔男は自分を卑下する女の言葉に発狂したようになって、彼女の髪を掴んだ。
わざわざ色を抜いて、黄土色っぽく染めた髪は、傷の男から見ても傷んでいるのが分かる。
顔色も悪いし、何となく健康的ではない肉が付いている。
「てめぇ、低学歴の豚がよ! 俺の事を莫迦にしてるんだろう!? 糞がっ、舐めやがって!」
泥酔男は女の髪を掴んで地面に引き倒すと、顔に足を踏み下ろし始めた。女は両腕で頭を庇うのだが、酔っ払ってリミッターを外し掛けている男の蹴りに、いつまでも耐えられる訳がない。
すると傷の男が、泥酔男の左肩に左の手を載せて短く言った。
「や、め、ろ……」
「あぁんっ!?」
泥酔男は傷の男の手を振り払い、彼の黒々と沈んだ眼を見た。酒や薬で淀んだ眼ではない。もっと深く、不気味で、気持ち悪く、生理的嫌悪を催す闇のような瞳だ。
しかし傷の男の眼に対する恐怖も、酒と薬の前にはあっと言う間に霞んでしまう。泥酔男は自分の肩に見知らぬ男の手が乗った事が気に食わず、ただでさえ血が昇り切っていた頭にますます熱い血を駆け上がらせた。
泥酔男は右のパンチで、傷だらけの顔を殴り付けようとした。
ばきっ、と、嫌な音がする。
しかしそれは、傷の男の鼻の骨が折れた音ではなかった。
泥酔男の右手は、身体の脇から相手の顔まで持ち上がるその途中で、明後日の方向を向いていた。
「へ……」
泥酔男が肘から右腕を持ち上げる。手の甲が前腕に張り付いていて、指先は地面を向いていた。前腕の一番上からは、皮膚を突き破って、尖った白っぽいものが突き出している。
傷の男の素早い手刀が、男の手首の手前を打ち、骨を圧し折っていたのである。
「げげげぇ!?」
泥酔男が奇怪な悲鳴を上げた。
今更のように、突き破られた皮膚から血がこぼれ出している。
泥酔男はその血と一緒に少しでもアルコールを排出したのか、僅かに冷静さを取り戻し、そしてそれ以上の怒りを込めた眼で傷の男を睨み付けた。
見れば、傷の男の手は、他の部分と同じで傷だらけではあるのだが、それ以上に形が整っているように思われた。他の人間よりも指が太く、ころころとしている印象だ。特に指の付け根などは、皮膚の色が異なっていたりすると共に犀の皮膚のように角質層が形成されていた。
拳胼胝――空手などの打撃系の格闘技に顕著な特徴が備わっている。パンチを当てる部分は基本的に人差し指と中指の付け根と言われ、サンドバッグや砂袋などを叩いていると、その部分の骨が削れて平らになる。そして削れた部分が再生されて膨らんでゆく。平らになった状態でも拳の稽古をやめなければ、自然と残る薬指と小指の付け根も削れてゆき、自然と拳が全体的に巨大化する。
だが泥酔男は、自分の腕を壊した鈍器がそのような手から繰り出されたという事には気付かずに、シンプルな怒りのままに傷の男に喰って掛かった。
「この野郎!」
無事な方の左手で殴り掛かってゆく。
傷の男にとってみれば、それはビデオのスロー再生みたいなものであっただろう。傷の男は顔を歪める事もせず、その昏い瞳で泥酔男の顔を眺め、ぽん、と右足を繰り出した。
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