41 / 232
第三章 潜伏する狼
第十一節 少年時代
しおりを挟む
治郎が身を隠したのは、繁華街や住宅街からは少し離れた場所にある、だが池田享憲の屋敷のように人々の生活圏から離れている訳ではない田園地帯にある廃工場であった。
治郎が物心付く頃には既に廃棄されており、しかし撤去する金も勿体ないという事で、そのままにされている。
黄色に変色した窓ガラスの内側から覗いてみれば、吐き気がするくらいの蒼い空に、白い雲が心地良さそうに浮かんでいる。畑には野菜が実り、田んぼには水が張られている。あぜ道には草むしりをやる農家の老人が、ただでさえ曲がっている腰を深く折り曲げて地面に這いつくばりそうになっている様子が見えた。
治郎は空っぽの工場の壁にもたれ掛かって、下腹部の鈍痛を堪えていた。純の肘打ちによって潰された片方の精巣を、自分の手で引き摺り出したのであった。その後、いずみに病院を勧められたが、治郎は行かなかった。
闇医者と言っても、人は人だ。人であれば誰しも、自分の事を莫迦にする。
治郎にとって他人とは、そうした存在であった。
玲子でさえ、自分を莫迦にしていると思う。
いずみだって、そうだ。
純や雅人も、そうに決まっている。
暫く客分として色々やって来た池田組の連中は、そもそもの始まりがそこにある。
この世界に存在する全てのものに、自分は莫迦にされ、見下され、蔑ろにされ、侮られている。
そういう人間の世話になる事は、治郎にとってはこの上のない屈辱であった。
いずみにそれを許したのは、その莫迦にする連中の中では比較的、自分に協力してくれるからだ。
治郎は初めて“わかば”を訪ねた時の事を思い出した。
いや、そのきっかけとなった出来事から、思い出した。
あの日の翌日――治郎が空手の大会で優勝し、長田に酒を含まされ、池田組の三人に絡まれた上に敗北し、明石雅人に救われた夜が明けて、次の月曜日の事だ。
治郎は普通に、学校へ行った。
玲子が、自分の住んでいるアパートまでやって来て、不安そうな顔で登校を促した。
治郎は氷袋でアイシングしただけのぼろぼろの顔、散々踏み付けられて汚れた学ランのまま、水門学院高等部棟へ向かった。
教室に入ると、おおよそ全てのクラスメイトが、治郎の顔を見てぎょっとし、眼を逸らした。
治郎は滅多に人と話さない。それに、話し掛けても言葉に詰まったり、内容を理解していなかったりして、話し掛けた方が苛立つ事になる。それが分かっているから、治郎と話す人間は少なくなり、治郎自身の会話力も失われてゆく。
そうした生活もあって、治郎の一挙手一投足は、クラスメイトにとって不気味に映る。ただでさえそうなのに、顔中を蒼紫色に腫れ上がらせているのだから、映画のゾンビと対面した気分になる。
前日に空手の試合があった事は一部の者が知っており、その中の更に一部は治郎が個人戦で優勝した事も知っているだろう。しかしそれでも、治郎に声を掛ける者はいなかった。教師でさえ、その事に触れようとはしなかった。
それは良い。それは、分かっていた事だからだ。
その日の放課後も、部活はあった。
授業が終わると、日直の仕事がある玲子を置いて、治郎は武道場へ行き、いつものように空手衣に着替えた。
道場に入って来た人間から、好き好きにウォーミングアップやストレッチをやり、基本稽古や移動稽古などを行ない、ミット打ちやスパーリングに入る。
人数がそこそこ揃ってからの乱捕では、タイマーで時間を計って行なった。一分間、軽く当て合う程度に戦い、一五秒のインターバルを取って次の相手を捕まえる。
緑帯以上はサポーターの類は使わないが、それから下はプロテクターを装着する。
空手の級位は帯の色で表されるようになっており、一〇級と九級が白、八級と七級が黄色、六級と五級が蒼、四級と三級が緑、二級と一級が茶色、そして初段以降が黒。
蒼帯はオープンフィンガーグローブ、黄帯はこれに加えて脛サポーター、白帯は更にプロテクターを装着して、やる。
その日は治郎を含めて二五人が道場へ来ており、乱捕をやるにしても一人が余る。普通、余ったその一人は乱捕の間はシャドーボクシングなどをやり、インターバルの間に誰かと入れ替わって乱捕を始めるものだが、治郎はその中に入らなかった。
黙々と、道場の隅でサンドバッグを叩いていた。
治郎が物心付く頃には既に廃棄されており、しかし撤去する金も勿体ないという事で、そのままにされている。
黄色に変色した窓ガラスの内側から覗いてみれば、吐き気がするくらいの蒼い空に、白い雲が心地良さそうに浮かんでいる。畑には野菜が実り、田んぼには水が張られている。あぜ道には草むしりをやる農家の老人が、ただでさえ曲がっている腰を深く折り曲げて地面に這いつくばりそうになっている様子が見えた。
治郎は空っぽの工場の壁にもたれ掛かって、下腹部の鈍痛を堪えていた。純の肘打ちによって潰された片方の精巣を、自分の手で引き摺り出したのであった。その後、いずみに病院を勧められたが、治郎は行かなかった。
闇医者と言っても、人は人だ。人であれば誰しも、自分の事を莫迦にする。
治郎にとって他人とは、そうした存在であった。
玲子でさえ、自分を莫迦にしていると思う。
いずみだって、そうだ。
純や雅人も、そうに決まっている。
暫く客分として色々やって来た池田組の連中は、そもそもの始まりがそこにある。
この世界に存在する全てのものに、自分は莫迦にされ、見下され、蔑ろにされ、侮られている。
そういう人間の世話になる事は、治郎にとってはこの上のない屈辱であった。
いずみにそれを許したのは、その莫迦にする連中の中では比較的、自分に協力してくれるからだ。
治郎は初めて“わかば”を訪ねた時の事を思い出した。
いや、そのきっかけとなった出来事から、思い出した。
あの日の翌日――治郎が空手の大会で優勝し、長田に酒を含まされ、池田組の三人に絡まれた上に敗北し、明石雅人に救われた夜が明けて、次の月曜日の事だ。
治郎は普通に、学校へ行った。
玲子が、自分の住んでいるアパートまでやって来て、不安そうな顔で登校を促した。
治郎は氷袋でアイシングしただけのぼろぼろの顔、散々踏み付けられて汚れた学ランのまま、水門学院高等部棟へ向かった。
教室に入ると、おおよそ全てのクラスメイトが、治郎の顔を見てぎょっとし、眼を逸らした。
治郎は滅多に人と話さない。それに、話し掛けても言葉に詰まったり、内容を理解していなかったりして、話し掛けた方が苛立つ事になる。それが分かっているから、治郎と話す人間は少なくなり、治郎自身の会話力も失われてゆく。
そうした生活もあって、治郎の一挙手一投足は、クラスメイトにとって不気味に映る。ただでさえそうなのに、顔中を蒼紫色に腫れ上がらせているのだから、映画のゾンビと対面した気分になる。
前日に空手の試合があった事は一部の者が知っており、その中の更に一部は治郎が個人戦で優勝した事も知っているだろう。しかしそれでも、治郎に声を掛ける者はいなかった。教師でさえ、その事に触れようとはしなかった。
それは良い。それは、分かっていた事だからだ。
その日の放課後も、部活はあった。
授業が終わると、日直の仕事がある玲子を置いて、治郎は武道場へ行き、いつものように空手衣に着替えた。
道場に入って来た人間から、好き好きにウォーミングアップやストレッチをやり、基本稽古や移動稽古などを行ない、ミット打ちやスパーリングに入る。
人数がそこそこ揃ってからの乱捕では、タイマーで時間を計って行なった。一分間、軽く当て合う程度に戦い、一五秒のインターバルを取って次の相手を捕まえる。
緑帯以上はサポーターの類は使わないが、それから下はプロテクターを装着する。
空手の級位は帯の色で表されるようになっており、一〇級と九級が白、八級と七級が黄色、六級と五級が蒼、四級と三級が緑、二級と一級が茶色、そして初段以降が黒。
蒼帯はオープンフィンガーグローブ、黄帯はこれに加えて脛サポーター、白帯は更にプロテクターを装着して、やる。
その日は治郎を含めて二五人が道場へ来ており、乱捕をやるにしても一人が余る。普通、余ったその一人は乱捕の間はシャドーボクシングなどをやり、インターバルの間に誰かと入れ替わって乱捕を始めるものだが、治郎はその中に入らなかった。
黙々と、道場の隅でサンドバッグを叩いていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。
カレンと晴人はその後、どうなる?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
【アラウコの叫び 】第1巻/16世紀の南米史
ヘロヘロデス
歴史・時代
【毎日07:20投稿】 1500年以降から300年に渡り繰り広げられた「アラウコ戦争」を題材にした物語です。
マプチェ族とスペイン勢力との激突だけでなく、
スペイン勢力内部での覇権争い、
そしてインカ帝国と複雑に様々な勢力が絡み合っていきます。
※ 現地の友人からの情報や様々な文献を元に史実に基づいて描かれている部分もあれば、
フィクションも混在しています。
また動画制作などを視野に入れてる為、脚本として使いやすい様に、基本は会話形式で書いています。
HPでは人物紹介や年表等、最新話を先行公開しています。
公式HP:アラウコの叫び
youtubeチャンネル名:ヘロヘロデス
insta:herohero_agency
tiktok:herohero_agency
中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語
jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ
★作品はマリーの語り、一人称で進行します。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる