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第九章 野獣の饗宴
第三節 喫茶”こんぴら“にて
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「あぁ――どうにか、落ち着きましたねぇ」
「ごめんね、玲子ちゃん。急に呼び出したりしちゃって」
「いえいえ! 里美さんの頼みですから」
エプロンを畳みながら、玲子と里美は裏方から店の方に戻った。
町医者でもある緑川悟が経営する、喫茶店“こんぴら”である。
閑静な住宅地の裏にある“こんぴら”は、常連がやって来る時間を覗けば閑古鳥と仲良くしているような店である。それが今日は、陽が暮れても客足が途絶えず、妙に忙しかった。
講義が午前中で終わった里美が昼過ぎから入り、授業を終えた純が夕方から入って、買い出しに行ったままの緑川がなかなか戻らなかったので、玲子に助けを求めたのだ。
玲子は空手部のマネージャーをやっており、いつもならこれくらいの時間まで稽古をする。しかし、ここ数日、空手部は活動を停止させられており、時間を作る事が出来ていた。
「二人とも、お疲れさま!」
カウンターから身を乗り出して、緑川が言った。
二人がカウンターの前の椅子に腰掛けると、緑川はオレンジジュースを差し出した。
「悪いね玲子ちゃん。手伝って貰っちゃって!」
「マスターまで……良いんですよ、どうせ暇してたんですから」
玲子はジャージ姿だった。半袖のシャツに、学校指定の長ズボンだ。
裏に置いていたリュックには空手衣やサポーター、バンデージなどが詰め込まれており、里美に呼ばれなければ個人で通っている道場に行く心算だったのだろう。
「それより、マスター! 何で買い出しに行くだけで、あんなに時間掛かったんですか」
玲子の横で、じっとりとした眼で、里美が緑川を睨んだ。
繁盛する事を前提としていない店であるから、材料の買い置きも少なく、想定以上の客足の為にあっと言う間に先立つものがなくなってしまった。そこで緑川が買い物に行き、玲子を呼ぶまで里美は一人で店を切り盛りする事になったのだ。
「ああ、すまん、すまん。実は急患でなァ」
緑川はそう言いながら、メシャムパイプを取り出した。セピオライトを加工して複雑な形状に彫刻したボウルが特徴的だ。緑川の愛用するものは鰐の頭をモチーフとしており、脳天に当たる部分から、煙が吹き出す。
刻んだ煙草を火皿いっぱいに詰めて、指でプレスし平らに均す。マウスピースを咥えて空気の通り方を確認すると、レジの周りをきょろきょろ眺めて、マッチを探した。
「ちょっとマスター。高校生の前で、煙草なんてやめて下さいよ」
里美が口を尖らせた。
「あれ、里美ちゃん、いつ嫌煙家に鞍替えしたんだい」
「鞍替えとかじゃないですよ。最近、色々変わって来てるんですからね。今時、煙草吸ってる大人が格好良いなんて事、ないんですよ」
「はあー、そうですか、そうですか」
気のない返事をする緑川に、頬を膨らませる里美。
と、厨房の掃除を終えた純がやって来て、マッチの箱を緑川に手渡した。
「表で吸って下さいね。匂いが付きますから」
「純、お前もか。はいはい、それじゃ、時代遅れの親父は追い出されるとしますかね」
「おじさん、忘れものですよ」
勝手口から出てゆこうとする緑川に、純が黒々とした、四角い焼き物を差し出した。仏壇に置かれる事も多い、線香に火を点けたマッチの燃え滓を捨てる壺だ。
緑川はそれを受け取って、勝手口から出て行った。
「私は、別に気にしませんけどねぇ」
「駄目よ、玲子ちゃん。そんな事言っちゃあ」
緑川を追い出す形になってしまって、玲子が気まずそうに言った。
玲子は、空手部の打ち上げなどで居酒屋に付き合う事も多く、煙草の匂いには慣れてしまっている。
「東京なんかだと、禁煙・分煙ブームが凄いらしいね」
純がカウンターの向こうから言う。
「ああ、何年かしたら、飲食店は完全禁煙だっけ?」
「まぁ、気にしないって言っても、そうじゃない人だって多いから、悪い事ではないんですけどね」
「その言い方だと――花巻さん、何回かやった事あるでしょう」
「な……やってないわよ、そんな事! 青蓮院くんだからって、変な事言わないでよね」
「ふふ、冗談だよ、冗談」
客のいなくなった店内で、若者たちの楽しそうな声が響く。
「それにしても、今日はどうしてこんなに人が多かったのかしら」
この日、一番働いた里美が、当然の疑問を口にした。
「繁華街が妙に静かでしたからね。何かあったのかなぁ……」
玲子が訝るような口調で言った。
すると、店の扉が開くと共に、甲高くベルが鳴った。
「すみません、今日はもう閉店……」
「祥さん」
肩越しに振り返った里美と、純の言葉が発せられたのは、ほぼ同時であった。
玲子は、店に入って来たのが、一見するとファンタジー世界の住人であるかのような、男装の麗人である事に驚き、言葉を失った。
燕尾服に、白い手袋――執事だ。
その胸元の膨らみを見ると、女性である事が分かる。
「純さま、少々お話が」
祥、と呼ばれた執事服の女性は、言った。
「ごめんね、玲子ちゃん。急に呼び出したりしちゃって」
「いえいえ! 里美さんの頼みですから」
エプロンを畳みながら、玲子と里美は裏方から店の方に戻った。
町医者でもある緑川悟が経営する、喫茶店“こんぴら”である。
閑静な住宅地の裏にある“こんぴら”は、常連がやって来る時間を覗けば閑古鳥と仲良くしているような店である。それが今日は、陽が暮れても客足が途絶えず、妙に忙しかった。
講義が午前中で終わった里美が昼過ぎから入り、授業を終えた純が夕方から入って、買い出しに行ったままの緑川がなかなか戻らなかったので、玲子に助けを求めたのだ。
玲子は空手部のマネージャーをやっており、いつもならこれくらいの時間まで稽古をする。しかし、ここ数日、空手部は活動を停止させられており、時間を作る事が出来ていた。
「二人とも、お疲れさま!」
カウンターから身を乗り出して、緑川が言った。
二人がカウンターの前の椅子に腰掛けると、緑川はオレンジジュースを差し出した。
「悪いね玲子ちゃん。手伝って貰っちゃって!」
「マスターまで……良いんですよ、どうせ暇してたんですから」
玲子はジャージ姿だった。半袖のシャツに、学校指定の長ズボンだ。
裏に置いていたリュックには空手衣やサポーター、バンデージなどが詰め込まれており、里美に呼ばれなければ個人で通っている道場に行く心算だったのだろう。
「それより、マスター! 何で買い出しに行くだけで、あんなに時間掛かったんですか」
玲子の横で、じっとりとした眼で、里美が緑川を睨んだ。
繁盛する事を前提としていない店であるから、材料の買い置きも少なく、想定以上の客足の為にあっと言う間に先立つものがなくなってしまった。そこで緑川が買い物に行き、玲子を呼ぶまで里美は一人で店を切り盛りする事になったのだ。
「ああ、すまん、すまん。実は急患でなァ」
緑川はそう言いながら、メシャムパイプを取り出した。セピオライトを加工して複雑な形状に彫刻したボウルが特徴的だ。緑川の愛用するものは鰐の頭をモチーフとしており、脳天に当たる部分から、煙が吹き出す。
刻んだ煙草を火皿いっぱいに詰めて、指でプレスし平らに均す。マウスピースを咥えて空気の通り方を確認すると、レジの周りをきょろきょろ眺めて、マッチを探した。
「ちょっとマスター。高校生の前で、煙草なんてやめて下さいよ」
里美が口を尖らせた。
「あれ、里美ちゃん、いつ嫌煙家に鞍替えしたんだい」
「鞍替えとかじゃないですよ。最近、色々変わって来てるんですからね。今時、煙草吸ってる大人が格好良いなんて事、ないんですよ」
「はあー、そうですか、そうですか」
気のない返事をする緑川に、頬を膨らませる里美。
と、厨房の掃除を終えた純がやって来て、マッチの箱を緑川に手渡した。
「表で吸って下さいね。匂いが付きますから」
「純、お前もか。はいはい、それじゃ、時代遅れの親父は追い出されるとしますかね」
「おじさん、忘れものですよ」
勝手口から出てゆこうとする緑川に、純が黒々とした、四角い焼き物を差し出した。仏壇に置かれる事も多い、線香に火を点けたマッチの燃え滓を捨てる壺だ。
緑川はそれを受け取って、勝手口から出て行った。
「私は、別に気にしませんけどねぇ」
「駄目よ、玲子ちゃん。そんな事言っちゃあ」
緑川を追い出す形になってしまって、玲子が気まずそうに言った。
玲子は、空手部の打ち上げなどで居酒屋に付き合う事も多く、煙草の匂いには慣れてしまっている。
「東京なんかだと、禁煙・分煙ブームが凄いらしいね」
純がカウンターの向こうから言う。
「ああ、何年かしたら、飲食店は完全禁煙だっけ?」
「まぁ、気にしないって言っても、そうじゃない人だって多いから、悪い事ではないんですけどね」
「その言い方だと――花巻さん、何回かやった事あるでしょう」
「な……やってないわよ、そんな事! 青蓮院くんだからって、変な事言わないでよね」
「ふふ、冗談だよ、冗談」
客のいなくなった店内で、若者たちの楽しそうな声が響く。
「それにしても、今日はどうしてこんなに人が多かったのかしら」
この日、一番働いた里美が、当然の疑問を口にした。
「繁華街が妙に静かでしたからね。何かあったのかなぁ……」
玲子が訝るような口調で言った。
すると、店の扉が開くと共に、甲高くベルが鳴った。
「すみません、今日はもう閉店……」
「祥さん」
肩越しに振り返った里美と、純の言葉が発せられたのは、ほぼ同時であった。
玲子は、店に入って来たのが、一見するとファンタジー世界の住人であるかのような、男装の麗人である事に驚き、言葉を失った。
燕尾服に、白い手袋――執事だ。
その胸元の膨らみを見ると、女性である事が分かる。
「純さま、少々お話が」
祥、と呼ばれた執事服の女性は、言った。
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