【完結】それ以上近づかないでください。

ぽぽ

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凪は、周囲の選手たちの視線が自分たちの方へと向けられていることに気づいた。彼らは言葉こそ発しないが、その視線には何かを探るような色が含まれているようだった。やがて、馨もその視線に気づき、凪に向かって少し困ったような、それでいてどこか照れを含んだ笑みを浮かべた。


「本当は、こんな場所に呼び出さなくてもよかったんだけどさ。会場の周りは人が多すぎるし、どこかで待っててもらうのも悪いかなって思って」

「ううん、大丈夫だよ」


凪がそう答えると、馨はまたふわりとした笑みを浮かべる。その笑みは、どこか中学の頃と変わらぬ、あたたかいものだった。


「……ていうのは言い訳で、本当は凪に少しでも早く会いたかっただけなんだけど」

「え……?」


馨の言葉に、凪の心臓がドクンと跳ねた。胸の奥で、何かがふわっと揺れた気がする。 


「外、出よっか。ちょっと、歩かない?」

「……うん」


凪が頷くと、馨はリュックを背負い直し、控え室の扉の前へと向かった。扉を片手で支え、凪が通るのを待つ。


「ありがとう」


凪は小さく言って、馨の隣に並んだ。裏口にはほとんど人の姿はなく、会場関係者らしき数人がいる程度だった。馨は一人ひとりに「お疲れ様です」「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げながら歩いた。その姿に、凪は少しだけ感心したような目で彼を見た。

そして、ひと通り挨拶が終わると、馨はふと凪に視線を向けた。


「凪、今でも甘いもの好きだったりする?」

「甘いもの?」


凪は小首を傾げた。


「うん。中学の頃、甘いものよく食べてたでしょ。今も好きかなって思って」

「うん……今でも好きだけど」

「そっか、よかった」


馨はそう言って、携帯を取り出すと、どこかへ電話をかけ始めた。誰にかけているのか気になった凪は、そっと馨を見上げたが、通話の内容までは聞き取れなかった。凪が不思議そうに見つめ首を傾けていると、電話を終えた馨が自然な動作で凪の頭に手を伸ばし、ぽん、と撫でた。


「可愛い」


そう小さく呟いた馨の声に、凪の頬が熱を帯びた。返す言葉も浮かばないまま立ち尽くしていると、馨が手を挙げてタクシーを止めた。


「えっ、タクシー?」

「怪しいところに連れていくわけじゃないから、安心して」


そう言って微笑む馨に促され、凪はおずおずとタクシーの中へと乗り込んだ。

数分後、タクシーが停車したのは、高級そうなビルの前だった。提示された料金の半分を出そうとした凪だったが、馨はそれを制してすぐに支払いを済ませてしまった。


「馨くん、半分払うよ」

「いらない」
 

そう言いながら、馨はスタスタと先を歩いていく。凪は慌てて後を追った。

ビルの中に入ると、エレベーターで上階へ。降りた先には静かで洗練された雰囲気のカフェがあった。凪はその内装に思わず萎縮する。


「……ここに入るの?」

「うん、ダメだった?」


馨はふと不安そうな表情を浮かべた。だが、凪はすぐに首を横に振った。


「嫌じゃないけど、僕なんかがこんな高そうな店に入っていいのかって……。今日もそんなにお金持ってきてないし……。あっちのカフェとかなら、気軽に入れると思うんだけど……」


凪はすぐ近くに見えた、馴染みのあるチェーンのカフェを指さした。


「……心配してるのはお金のことだけ?俺と一緒にいるのが嫌って意味じゃない?」

「ううん、そんなことないよ。でも……馨くんは、こんな安いお店は使わないかなって……」

「良かった。それなら何の問題もないよ。俺だって普段は事務所の人としかこんな店来ないし」


そう言って馨は扉を開けた。すぐに店員が出迎え、個室へと案内される。

凪は内心緊張しながら椅子に腰を下ろした。店の空気は静かで、まるで高級ホテルのラウンジのようだった。


「そこにメニューあるから、凪が食べたいものなんでも頼んで」

「えっと……」


凪はメニューを開いて絶句した。コーヒー一杯の値段が、いつも行く店の何倍もしていたのだ。あまりの価格に、思わず身がすくんでしまう。

どれにしようかと迷っていると、馨の声がかかる。


「凪、嫌いな食べ物とかある?」

「ううん、特にはないかな」

「了解。食べたいものは?」

「あ、甘いものが食べたいかも」


今日は色々なことがあった。緊張もしたし、不安もあった。少しだけ、糖分が欲しい。そんな思いが、凪の言葉に表れた。

馨は微笑んで注文を終えると、数分もせず、紅茶とケーキが運ばれてきた。運ばれてきたケーキは、まるで宝石のように美しく、凪は思わず息を呑んだ。

フォークで一口、ケーキを口に含むと、その滑らかさと甘さに、思わず口元が緩みそうになる。

その様子を見ていた馨は、嬉しそうに目を細めた。

「凪、何度も言うけど、今日は本当にありがとう。俺の話を聞く時間を作ってくれて」

凪はフォークを置き、顔を少しだけ伏せた。


「うん。でも、正直、最近ずっと戸惑ってるんだ。もう一生会わないって思ってた馨くんと、またこうして再会して……。急に距離を詰められて、どうしていいかわからない」


凪の声は、消え入りそうだった。


「自分でも、馨くんに対する感情がわからなくなってる。あのときはもう、会いたくないって……嫌いだって、そう思ってたはずなのに……」


馨は何かを言いかけて、ふと口を閉じた。数秒の沈黙のあと、凪の目をまっすぐに見つめながら、はっきりと言った。


「俺は……もう一度、凪と近づけるチャンスが欲しいんだ」

「……」

「過去のことをなかったことにしようなんて全く思ってない。あのときのことは、ちゃんと償いたい。うまく言えないかもしれないけど、俺の気持ちは本気なんだ」

「……僕は――」


凪は言葉を紡ごうとして、しかしすぐには続けられなかった。胸の中でいくつもの感情がぐるぐると渦巻いていて、それをひとつにまとめて口に出すことが、どうしてもできなかったからだ。

馨は焦らず、ただ凪を見つめていた。その視線は、責めるでもなく、急かすでもなく、ただ静かに、凪が言葉を見つけるのを待っているようだった。

しばらくの沈黙のあと、凪はゆっくりと目を伏せ、小さな声で言葉を吐き出した。


「……ごめん。その感情に対して今すぐには、答えを出せない」

「うん、いいよ。それでいい」


即座に返ってきた馨の返事は、驚くほどやさしかった。凪は目を見開き、無意識に馨を見上げた。


「無理に答えを求めてるわけじゃない。凪が自分の気持ちに向き合ってくれるだけで、俺はうれしい」


馨の表情に、あの頃よりもずっと大人びた落ち着きが宿っていることに、凪はようやく気づいた。過去の印象のままだった馨とは、もう違っている。


「僕……昔の馨くんを、どこかでずっと引きずってた。あの時、傷ついたままで、蓋をしたまま……向き合おうとしなかった。」

「傷つけたのは俺の方だよ。だから凪がそんな悲しそうな顔をする必要なんてない。でも、今こうして向き合って話してくれてる。それだけで、充分」


馨はまっすぐな目で凪を見た。その瞳に嘘はなかった。凪はそのまなざしに包まれるような感覚を覚えて、心が少しだけ軽くなった。


「俺ね、ずっと後悔してたんだ。もっとちゃんと話せばよかったって。もっとちゃんと、凪のことを知ろうとすればよかったって。……今さら遅いかもしれないけど、今度はちゃんと、言葉で伝えていきたいと思ってる」


凪は小さく息を呑んだ。その言葉が、まっすぐ心に届いたからだった。


「……ありがとう。今すぐにどう答えていいかはわからないけど……僕も、馨くんのこと、もう一度ちゃんと見てみたいって思う。過去じゃなくて、今の馨くんを」


馨の目がふっと細くなり、安堵したように微笑んだ。


「それだけで、今日は満足」


軽く肩の力を抜いたようなその言葉に、凪も自然と笑みを浮かべた。まだ、たくさんの不安も、迷いもある。だけど、それでももう一度、向き合ってみようと思える。馨の変化だけでなく、自分自身の変化にも、きちんと気づいてみたいだった。

二人の間に流れる空気が、さっきまでよりも少し柔らかくなった気がした。
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