【完結】それ以上近づかないでください。

ぽぽ

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凪は背後から聞こえてくる馨の声を聞こえないふりをして、歩き続けた。耳に届いたその呼びかけは、どこか鋭く、胸の奥をかすめるようだった。

だが、今立ち止まれば、ぐらついた気持ちごと崩れ落ちてしまいそうで、ただ前ではなく地面に視線を落として歩いた。

灰色のアスファルトが滲んで、輪郭を失っていく。身体が疲れているわけでもないのに、足元がふらついた。

次の瞬間、背後から伸びてきた手が、凪の手を強く掴んだ。後ろへと引かれた。驚いて振り返ると、馨が至近距離にいた。大きくて温かい掌の感触に、凪はびくりと身を震わせた。


「何、ふらついてんの? お前、大丈夫?」


言葉だけを聞けば、心配されているような口ぶりだった。けれどその声色には、どこか小馬鹿にするような、嘲るような響きが混じっている。柔らかいようでいて、決して優しくはなかった。


「……僕はもう帰るだけだから」

 
凪は視線を合わせずに、それだけを呟いた。返事にもなっていないその言葉を残して手を振り払おうとするが、馨の手はすぐに再び凪の手を捕らえた。


「で、お前の恋人誰なの?」


低く問うその声に、凪の背筋が凍る。なぜ、そんなことを聞くのか。息を詰めながらも、搾り出すように言葉を返す。


「だ、だから……なんでそれを教える必要があるの? 馨くんには関係ないから!」


声が震えていた。けれど、懸命に反論した。すると馨は、急に動きを止めた。

沈黙が落ちる。張り詰めた空気の中、凪はゆっくり顔を上げる。馨の眉間には深い皺が刻まれていた。鋭い視線が凪に突き刺さる。何も言わないまま、ただじっと睨みつけてくる。

凪も反射的に睨み返す。負けたくなかった。どんなに心がざわついても、せめて視線だけは逸らしたくなかった。けれどその瞳の奥にあるものを読み取ろうとした瞬間、馨は不意に視線を逸らし、小さく笑った。


「……なに?」


凪が問いかけると、馨は肩を揺らしながら唇の端を吊り上げる。


「な、なんで笑ってるの……?」

「お前の顔、面白いね」


まるで悪戯好きの少年のような声音で言うと、馨は凪の頬に手を伸ばし、ぷに、と指で摘んで引っ張った。


「やめて……!」

「こんな顔、見せられたら彼氏はどう感じるんだろうな。」


からかうような口調のまま、馨は指先で凪の頬を執拗につまみ続ける。その仕草に悪意は見えない。だが、遊び半分で弄ばれている感覚に、凪の心はざわつく。


しばらくそうしていた馨だったが、ふと手を止める。さっきまで浮かべていた笑みは、跡形もなく消えていた。どこか哀しげな、感情の底を隠したような顔つきで、凪を見つめている。口元を固く引き結び、何かを堪えているようだった。

馨の表情を読み取ろうとしていた凪の脳裏に、ふいに桜の顔が浮かぶ。さっき見せられた怒りに満ちた表情。そして、すぐ背後から、誰かがこちらに近づいてくる気配を感じた。

その直後、聞き覚えのある鋭い声が背後から突き刺さった。


「馨、いい加減にしてよ。私との約束破る気???」


桜だった。凪はその場に凍りついた。馨もまた、動きを止めた。掴まれていた凪の手から、馨の力がすっと抜けていく。

(約束……?何の話……?)

凪の中で疑念が渦を巻く。

そして、馨は凪を見つめる視線を冷たいものへと切り替えた。その変化はあまりにも突然で、凪は言葉を失う。


「帰りたいなら帰りな」


感情を押し殺したような、けれど明らかに突き放すような声だった。凪の胸が小さく軋んだ。

馨は桜のほうへと歩き出す。だがその直前、凪の小指をキュッと握って、そっと離した。

その感触だけが、凪の手に、しばらく残っていた。
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