彼はオタサーの姫

穂祥 舞

文字の大きさ
20 / 79
第3幕/学歴は、洗いません。

第1場

しおりを挟む
 おもろないんじゃ。咲真さくまは隣の席に誰も座っていないのをいいことに、低く舌打ちした。思い出し笑いならぬ思い出しギレとは、自分でも焼きが回っていると思うが、楽しみにしていた帰省を最後に台無しにされたのだから仕方がない。車窓から東京のビル群が見えてきても、咲真はまだ苛々していた。
 こういう時は。咲真は23年間生きてきて、自分なりにストレス解消方法を体得しているつもりである。まだ16時なので、時間はたっぷりとあった。ワインのフルボトルを1本空ける、1人カラオケで2時間歌う、お気に入りのエロVを3本続けて観る。いや、それよりも効果的なもやもや発散の手段がある。
 根津の駅前の自分の寝ぐらに一旦戻り、洗濯物や母から持たされた食料品をキャリーケースから出すと、咲真は楽譜と財布、それにスマートフォンを通学用の鞄に入れた。そして、太陽が傾いてきたことを確認しつつ、自転車のチェーンを外す。
 上野にあるキャンパスは、美術学部と音楽学部でざっくりと敷地が分かれている。美術学部生はうろうろしているのに、音楽学部の敷地内は静かだった。皆金持ちだから優雅にゴールデンウィークをエンジョイしているのだろう、というのは咲真の偏見だが、個人練習に使える小部屋が並ぶ棟に向かうと、普段では考えられないほど、空き部屋だらけである。まあ、時間も時間だから。
 咲真は何となく気に入っている部屋を選んで、防音扉を開けた。隣の部屋は使われている。静かなので、木管楽器か声楽の学生がいると思われた。防音は100パーセントでは無く、他人の音に対しそんなに神経質ではない咲真だが、ピアノや低音の金管楽器が隣でないのはありがたかった。
 ピアノの鍵盤蓋を開けて、無意味に屋根を全開にした。椅子に腰を下ろすと、習慣になっているアルペジオをざっと鳴らす。そしてまず弾いたのは、おそらくピアノに触ったことのある人なら一度は弾いている名曲、「ねこふんじゃった」だった。
 ほんまムカつくわ、お前らみたいに音楽の道を捨てた奴らに言われたないわ。
 思いながら大音量で3回繰り返すと、少し落ち着いた。次はブルグミュラーだ。小学生になってピアノを習い始め、2年生の秋に与えられたこの曲集が、咲真は大好きである。初めて大人っぽい表紙の冊子を先生から手渡された時の感激を、今もよく覚えている。25の練習曲を咲真は全て暗譜していて、そのうち7曲ほどを弾き終える頃には、重苦しい雲もほぼ晴れる。
 はぁ、調子出てきたな。咲真は悦に入りながら、ブルグミュラーの12番「別れ」の最後の和音を鳴らしたが、その時ふと違和感を覚えた。その感覚の出所は、直ぐに発覚する。部屋の扉が開けっぱなしで、そこから見知らぬ男がこちらを覗きこんでいた。
 おわぁ! という言葉になり切らない音が、咲真の声帯から勝手に出た。ピアノ専攻の身で子どもが弾く曲を外に洩らすという失態と、誰もいないと信じている場所に人の姿を見たことで、心臓がきゅっとなる。

「ああっ、ごめんなさい! 閉めます!」

 先に謝ったのは、覗いていた男だった。いい声やな、と感じると同時に、申し訳ないと咄嗟に思った咲真は、椅子から立ち上がって、小走りで扉に向かう。閉まりかかった重い扉をぐっと押さえて、向こう側にいる人間に言った。

「こっちこそごめん、しょうもない曲バンバン鳴らしてうるさかったやろ、悪い」
「いえ、トイレに行こうとしたら良い音が聴こえたのでつい……」

 ちょっと褒められたので、咲真は相手の顔を見たくなった。首を出すと、そこにいたのは咲真より少し背の低い、おぼこい雰囲気の男性だった。やや田舎くさいのだが、きれいな形の目と濃い色の澄んだ瞳が印象的だ。

「えっと、どこの子?」
「声楽専攻の子です」

 えっ。咲真は思わず上半身を引いた。学部生ちゃうんか。年上だとまずいので、標準語および敬語に切り替える。

「大変失礼しました、お騒がせしました」

 扉の外に出てぺこりと頭を下げると、いやいやいや、とおぼこい男子が焦ったように言った。

「こちらこそ練習の邪魔をしてごめんなさい、失礼しました」

 彼は困惑気味の笑顔で会釈しながら、トイレの方向に去って行った。咲真はその背中を見送り、確かに歌手だと思った。ぱっと見では気づかないのだが、腰の辺りがどっしりしている。正しい訓練を受けている歌い手は、肋骨から下に響きの源のようなものを備えているのだ。声楽の伴奏をする時、舞台で彼らを背後から支える咲真は、それを知っていた。
 声楽専攻のおぼこい男子に毒気を抜かれた咲真は、その後極めて真面目に練習した。実家のピアノがしっかり調律されておらず、ここ数日微妙な不快感を抱きながら弾く羽目になっただけに、練習室のこなれたグランドピアノの音や鍵盤の重さが心地良い。それで集中して弾くことができた。
 2時間後に咲真は練習室を出た。明日は夕方から少しアルバイトがあるが、それまで自宅でゆっくりして、明後日から始まる授業に備えようと思う。
 隣の部屋ももう空いている。あいつ、隣で練習してたんかな。咲真は、あのおぼこい男子の人の良さそうな顔を何となく思い浮かべながら建物を出た。外はすっかり夜になって、空には星が浮かんでいた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

キャロットケーキの季節に

秋乃みかづき
BL
ひょんな事から知り合う、 可愛い系26歳サラリーマンと32歳キレイ系美容師 男性同士の恋愛だけでなく、ヒューマンドラマ的な要素もあり 特に意識したのは リアルな会話と感情 ほのぼのしたり、笑ったり、時にはシリアスも キャラクターの誰かに感情移入していただけたら嬉しいです

鬼上司と秘密の同居

なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳 幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ… そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた… いったい?…どうして?…こうなった? 「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」 スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか… 性描写には※を付けております。

僕の恋人は、超イケメン!!

BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜

水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。 そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー ------------------------------- 松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳 カフェ・ルーシェのオーナー 横家大輝(よこやだいき) 27歳 サッカー選手 吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳 ファッションデザイナー ------------------------------- 2024.12.21~

握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透
BL
完結済みです。 芝崎康介は大学の入学試験のとき、落とした参考書を拾ってくれた男子生徒に一目惚れをした。想いを募らせつつ迎えた春休み、新居となるアパートに引っ越した康介が隣人を訪ねると、そこにいたのは一目惚れした彼だった。 彼こと高倉涼は「仲良くしてくれる?」と康介に言う。けれど涼はどこか訳アリな雰囲気で……。 少しずつ距離が縮まるたび、ふわりと膨れていく想い。こんなに知りたいと思うのは、近づきたいと思うのは、全部ぜんぶ────。 もどかしくてあたたかい、純粋な愛の物語。

【完結】禁断の忠誠

海野雫
BL
王太子暗殺を阻止したのは、ひとりの宦官だった――。 蒼嶺国――龍の血を継ぐ王家が治めるこの国は、今まさに権力の渦中にあった。 病に伏す国王、その隙を狙う宰相派の野心。玉座をめぐる見えぬ刃は、王太子・景耀の命を狙っていた。 そんな宮廷に、一人の宦官・凌雪が送り込まれる。 幼い頃に売られ、冷たい石造りの宮殿で静かに生きてきた彼は、ひっそりとその才覚を磨き続けてきた。 ある夜、王太子を狙った毒杯の罠をいち早く見破り、自ら命を賭してそれを阻止する。 その行動をきっかけに、二人の運命の歯車が大きく動き始める――。 宰相派の陰謀、王家に渦巻く疑念と忠誠、そして宮廷の奥深くに潜む暗殺の影。 互いを信じきれないまま始まった二人の主従関係は、やがて禁じられた想いと忠誠のはざまで揺れ動いていく。 己を捨てて殿下を守ろうとする凌雪と、玉座を背負う者として冷徹であろうとする景耀。 宮廷を覆う陰謀の嵐の中で、二人が交わした契約は――果たして主従のものか、それとも……。

Take On Me 2

マン太
BL
 大和と岳。二人の新たな生活が始まった三月末。新たな出会いもあり、色々ありながらも、賑やかな日々が過ぎていく。  そんな岳の元に、一本の電話が。それは、昔世話になったヤクザの古山からの呼び出しの電話だった。  岳は仕方なく会うことにするが…。 ※絡みの表現は控え目です。 ※「エブリスタ」、「小説家になろう」にも投稿しています。

処理中です...