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2章 聖地の豊かすぎる日常
13話 行商人マルコの新たな商機
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男の名前はマルコ。彼は今、シュタイン領の主要都市ボルグで、名実ともに大商人としての地位を確立していた。彼の店「ヴァルハラ商会」は、常に活気に満ちている。
数ヶ月前、王都から司教と監察官がやってきた時は、さすがの彼も肝を冷やした。案内役を買って出て、意気揚々とヴァルハラ領へとお連れしたものの、内心ではどうなることかと気が気でなかったのだ。
だが、結果として、それは杞憂に終わった。
アッシュ様は、いつも通り、ただ眠そうに椅子に座ってあくびをしていただけ。しかし、王都の大物たちは、完全に統治された理想郷のようなヴァルハラ領の姿と、魔獣グリフォンが荷物を運ぶという異常な光景、そして何より、アッシュ様の神の如き威厳の前に、言葉を失っていた。
結局、調査団は「現人神の真偽は不明。ただし、極めて統制の取れた危険な共同体であり、現時点での性急な干渉は国益を損なう恐れあり。継続的な監視を要す」という報告書を王都に提出し、早々に引き上げていったという。
マルコにしてみれば、それはアッシュ様の威光が、ついに王都の権力者すら退けた、輝かしい勝利の記録に他ならなかった。
そんな一件もあり、ボルグの街は奇妙な安定を得ていた。ゲッコー男爵は先の失態の責任を問われて謹慎処分となり、代わりに王都から新しい領主代理が派遣されてはいるが、街の空気は明らかに変わっていた。
民衆の心は、新しい領主代理よりも、隣の領地の「慈悲深き神」に、より強く惹きつけられているのだ。
マルコは、この状況を最大限に利用していた。「聖水」と「聖なる塩」の交易は、彼の懐を潤し続けている。しかし、彼は商人だ。
常に新たな商機を探していた。
その日、マルコは久々にヴァルハラ領を訪れていた。新たな物資を届け、そして何より、アッシュ様のご尊顔を拝し、次なる神のヒントを得るためだ。
そして、彼はヴァルハラ領に足を踏み入れた瞬間、己の目を疑った。
「こ、これは……」
以前訪れた時とは、明らかに景色が違う。
領主館の周辺一帯が、見渡す限りの美しい花畑に変わっていたのだ。色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。その光景は、まさに伝説に語られる楽園のようだった。
そして彼は、信者たちが大事そうに運んでいる、黄金色に輝く液体の存在に気づく。
「マルコ殿、よくぞお越しくださいました」
出迎えた聖女セレスティアに、マルコは興奮気味に尋ねた。
「セレスティア様、この花畑と、あの黄金の液体は、一体……?」
セレスティアは誇らしげに微笑んで答えた。
「あれこそ、アッシュ様が我らにお示しくださった、新たなる恵み。『蜂蜜』でございます」
話を聞いて、マルコは再び神の深遠なる計画に打ち震えた。
神は、民の腹を満たすだけに留まらず、今度はその食文化を発展させ、心に喜びと彩りを与える『甘味』をお与えになったというのだ。なんと慈悲深く、そして先見の明に満ちたお方だろうか。
マルコは、商人としての本能が、全身で警鐘を鳴らすのを感じていた。
この蜂蜜は、とんでもない商品になる。
彼は早速、アッシュ様への挨拶はもちろん、セレスティアとの商談に入った。
「セレスティア様! どうか、この奇跡の蜂蜜の独占交易権を、このマルコにお与えください!」
「お待ちください、マルコ殿。これは神の恵み。金儲けの道具とすることは、アッシュ様の御心に背くやもしれません」
セレスティアは、わずかに眉をひそめた。
だが、マルコは用意していた殺し文句を繰り出す。
「もちろん、ただ儲けるためではございません! この蜂蜜を売って得た利益で、私はヴァルハラ領にさらなる貢献をさせていただきたいのです! 例えば、子供たちが文字を学ぶための紙やインク、冬を越すための暖かい衣服、より良い生活のための様々な道具を!」
マルコの熱弁に、セレスティアの表情が和らいだ。
「……民の生活を、より豊かにするため。それもまた、きっと神の御心に違いありませんね。分かりました。あなたに、この蜂蜜の交易を託しましょう」
交渉は成立した。
マルコは、ヴァルハラ領で採れた蜂蜜を「神の甘露」と名付け、大きな樽に詰めて、意気揚々とボルグの街へと持ち帰った。
彼の予想通り、「神の甘露」は、ボルグの街で爆発的な人気を博した。
その芳醇な香りと、上品で濃厚な甘さは、たちまち富裕層や舌の肥えた食通たちを虜にした。生産量が限られているため、その価格は高騰し、所有すること自体が一種のステータスとなったのだ。
「神の甘露を一口舐めれば、十年寿命が延びるそうだ」
「アッシュ様は、この甘露で日々の茶を楽しんでおられるらしい」
真偽不明の噂が、商品の価値をさらに高めていく。マルコの金庫は、もはやはち切れんばかりだった。
だが、その甘い蜜の噂は、快く思わない人物の耳にも、もちろん届いていた。
◇◇◇
シュタイン領の新しい領主代理、エルンスト・フォン・リッターである。
王都から派遣されてきた、実直で有能、しかし、極めて融通の利かない堅物の貴族である。
彼は、執務室で「神の甘露」についての報告を受け、忌々しげに顔をしかめていた。
自分の治めるべき領地の民が、いまだに隣の、得体の知れないカルト教団のような集団に心酔し、その産品を高値でありがたがっている。その事実が、彼のプライドをひどく傷つけた。
「けしからん……。実に、けしからんことだ」
エルンストは、机をコツン、と指で叩いた。
「シュタイン領の民は、シュタイン領の産品によって生きるべきであり、シュタイン領の法と秩序に従うべきだ。隣の領地の、偽りの神などに、心を惑わされてはならん」
ゲッコー男爵のような、分かりやすい強欲さではない。
だが、その目には、秩序を重んじるが故の、冷徹で、断固とした光が宿っていた。
「あのヴァルハラとかいう土地……一度、我が目で、その実態を確かめる必要がありそうだな」
マルコがもたらした甘い蜜は、ゲッコー男爵とは質の違う、新たな対立の火種を、静かに生み出していた。
数ヶ月前、王都から司教と監察官がやってきた時は、さすがの彼も肝を冷やした。案内役を買って出て、意気揚々とヴァルハラ領へとお連れしたものの、内心ではどうなることかと気が気でなかったのだ。
だが、結果として、それは杞憂に終わった。
アッシュ様は、いつも通り、ただ眠そうに椅子に座ってあくびをしていただけ。しかし、王都の大物たちは、完全に統治された理想郷のようなヴァルハラ領の姿と、魔獣グリフォンが荷物を運ぶという異常な光景、そして何より、アッシュ様の神の如き威厳の前に、言葉を失っていた。
結局、調査団は「現人神の真偽は不明。ただし、極めて統制の取れた危険な共同体であり、現時点での性急な干渉は国益を損なう恐れあり。継続的な監視を要す」という報告書を王都に提出し、早々に引き上げていったという。
マルコにしてみれば、それはアッシュ様の威光が、ついに王都の権力者すら退けた、輝かしい勝利の記録に他ならなかった。
そんな一件もあり、ボルグの街は奇妙な安定を得ていた。ゲッコー男爵は先の失態の責任を問われて謹慎処分となり、代わりに王都から新しい領主代理が派遣されてはいるが、街の空気は明らかに変わっていた。
民衆の心は、新しい領主代理よりも、隣の領地の「慈悲深き神」に、より強く惹きつけられているのだ。
マルコは、この状況を最大限に利用していた。「聖水」と「聖なる塩」の交易は、彼の懐を潤し続けている。しかし、彼は商人だ。
常に新たな商機を探していた。
その日、マルコは久々にヴァルハラ領を訪れていた。新たな物資を届け、そして何より、アッシュ様のご尊顔を拝し、次なる神のヒントを得るためだ。
そして、彼はヴァルハラ領に足を踏み入れた瞬間、己の目を疑った。
「こ、これは……」
以前訪れた時とは、明らかに景色が違う。
領主館の周辺一帯が、見渡す限りの美しい花畑に変わっていたのだ。色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。その光景は、まさに伝説に語られる楽園のようだった。
そして彼は、信者たちが大事そうに運んでいる、黄金色に輝く液体の存在に気づく。
「マルコ殿、よくぞお越しくださいました」
出迎えた聖女セレスティアに、マルコは興奮気味に尋ねた。
「セレスティア様、この花畑と、あの黄金の液体は、一体……?」
セレスティアは誇らしげに微笑んで答えた。
「あれこそ、アッシュ様が我らにお示しくださった、新たなる恵み。『蜂蜜』でございます」
話を聞いて、マルコは再び神の深遠なる計画に打ち震えた。
神は、民の腹を満たすだけに留まらず、今度はその食文化を発展させ、心に喜びと彩りを与える『甘味』をお与えになったというのだ。なんと慈悲深く、そして先見の明に満ちたお方だろうか。
マルコは、商人としての本能が、全身で警鐘を鳴らすのを感じていた。
この蜂蜜は、とんでもない商品になる。
彼は早速、アッシュ様への挨拶はもちろん、セレスティアとの商談に入った。
「セレスティア様! どうか、この奇跡の蜂蜜の独占交易権を、このマルコにお与えください!」
「お待ちください、マルコ殿。これは神の恵み。金儲けの道具とすることは、アッシュ様の御心に背くやもしれません」
セレスティアは、わずかに眉をひそめた。
だが、マルコは用意していた殺し文句を繰り出す。
「もちろん、ただ儲けるためではございません! この蜂蜜を売って得た利益で、私はヴァルハラ領にさらなる貢献をさせていただきたいのです! 例えば、子供たちが文字を学ぶための紙やインク、冬を越すための暖かい衣服、より良い生活のための様々な道具を!」
マルコの熱弁に、セレスティアの表情が和らいだ。
「……民の生活を、より豊かにするため。それもまた、きっと神の御心に違いありませんね。分かりました。あなたに、この蜂蜜の交易を託しましょう」
交渉は成立した。
マルコは、ヴァルハラ領で採れた蜂蜜を「神の甘露」と名付け、大きな樽に詰めて、意気揚々とボルグの街へと持ち帰った。
彼の予想通り、「神の甘露」は、ボルグの街で爆発的な人気を博した。
その芳醇な香りと、上品で濃厚な甘さは、たちまち富裕層や舌の肥えた食通たちを虜にした。生産量が限られているため、その価格は高騰し、所有すること自体が一種のステータスとなったのだ。
「神の甘露を一口舐めれば、十年寿命が延びるそうだ」
「アッシュ様は、この甘露で日々の茶を楽しんでおられるらしい」
真偽不明の噂が、商品の価値をさらに高めていく。マルコの金庫は、もはやはち切れんばかりだった。
だが、その甘い蜜の噂は、快く思わない人物の耳にも、もちろん届いていた。
◇◇◇
シュタイン領の新しい領主代理、エルンスト・フォン・リッターである。
王都から派遣されてきた、実直で有能、しかし、極めて融通の利かない堅物の貴族である。
彼は、執務室で「神の甘露」についての報告を受け、忌々しげに顔をしかめていた。
自分の治めるべき領地の民が、いまだに隣の、得体の知れないカルト教団のような集団に心酔し、その産品を高値でありがたがっている。その事実が、彼のプライドをひどく傷つけた。
「けしからん……。実に、けしからんことだ」
エルンストは、机をコツン、と指で叩いた。
「シュタイン領の民は、シュタイン領の産品によって生きるべきであり、シュタイン領の法と秩序に従うべきだ。隣の領地の、偽りの神などに、心を惑わされてはならん」
ゲッコー男爵のような、分かりやすい強欲さではない。
だが、その目には、秩序を重んじるが故の、冷徹で、断固とした光が宿っていた。
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