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2章 聖地の豊かすぎる日常
15話 堅物貴族の常識が崩壊する日
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男の名は、エルンスト・フォン・リッター。王家の命を受け、堕落したゲッコー男爵に代わり、シュタイン領の統治を任された、新進気鋭の貴族である。
彼は、自らの正義と、王国の秩序に絶対の自信を持っていた。
馬上でヴァルハラ領へと向かいながら、エルンストは今回の訪問の目的を、改めて胸中で反芻していた。
目的は、ただ一つ。民衆を惑わす、隣の領地のカルト教団――自称『聖地ヴァルハラ』の正体を、この目で見極め、その影響力を排除するための糸口を掴むこと。
前任者ゲッコーのように、力や金でねじ伏せようなどという愚は犯さない。法と、貴族社会の常識。それらを以て、偽りの神の化けの皮を剥いでみせる。彼はそう固く決意していた。
やがて、一行はヴァルハラ領の入り口へとたどり着く。
そこでエルンストが最初に見たのは、報告書にあったような、貧しく荒れた土地ではなかった。
完璧に整備された道。その両脇にどこまでも広がる、青々とした畑。そして、そこで働く領民たちの、異常なまでに生き生きとした目。
誰もが、その身に労働の喜びと、揺るぎない信仰を宿しているかのような、異様な活気に満ち溢れていた。
(……報告以上に、統率は取れている。これは、一筋縄ではいかんな)
エルンストの眉間に、わずかに皺が寄った。
やがて、村の中から、一団が出迎えるために現れる。中心に立つのは、銀髪の美しい少女。 あれが、噂の聖女セレスティアだろう。
エルンストは、馬から降りると、貴族としての作法に完璧に則り、丁重に、しかし威厳を込めて挨拶をした。
「私が、シュタイン領の領主代理を拝命した、エルンスト・フォン・リッターである。本日は、隣領のよしみとして、こちらの領主殿にご挨拶に伺った。取り次ぎを願いたい」
それに対する、聖女の返答は、エルンストの予想を完全に裏切るものだった。
彼女は、穏やかながらも、一切の揺らぎを見せない、不思議な威圧感をまとって、こう告げたのだ。
「ようこそお越しくださいました、エルンスト殿。我らは、礼を尽くして門を叩く方を、心より歓迎いたします」
丁寧な言葉遣い。
だが、その瞳は、エルンストを試すかのように、真っ直ぐに見据えている。
「しかし、最初にお伝えすべき、我らが聖地の『流儀』がございます」
「……流儀?」
「はい。第一に、我らは俗世の政には関与いたしません。第二に、我らが神の教えに基づく、この地のやり方を変えるつもりもございません。第三に、この原則をご理解いただけぬ方と、お話しすることはありません」
エルンストは、完全に面食らった。
挨拶に来ただけだというのに、なぜ、いきなり一方的に、外交方針のようなものを突きつけられているのか。まるで、対等の、いや、格上の国家が、格下の使節に「我らのルール」を宣告するかのようだ。理解が、全く追いつかなかった。
(な、なんだ、この者たちは……。無礼にもほどがある。だが、この堂々とした態度は、一体……)
彼の内心の混乱をよそに、セレスティアは、
「さあ、こちらへ。我らが主、アッシュ様が、お待ちです」
と、領主館へと案内を始めた。
案内される道すがら、エルンストはさらなる常識外れの光景を目の当たりにする。
伝説の魔獣であるはずのグリフォンが、まるで農耕馬のように、荷車を引いて悠々と道を歩いている。すれ違う子供たちは、その姿に全く臆することなく、笑いながらグリフォンの横を駆け抜けていく。
全てが、彼の知る世界の法則から逸脱していた。
やがて、一行は領主館といっても、少し立派なだけの木造家屋へとたどり着く。
応接室に通されたエルンストは、固唾をのんで、この異常な土地を支配するという「現人神」の登場を待った。
背後では、部下たちが、緊張で息を詰めている気配が伝わってくる。
そして、奥の部屋のドアが開き、ついに、その「神」が姿を現した。
エルンストの目に映ったのは、寝癖のついた髪に眠そうな目をこする、ただのやる気のない青年の姿だった。貴族としての威厳も、神としての神々しさも、どこにもない。
(こ、こいつが……神? まさか。ただの傀儡か、あるいは、ただの怠け者か……?)
エルンストは、疑念を抱きながらも、まずは礼儀に則り、挨拶をしようと口を開いた。
「お初にお目にかかる。私が、シュタイン領の新たな領主代理として着任した、エルンスト・フォン・リッターと申します。本日は、隣領のよしみとして、ご挨拶に……」
だが、彼の丁寧な口上は、途中で遮られた。
目の前の青年――アッシュが、隠す気もない、大きなあくびを一つしたのだ。
面倒くさそうに、ただ一言、呟いた。
「……ああ。で、用件は?」
エルンストの思考が、完全に停止した。
無礼。あまりにも、無礼すぎる。貴族間の挨拶の常識を、根底から覆すような態度。
だが、本当に彼を混乱させたのは、その後のことだった。
その神の、あまりに無礼な態度に対し、隣に控える聖女セレスティアも、周りを固める信者たちも、誰一人として咎める者がいない。
それどころか、彼らは皆、どこか誇らしげに、そして、感動したかのように、深く頷いているのだ。
(なんなのだ、ここは……。一体、何が起きている……?)
エルンストは、この瞬間悟った。
自分が今、足を踏み入れたこの場所は、自分の知る法も、秩序も、常識も、その一切が通用しない、全くの「異世界」なのだと。
彼は、背中に、経験したことのない、冷たい汗が流れるのを感じていた。
堅物貴族の、常識と理性が、音を立てて崩れ始めていた。
彼は、自らの正義と、王国の秩序に絶対の自信を持っていた。
馬上でヴァルハラ領へと向かいながら、エルンストは今回の訪問の目的を、改めて胸中で反芻していた。
目的は、ただ一つ。民衆を惑わす、隣の領地のカルト教団――自称『聖地ヴァルハラ』の正体を、この目で見極め、その影響力を排除するための糸口を掴むこと。
前任者ゲッコーのように、力や金でねじ伏せようなどという愚は犯さない。法と、貴族社会の常識。それらを以て、偽りの神の化けの皮を剥いでみせる。彼はそう固く決意していた。
やがて、一行はヴァルハラ領の入り口へとたどり着く。
そこでエルンストが最初に見たのは、報告書にあったような、貧しく荒れた土地ではなかった。
完璧に整備された道。その両脇にどこまでも広がる、青々とした畑。そして、そこで働く領民たちの、異常なまでに生き生きとした目。
誰もが、その身に労働の喜びと、揺るぎない信仰を宿しているかのような、異様な活気に満ち溢れていた。
(……報告以上に、統率は取れている。これは、一筋縄ではいかんな)
エルンストの眉間に、わずかに皺が寄った。
やがて、村の中から、一団が出迎えるために現れる。中心に立つのは、銀髪の美しい少女。 あれが、噂の聖女セレスティアだろう。
エルンストは、馬から降りると、貴族としての作法に完璧に則り、丁重に、しかし威厳を込めて挨拶をした。
「私が、シュタイン領の領主代理を拝命した、エルンスト・フォン・リッターである。本日は、隣領のよしみとして、こちらの領主殿にご挨拶に伺った。取り次ぎを願いたい」
それに対する、聖女の返答は、エルンストの予想を完全に裏切るものだった。
彼女は、穏やかながらも、一切の揺らぎを見せない、不思議な威圧感をまとって、こう告げたのだ。
「ようこそお越しくださいました、エルンスト殿。我らは、礼を尽くして門を叩く方を、心より歓迎いたします」
丁寧な言葉遣い。
だが、その瞳は、エルンストを試すかのように、真っ直ぐに見据えている。
「しかし、最初にお伝えすべき、我らが聖地の『流儀』がございます」
「……流儀?」
「はい。第一に、我らは俗世の政には関与いたしません。第二に、我らが神の教えに基づく、この地のやり方を変えるつもりもございません。第三に、この原則をご理解いただけぬ方と、お話しすることはありません」
エルンストは、完全に面食らった。
挨拶に来ただけだというのに、なぜ、いきなり一方的に、外交方針のようなものを突きつけられているのか。まるで、対等の、いや、格上の国家が、格下の使節に「我らのルール」を宣告するかのようだ。理解が、全く追いつかなかった。
(な、なんだ、この者たちは……。無礼にもほどがある。だが、この堂々とした態度は、一体……)
彼の内心の混乱をよそに、セレスティアは、
「さあ、こちらへ。我らが主、アッシュ様が、お待ちです」
と、領主館へと案内を始めた。
案内される道すがら、エルンストはさらなる常識外れの光景を目の当たりにする。
伝説の魔獣であるはずのグリフォンが、まるで農耕馬のように、荷車を引いて悠々と道を歩いている。すれ違う子供たちは、その姿に全く臆することなく、笑いながらグリフォンの横を駆け抜けていく。
全てが、彼の知る世界の法則から逸脱していた。
やがて、一行は領主館といっても、少し立派なだけの木造家屋へとたどり着く。
応接室に通されたエルンストは、固唾をのんで、この異常な土地を支配するという「現人神」の登場を待った。
背後では、部下たちが、緊張で息を詰めている気配が伝わってくる。
そして、奥の部屋のドアが開き、ついに、その「神」が姿を現した。
エルンストの目に映ったのは、寝癖のついた髪に眠そうな目をこする、ただのやる気のない青年の姿だった。貴族としての威厳も、神としての神々しさも、どこにもない。
(こ、こいつが……神? まさか。ただの傀儡か、あるいは、ただの怠け者か……?)
エルンストは、疑念を抱きながらも、まずは礼儀に則り、挨拶をしようと口を開いた。
「お初にお目にかかる。私が、シュタイン領の新たな領主代理として着任した、エルンスト・フォン・リッターと申します。本日は、隣領のよしみとして、ご挨拶に……」
だが、彼の丁寧な口上は、途中で遮られた。
目の前の青年――アッシュが、隠す気もない、大きなあくびを一つしたのだ。
面倒くさそうに、ただ一言、呟いた。
「……ああ。で、用件は?」
エルンストの思考が、完全に停止した。
無礼。あまりにも、無礼すぎる。貴族間の挨拶の常識を、根底から覆すような態度。
だが、本当に彼を混乱させたのは、その後のことだった。
その神の、あまりに無礼な態度に対し、隣に控える聖女セレスティアも、周りを固める信者たちも、誰一人として咎める者がいない。
それどころか、彼らは皆、どこか誇らしげに、そして、感動したかのように、深く頷いているのだ。
(なんなのだ、ここは……。一体、何が起きている……?)
エルンストは、この瞬間悟った。
自分が今、足を踏み入れたこの場所は、自分の知る法も、秩序も、常識も、その一切が通用しない、全くの「異世界」なのだと。
彼は、背中に、経験したことのない、冷たい汗が流れるのを感じていた。
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