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2章 聖地の豊かすぎる日常
19話 ただの全否定
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あの堅物貴族、エルンストが帰ってから、数ヶ月が過ぎた。
ヴァルハラ領には、もはや誰も、面倒ごとを持ち込んでくる者はいなくなった。
行商人マルコが、たまに物資の交易に来るくらいで外部との接触はほとんどない。
季節は、すっかり秋めいて、木々の葉が赤や黄色に色づき始めている。谷を渡る風は涼しく、昼寝には最高の季節だ。
俺の生活は、もはや「完璧」という言葉すら生ぬるい、神々の領域に達していた。
領地は完全に安定し、食料は有りに余り、信者たちは皆、幸せそうに働き、祈り、暮らしている。
俺は、心から思う。このまま、ここで、世界の誰にも邪魔されず、一生を終えたい、と。
だが、人間というのは、どうやら、食うに困らなくなると、別のことを考え始める生き物らしい。
その日、俺が縁側で日向ぼっこをしながら、ウトウトしていると、セレスティアと村の長老たちが、何やら神妙な顔で俺の前にやってきて一列に並んで深々と頭を下げた。
「……なんだ。俺は今、光合成の真似事をして、眠気を育てている最中なんだが」
「アッシュ様、まことに申し上げにくいのですが、我らには、一つ、憂慮すべき問題が……」
長老の一人が、おずおずと口を開く。
憂慮すべき問題? この完璧な聖地に?
セレスティアが、彼の言葉を引き継いだ。
「アッシュ様。神の祝福を受け、この聖地で生まれた子供たちは、皆、病一つせず、健やかに育っております。しかし……」
彼女は、そこで言葉を区切り、真剣な目で俺を見つめた。
「彼らは、文字の読み書きを知りません。アッシュ様が我らにお示しくださる、偉大なる神託や深遠なる教えを、正しく後世へと語り継いでいくためにも、子供たちへの教育の場が、必要ではないでしょうか?」
「そうだ、そうだ!」
「俺たちの子供に、アッシュ様への感謝の祈りを自分の手で書けるようにしてやりてえ!」
「聖地ヴァルハラに、学びの舎を!」
長老たちも、口々にそう訴える。
教育? 学校?
俺の脳内に、最も縁遠い単語が響き渡った。
正直、心底どうでもいい、と思った。
いや、どうでもいい、を通り越して、面倒くさい。
「はぁ……」
俺は盛大にため息をついた。
「教育だぁ? 学校だぁ? そんな面倒くさいもん、いるか?」
正直な本音を、そのまま口にした。
「俺はな、文字なんて読めなくたって、毎日うまい飯が食えて、気持ちよく昼寝ができるなら、人間、それで十分幸せだと思うがな」
教育という概念そのものを、根底から否定するかのような言葉に、長老たちは「えっ」という顔で固まる。
俺は、さらに続けた。
これは、俺の揺るぎない哲学だ。
「大体、俺に、人に教えられることなんざ、何一つありゃしないぞ。俺が完璧にマスターしてることなんて、ジャガイモの一番美味い茹で方と、一番効率よく、かつ気持ちよく昼寝ができる場所の探し方くらいのもんだ」
究極のグータラ論。俺の人生の全てだ。
これで、こいつらも、学校なんていう面倒な話は諦めるだろう。
だが、俺は甘かった。
俺の言葉は、聖女セレスティアの脳内にある、高性能な「神託変換フィルター」を通過することで、またしても、恐ろしく深遠な「教育方針」へと昇華されてしまったのだ。
セレスティアは、感動に打ち震え、そのアメジストの瞳を潤ませながら、固まっている長老たちに向き直った。
「なんと……! 皆さん、お聞きになりましたか! 神は、我らが陥りがちな、知識偏重の教育という過ちを、その入り口で厳しくお示しくださったのです!」
「か、過ち、ですと……?」
「その通りです!」
セレスティアは力強く頷いた。
そして、神の言葉の、ありがたい解説を始めた。
「『文字が読めなくても、飯が食えて昼寝ができれば十分』――これこそ、教育の原点です! 知識をただ頭に詰め込むことよりも、まず、日々の糧に感謝し、心安らかに生きることの尊さを教えよ、と! 『生きる力』こそが、教育の根本であると、神はおっしゃっているのです!」
「おお……!」
長老たちの顔に感銘の色が浮かぶ。
「『私に教えることは何もない』――なんと、なんと謙虚で、そして深いお言葉でしょう! 神は、ご自身が一方的に知識を与える、という傲慢な教育を否定されたのです! 子供たち自身が、この聖地での生活を通して、自らの興味で、自らの力で、学び、発見していくことこそが、真の学びであると! これぞ、『自主性の尊重』と『体験学習』の極意にございます!」
「な、なるほど……!」
そして、セレスティアは、ダメ押しの一撃を放った。
「『ジャガイモの美味い茹で方と、昼寝の場所の探し方』――これは、比喩です! 『ジャガイモ』、すなわち、日々の糧を得るための、実践的な生活の知恵! 『昼寝の場所』、すなわち、心をどこまでも安らかに保つための、精神的な拠り所! この二つこそ、神が我らに与えられた、教育における、最も重要な二大カリキュラムなのです!」
そのあまりに完璧な解釈を前に、長老たちは、もはや何の疑いも抱かなかった。
彼らは、その場で「おおお!」「深すぎる!」「さすがは我らがアッシュ様!」と、涙ながらにひれ伏した。
その日のうちに、彼らは、この神の教育方針に基づいた、世界で一つだけの学校――『ヴァルハラ学園』の設立準備に取り掛かった。
彼らが考えた、そのとんでもない時間割は、こうだ。
午前の部:畑仕事、動物の世話、森の散策(実践的生活教育)。
午後の部:祈りと瞑想、そして、全校生徒・教師参加による、集団での昼寝(情操教育)。
俺はその話を聞いて、ただ一言、思った。
「……また、勝手に盛り上がってやがる。まあ、俺が教壇に立たなくて済むなら、それでいいか」
俺の知らないところで、この聖地にまた一つ、常識外れも、妙に理にかなっているような気もする、奇妙な文化の礎が築かれようとしていたのだ。
まあ、俺は、そんなことなど全く気にせず、ただ秋の柔らかな日差しの中で、あくびを一つするだけだった。
ヴァルハラ領には、もはや誰も、面倒ごとを持ち込んでくる者はいなくなった。
行商人マルコが、たまに物資の交易に来るくらいで外部との接触はほとんどない。
季節は、すっかり秋めいて、木々の葉が赤や黄色に色づき始めている。谷を渡る風は涼しく、昼寝には最高の季節だ。
俺の生活は、もはや「完璧」という言葉すら生ぬるい、神々の領域に達していた。
領地は完全に安定し、食料は有りに余り、信者たちは皆、幸せそうに働き、祈り、暮らしている。
俺は、心から思う。このまま、ここで、世界の誰にも邪魔されず、一生を終えたい、と。
だが、人間というのは、どうやら、食うに困らなくなると、別のことを考え始める生き物らしい。
その日、俺が縁側で日向ぼっこをしながら、ウトウトしていると、セレスティアと村の長老たちが、何やら神妙な顔で俺の前にやってきて一列に並んで深々と頭を下げた。
「……なんだ。俺は今、光合成の真似事をして、眠気を育てている最中なんだが」
「アッシュ様、まことに申し上げにくいのですが、我らには、一つ、憂慮すべき問題が……」
長老の一人が、おずおずと口を開く。
憂慮すべき問題? この完璧な聖地に?
セレスティアが、彼の言葉を引き継いだ。
「アッシュ様。神の祝福を受け、この聖地で生まれた子供たちは、皆、病一つせず、健やかに育っております。しかし……」
彼女は、そこで言葉を区切り、真剣な目で俺を見つめた。
「彼らは、文字の読み書きを知りません。アッシュ様が我らにお示しくださる、偉大なる神託や深遠なる教えを、正しく後世へと語り継いでいくためにも、子供たちへの教育の場が、必要ではないでしょうか?」
「そうだ、そうだ!」
「俺たちの子供に、アッシュ様への感謝の祈りを自分の手で書けるようにしてやりてえ!」
「聖地ヴァルハラに、学びの舎を!」
長老たちも、口々にそう訴える。
教育? 学校?
俺の脳内に、最も縁遠い単語が響き渡った。
正直、心底どうでもいい、と思った。
いや、どうでもいい、を通り越して、面倒くさい。
「はぁ……」
俺は盛大にため息をついた。
「教育だぁ? 学校だぁ? そんな面倒くさいもん、いるか?」
正直な本音を、そのまま口にした。
「俺はな、文字なんて読めなくたって、毎日うまい飯が食えて、気持ちよく昼寝ができるなら、人間、それで十分幸せだと思うがな」
教育という概念そのものを、根底から否定するかのような言葉に、長老たちは「えっ」という顔で固まる。
俺は、さらに続けた。
これは、俺の揺るぎない哲学だ。
「大体、俺に、人に教えられることなんざ、何一つありゃしないぞ。俺が完璧にマスターしてることなんて、ジャガイモの一番美味い茹で方と、一番効率よく、かつ気持ちよく昼寝ができる場所の探し方くらいのもんだ」
究極のグータラ論。俺の人生の全てだ。
これで、こいつらも、学校なんていう面倒な話は諦めるだろう。
だが、俺は甘かった。
俺の言葉は、聖女セレスティアの脳内にある、高性能な「神託変換フィルター」を通過することで、またしても、恐ろしく深遠な「教育方針」へと昇華されてしまったのだ。
セレスティアは、感動に打ち震え、そのアメジストの瞳を潤ませながら、固まっている長老たちに向き直った。
「なんと……! 皆さん、お聞きになりましたか! 神は、我らが陥りがちな、知識偏重の教育という過ちを、その入り口で厳しくお示しくださったのです!」
「か、過ち、ですと……?」
「その通りです!」
セレスティアは力強く頷いた。
そして、神の言葉の、ありがたい解説を始めた。
「『文字が読めなくても、飯が食えて昼寝ができれば十分』――これこそ、教育の原点です! 知識をただ頭に詰め込むことよりも、まず、日々の糧に感謝し、心安らかに生きることの尊さを教えよ、と! 『生きる力』こそが、教育の根本であると、神はおっしゃっているのです!」
「おお……!」
長老たちの顔に感銘の色が浮かぶ。
「『私に教えることは何もない』――なんと、なんと謙虚で、そして深いお言葉でしょう! 神は、ご自身が一方的に知識を与える、という傲慢な教育を否定されたのです! 子供たち自身が、この聖地での生活を通して、自らの興味で、自らの力で、学び、発見していくことこそが、真の学びであると! これぞ、『自主性の尊重』と『体験学習』の極意にございます!」
「な、なるほど……!」
そして、セレスティアは、ダメ押しの一撃を放った。
「『ジャガイモの美味い茹で方と、昼寝の場所の探し方』――これは、比喩です! 『ジャガイモ』、すなわち、日々の糧を得るための、実践的な生活の知恵! 『昼寝の場所』、すなわち、心をどこまでも安らかに保つための、精神的な拠り所! この二つこそ、神が我らに与えられた、教育における、最も重要な二大カリキュラムなのです!」
そのあまりに完璧な解釈を前に、長老たちは、もはや何の疑いも抱かなかった。
彼らは、その場で「おおお!」「深すぎる!」「さすがは我らがアッシュ様!」と、涙ながらにひれ伏した。
その日のうちに、彼らは、この神の教育方針に基づいた、世界で一つだけの学校――『ヴァルハラ学園』の設立準備に取り掛かった。
彼らが考えた、そのとんでもない時間割は、こうだ。
午前の部:畑仕事、動物の世話、森の散策(実践的生活教育)。
午後の部:祈りと瞑想、そして、全校生徒・教師参加による、集団での昼寝(情操教育)。
俺はその話を聞いて、ただ一言、思った。
「……また、勝手に盛り上がってやがる。まあ、俺が教壇に立たなくて済むなら、それでいいか」
俺の知らないところで、この聖地にまた一つ、常識外れも、妙に理にかなっているような気もする、奇妙な文化の礎が築かれようとしていたのだ。
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