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3章 聖地の恵み、隣領に漏れ出す
34話 堅物貴族を蝕む、神の歌
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シュタイン領の領主代理、エルンスト・フォン・リッターは、奇妙な感覚に囚われていた。
彼の治める領地は、ここ最近、不思議なほど静かだったのだ。
農民たちの、年貢への不満の声が減った。街の酒場での些細な揉め事や喧嘩も、目に見えて少なくなった。
治安は安定している。それは為政者として喜ぶべきことのはずだった。
だが、エルンストは、その静けさの理由が決して自分の善政の結果ではないことを痛いほど理解していた。
彼の机の上に、日々届けられる領内各地からの報告書。その、ほとんど全ての羊皮紙に、あの男の名と、あの忌まわしき無視できない隣の領地の名がインクの染みのようにまとわりついていたからだ。
『行商人マルコ、ヴァルハラ産の新商品を多数入荷。民、これを求めて長蛇の列をなす』
『ヴァルハラにて、神の教えを学んだと称する旅の語り部、街に現る。民衆、これに熱狂す』
その日、エルンストは自らの目で、その実態を確かめるべく、質素なマントで姿を隠し、お忍びでボルグの街を歩いていた。
自分の領地が、もはや自分の知らない「何か」に精神的に支配されつつあることを悟った。
街のあちこちで子供たちが奇妙な一度聞いたら耳から離れない素朴な歌を口ずさんでいる。
「♪ジャガイモ一つで 聖女様もにっこり~♪」
「♪我らが神様 アッシュ様は 今日も元気に お昼寝だ~♪」
(……なんだ、この、ふざけた歌は……!)
エルンストは眉をひそめた。だが、子供たちは、実に楽しそうだ。
そして彼が街で一番大きな酒場に足を踏み入れた時、その光景に言葉を失った。
昼間だというのに酒場は満員の客で、ごった返している。だが、彼らの目当ては、酒ではなかった。
店の奥に作られた即席の舞台の上で、一人の吟遊詩人がヴァルハラから来たという、不格好なリュートもどきを奏でながら、朗々と物語を語っていた。
――『聖譚叙事詩』。
今や、このシュタイン領で知らぬ者はいない辺境の聖地の英雄譚だ。
民衆は、ヴァルハラの産品だけでなく、その「物語」に心を奪われていた。
彼らは、日々の苦しい労働を忘れ、物語の中の慈悲深く、厳しく、どこまでも人間らしいとも思える神の活躍に、熱狂し、涙し、そして自らの希望を重ね合わせているのだ。
(……これは、まずい)
エルンストの背筋に冷たい汗が流れた。
これは、単なる文化の流行などではない。
静かに抗いがたく進行する思想の侵略なのだ。
彼は、その足で領主館の執務室へと戻ると、すぐに側近たちを呼び集めた。
「あの『聖譚叙事詩』とやらを、領内において禁じることはできるか」
彼の厳しい問いに側近たちは顔を見合わせるだけだった。
やがて、一人の年老いた執務官が、恐る恐る口を開いた。
「……エルンスト様。それは悪手かと、存じます」
「なぜだ」
「今や、あの物語は民にとって唯一の楽しみであり、そして明日を生きるための、希望となっております。もし我らが、これを力で禁じでもしたら……民の不満と怒りは、行き場を失い、一斉に我ら領主府へと向かうことになりましょう」
執務官は声を潜めて続けた。
「……最悪の場合、民はヴァルハラの、かの『現人神』を我らの圧政から、自分たちを解放してくれる、真の『救世主』と見なし……暴動すら、起こしかねません」
その言葉にエルンストは、ぐうの音も出なかった。
禁じることは、できない。
だが、このまま放置すれば民の心は、ますますこのシュタイン領から離れ、ヴァルハラの、あの得体の知れない「神」へと向かっていく。
彼は完全に詰んでいた。
武力で、経済で、そして文化という名の、プロパガンダで、あの辺境の谷に完膚なきまでに敗北しているのだ。
彼は 机の上に置かれた、お守り代わりにしている「神の光石」のかけらを忌々しげに見つめた。
この美しくも不気味な輝きが自分の領地を、内側から静かに溶かしていくようだった。
(……どうすれば、いいのだ……。私は、一体、何と戦っているのだ……)
長い、長い、沈黙。
やがてエルンストは一つの決断を下した。
それは抵抗できない思想ならば、それを逆に取り込み、自分の統治に利用できないか、という、極めて苦渋に満ち危険な賭けだった。
「……マルコ殿を、呼べ」
彼の低い声が執務室に響いた。
「あの『現人神』について、その『教え』とやらについて、私はもっと深く知る必要がある」
敵を知り、己を知れば、あやうからず、だ。
彼の治める領地は、ここ最近、不思議なほど静かだったのだ。
農民たちの、年貢への不満の声が減った。街の酒場での些細な揉め事や喧嘩も、目に見えて少なくなった。
治安は安定している。それは為政者として喜ぶべきことのはずだった。
だが、エルンストは、その静けさの理由が決して自分の善政の結果ではないことを痛いほど理解していた。
彼の机の上に、日々届けられる領内各地からの報告書。その、ほとんど全ての羊皮紙に、あの男の名と、あの忌まわしき無視できない隣の領地の名がインクの染みのようにまとわりついていたからだ。
『行商人マルコ、ヴァルハラ産の新商品を多数入荷。民、これを求めて長蛇の列をなす』
『ヴァルハラにて、神の教えを学んだと称する旅の語り部、街に現る。民衆、これに熱狂す』
その日、エルンストは自らの目で、その実態を確かめるべく、質素なマントで姿を隠し、お忍びでボルグの街を歩いていた。
自分の領地が、もはや自分の知らない「何か」に精神的に支配されつつあることを悟った。
街のあちこちで子供たちが奇妙な一度聞いたら耳から離れない素朴な歌を口ずさんでいる。
「♪ジャガイモ一つで 聖女様もにっこり~♪」
「♪我らが神様 アッシュ様は 今日も元気に お昼寝だ~♪」
(……なんだ、この、ふざけた歌は……!)
エルンストは眉をひそめた。だが、子供たちは、実に楽しそうだ。
そして彼が街で一番大きな酒場に足を踏み入れた時、その光景に言葉を失った。
昼間だというのに酒場は満員の客で、ごった返している。だが、彼らの目当ては、酒ではなかった。
店の奥に作られた即席の舞台の上で、一人の吟遊詩人がヴァルハラから来たという、不格好なリュートもどきを奏でながら、朗々と物語を語っていた。
――『聖譚叙事詩』。
今や、このシュタイン領で知らぬ者はいない辺境の聖地の英雄譚だ。
民衆は、ヴァルハラの産品だけでなく、その「物語」に心を奪われていた。
彼らは、日々の苦しい労働を忘れ、物語の中の慈悲深く、厳しく、どこまでも人間らしいとも思える神の活躍に、熱狂し、涙し、そして自らの希望を重ね合わせているのだ。
(……これは、まずい)
エルンストの背筋に冷たい汗が流れた。
これは、単なる文化の流行などではない。
静かに抗いがたく進行する思想の侵略なのだ。
彼は、その足で領主館の執務室へと戻ると、すぐに側近たちを呼び集めた。
「あの『聖譚叙事詩』とやらを、領内において禁じることはできるか」
彼の厳しい問いに側近たちは顔を見合わせるだけだった。
やがて、一人の年老いた執務官が、恐る恐る口を開いた。
「……エルンスト様。それは悪手かと、存じます」
「なぜだ」
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執務官は声を潜めて続けた。
「……最悪の場合、民はヴァルハラの、かの『現人神』を我らの圧政から、自分たちを解放してくれる、真の『救世主』と見なし……暴動すら、起こしかねません」
その言葉にエルンストは、ぐうの音も出なかった。
禁じることは、できない。
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彼は完全に詰んでいた。
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彼は 机の上に置かれた、お守り代わりにしている「神の光石」のかけらを忌々しげに見つめた。
この美しくも不気味な輝きが自分の領地を、内側から静かに溶かしていくようだった。
(……どうすれば、いいのだ……。私は、一体、何と戦っているのだ……)
長い、長い、沈黙。
やがてエルンストは一つの決断を下した。
それは抵抗できない思想ならば、それを逆に取り込み、自分の統治に利用できないか、という、極めて苦渋に満ち危険な賭けだった。
「……マルコ殿を、呼べ」
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敵を知り、己を知れば、あやうからず、だ。
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