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4章 揺らぐ隣領と聖地の日常
44話 神の家庭菜園
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食い意地から始まった「農業改革プロジェクト」は、意外なほど順調に進んでいた。
シュタイン領の、巡礼者の中から、あの、赤くて美味い果物を作っていたという、農夫の爺さん――名前はゲルト。
彼が「特別技術指導員」としてヴァルハラに滞在することになったのだ。
最初、ゲルト爺さんは、このヴァルハラの、あまりに恵まれた土壌に驚きを隠せない様子だった。
「こ、この土は……! なんという生命力……! ワシの村の百年分の努力が、ここに詰まっておるわ……!」
などと、涙ながらに土を握りしめていた。
だが、彼は専門家として、こうも言った。
「しかし、アッシュ様。この谷は南の村に比べて日照時間が、少し足りませぬ。果樹栽培は非常に難しい挑戦となりますぞ」
まあ、そうだろうな。
俺も別にそこまで本気で期待していたわけではない。できたら、ラッキーくらいのものだ。
だが、ヴァルハラの信者たちと子供たちの意気込みは違った。
「神様が、食べたいと、おっしゃった果物だぞ!」
「我らの信仰心で、太陽を呼び寄せるのだ!」
「毎日、『神の涙』を撒きなさい! 神の慈愛が不可能を可能にするのです!」
ヴァルハラ学園の子供たちは、午前の授業の全てを、この果樹園の世話に注ぎ込み始めた。
そして、セレスティアの何の根拠もない、神託に従い、毎日、泉の水をありがたそうに苗木に与え続けた。
その結果、どうなったか。
ゲルト爺さんの長年の経験則をあざ笑うかのように、苗木はシュタイン領の数倍の速さで、ぐんぐんと成長し始めたのだ。
春に植えたばかりだというのに、夏には青々とした葉を豊かに茂らせ、秋の初めには、いくつかの枝に小さな青い実までつけ始めた。
「……ありえん……。ワシの五十年間の農業人生は、一体、なんだったのじゃ……」
ゲルト爺さんは奇跡の光景を前に呆然と立ち尽くし、やがて深く、深く、ひざまずいた。
「……アッシュ様……。ワシも、今日から、あなた様の、信徒に加えてくだされ……」
こうしてシュタイン領からの最初の「技術移住者」が誕生した。
一方、その頃。
シュタイン領でも奇妙な変化が起こっていた。巡礼から帰った者たちが、持ち帰ったヴァルハラの「文化」が領内全土で大ブームを巻き起こしていたのだ。
特に、流行しているのが『労働は祈り』と『集団昼寝』だった。
農民たちは、辛い農作業の合間に「これも、アッシュ様への、祈りなのだ」と、呟き合うことで士気を高め、以前よりも熱心に働くようになった。
そして、昼の一番、暑い時間帯には、皆仕事を中断し、木陰で一時間ほどの昼寝をとるのが習慣となった。
最初は、仕事をサボるための口実だろうと役人たちも頭を悩ませていた。
だが、驚くべきことに、この「シエスタ制度」を導入してからの方が、領内の生産性がわずかに向上し始めたのだ。
熱中症で倒れる者も減り、午後の作業効率が格段に上がったのだ。
民衆は「これも、全て、アッシュ様の、深遠なる、お知恵のおかげだ!」と、ますます、信仰を、深めていった。
領主代理エルンストは、その報告を執務室で聞いていた。
自領が良い方向に向かっている。それは喜ぶべきことだ。しかしその全ての原動力が、自分自身ではなく、隣の得体の知れない「神」であるという事実。
それが彼の心を複雑な思いにさせていた。
(……私は、ただ、見ているだけか。あの神が、私の領地を、私の民を勝手に幸福にしていくのを……)
それは為政者として安堵であり、同時に最大の屈辱でもあった。
そんな彼の元へ、行商人マルコが血相を変えて、駆け込んできたのは、ある日の午後のことだった。
「エルンスト様! 大変な噂を耳にいたしました!」
「騒がしいぞ、マルコ殿。今度は何だ」
「はっ! 王都での、話にございます! 我らが、シュタイン領が辺境の謎の勢力……すなわち、ヴァルハラ領に事実上、支配されている、と! そして、あの『聖域条約』が王国の法を無視した、一方的な独立宣言にも等しい、と!」
マルコは声を潜めて続けた。
「王家の一部、強硬派の貴族たちが、この事態を問題視し、『王家直属の大規模な公式調査団を派遣すべきだ』と、陛下に進言している、とのことにございます……!」
(ついに来たか……)
エルンストは静かに目を閉じた。
この辺境の地で起きた平和な「革命」。
その噂が、ついに王国の中心にまで届き、これまでとは、比較にならないほど、大きな波紋を広げようとしていたのだ。
シュタイン領の、巡礼者の中から、あの、赤くて美味い果物を作っていたという、農夫の爺さん――名前はゲルト。
彼が「特別技術指導員」としてヴァルハラに滞在することになったのだ。
最初、ゲルト爺さんは、このヴァルハラの、あまりに恵まれた土壌に驚きを隠せない様子だった。
「こ、この土は……! なんという生命力……! ワシの村の百年分の努力が、ここに詰まっておるわ……!」
などと、涙ながらに土を握りしめていた。
だが、彼は専門家として、こうも言った。
「しかし、アッシュ様。この谷は南の村に比べて日照時間が、少し足りませぬ。果樹栽培は非常に難しい挑戦となりますぞ」
まあ、そうだろうな。
俺も別にそこまで本気で期待していたわけではない。できたら、ラッキーくらいのものだ。
だが、ヴァルハラの信者たちと子供たちの意気込みは違った。
「神様が、食べたいと、おっしゃった果物だぞ!」
「我らの信仰心で、太陽を呼び寄せるのだ!」
「毎日、『神の涙』を撒きなさい! 神の慈愛が不可能を可能にするのです!」
ヴァルハラ学園の子供たちは、午前の授業の全てを、この果樹園の世話に注ぎ込み始めた。
そして、セレスティアの何の根拠もない、神託に従い、毎日、泉の水をありがたそうに苗木に与え続けた。
その結果、どうなったか。
ゲルト爺さんの長年の経験則をあざ笑うかのように、苗木はシュタイン領の数倍の速さで、ぐんぐんと成長し始めたのだ。
春に植えたばかりだというのに、夏には青々とした葉を豊かに茂らせ、秋の初めには、いくつかの枝に小さな青い実までつけ始めた。
「……ありえん……。ワシの五十年間の農業人生は、一体、なんだったのじゃ……」
ゲルト爺さんは奇跡の光景を前に呆然と立ち尽くし、やがて深く、深く、ひざまずいた。
「……アッシュ様……。ワシも、今日から、あなた様の、信徒に加えてくだされ……」
こうしてシュタイン領からの最初の「技術移住者」が誕生した。
一方、その頃。
シュタイン領でも奇妙な変化が起こっていた。巡礼から帰った者たちが、持ち帰ったヴァルハラの「文化」が領内全土で大ブームを巻き起こしていたのだ。
特に、流行しているのが『労働は祈り』と『集団昼寝』だった。
農民たちは、辛い農作業の合間に「これも、アッシュ様への、祈りなのだ」と、呟き合うことで士気を高め、以前よりも熱心に働くようになった。
そして、昼の一番、暑い時間帯には、皆仕事を中断し、木陰で一時間ほどの昼寝をとるのが習慣となった。
最初は、仕事をサボるための口実だろうと役人たちも頭を悩ませていた。
だが、驚くべきことに、この「シエスタ制度」を導入してからの方が、領内の生産性がわずかに向上し始めたのだ。
熱中症で倒れる者も減り、午後の作業効率が格段に上がったのだ。
民衆は「これも、全て、アッシュ様の、深遠なる、お知恵のおかげだ!」と、ますます、信仰を、深めていった。
領主代理エルンストは、その報告を執務室で聞いていた。
自領が良い方向に向かっている。それは喜ぶべきことだ。しかしその全ての原動力が、自分自身ではなく、隣の得体の知れない「神」であるという事実。
それが彼の心を複雑な思いにさせていた。
(……私は、ただ、見ているだけか。あの神が、私の領地を、私の民を勝手に幸福にしていくのを……)
それは為政者として安堵であり、同時に最大の屈辱でもあった。
そんな彼の元へ、行商人マルコが血相を変えて、駆け込んできたのは、ある日の午後のことだった。
「エルンスト様! 大変な噂を耳にいたしました!」
「騒がしいぞ、マルコ殿。今度は何だ」
「はっ! 王都での、話にございます! 我らが、シュタイン領が辺境の謎の勢力……すなわち、ヴァルハラ領に事実上、支配されている、と! そして、あの『聖域条約』が王国の法を無視した、一方的な独立宣言にも等しい、と!」
マルコは声を潜めて続けた。
「王家の一部、強硬派の貴族たちが、この事態を問題視し、『王家直属の大規模な公式調査団を派遣すべきだ』と、陛下に進言している、とのことにございます……!」
(ついに来たか……)
エルンストは静かに目を閉じた。
この辺境の地で起きた平和な「革命」。
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