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4章 揺らぐ隣領と聖地の日常
45話 堅物貴族の賭け
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行商人マルコがもたらした王都での不穏な噂。その報告は、領主代理エルンスト・フォン・リッターの心を重く暗く沈ませていた。
(……やはり、来たか)
彼は、執務室の窓から平和を取り戻しつつある自らの領地を見下ろした。
この事態を予期していなかったわけではない。
辺境の取るに足らない二つの領地が、王家の許可も得ずに、事実上の同盟、いや、主従に近い関係を結んだのだ。
中央の、秩序を重んじる貴族たちが、これを問題視しないはずがなかった。
自分がヴァルハラとの平和的な共存を選んだ、その決断。
それが、結果として、王国全体を巻き込むより、大きな騒動の引き金になってしまったことをエルンストは痛いほど理解していた。
執務室に集められた、彼の側近たちはパニックに陥っていた。
「エルンスト様! 王家に反逆の意思あり、と見なされては、我がシュタイン領は、お取り潰しにございますぞ!」
「今からでも、遅くはありませぬ! ヴァルハラとの、あの、屈辱的な条約を破棄し、改めて、王家への、絶対の忠誠を、お示しになるべきです!」
だが、エルンストは、その浅はかな進言を冷たく一蹴した。
「愚かなことを、言うな」
彼の、静かな響きを持つ声に側近たちは押し黙る。
「今、ヴァルハラとの関係を一方的に断てば、どうなる? 我が領の民は、どう動く? 彼らは、もはや我ら領主府を信じてはいない。彼らの心は、ヴァルハラの『神』にあるのだ。その最後の希望を我らが奪えば、民は我らを見限り、ヴァルハラの神に救いを求めるだろう。それこそが、このシュタイン領を内側から崩壊させる、大規模な反乱の始まりとなるのだ」
板挟み。
王家に従えば自領の民が牙を剥く。
民の心に従えば、王家から反逆者として断罪される。
どちらの道を選んだとしても、その先にあるのは破滅だけ。
側近たちが絶望に顔を青くさせる中、エルンストの心は不思議なほど静かだった。
彼は、もう人の世の常識の中で答えを探すことをやめていた。この八方塞がりの状況を打ち破る、唯一の可能性に賭けることを決意したのだ。
それは常識人である彼にとって、これまでで最も非合理的で、途方もない賭けだった。
「……マルコ殿を、呼べ」
エルンストは、側近の一人にそう命じた。
すぐに呼び出されたマルコは、エルンストの覚悟を決めた尋常ならざる覇気に気圧されていた。
「マルコ殿。貴殿に、私の『親書』を聖地ヴァルハラの、主、アッシュ殿の元へ極秘に届けてもらいたい」
「……親書、で、ございますか?」
エルンストは、自らの手で封蝋をした一通の羊皮紙の巻物をマルコに差し出した。
その親書に書かれている内容はこうだ。
『偉大なる聖地の主、アッシュ殿へ。
今、王都の俗世の権力が貴殿と、このシュタイン領との間に結ばれた、神聖なる結びつきを邪な疑いの目で見て、これを断ち切ろうとしている。
私、エルンスト・フォン・リッターは、我が領民の『信仰』と聖地との『平和』を守るため、最後まで王家の不当なる圧力と戦い抜く、覚悟である。
しかし、私の人の子のちっぽけな力だけでは、及ばぬやもしれぬ。
つきましては、どうか貴殿の、あの常人の理解を超えた深遠なる『お知恵』を、この窮地に立つ我らにお貸し願えないだろうか』
それは、エルンストがついにヴァルハラの「神」の力を受け入れ、恐れるだけでなく、自らの政治闘争の切り札として「利用」しようとする大きな危険な一歩だった。
彼は、もはやアッシュが何者であるかを、分析することも理解しようとすることもやめた。
ただ、あの眠そうな顔をした青年が、この人の世の理屈では、どうにもならない状況を覆す可能性を秘めた唯一の存在である、ということに賭けたのだ。
マルコは、その親書を受け取り、エルンストの覚悟に満ちた目に為政者としての凄みを感じた。
「……御意。このマルコ、必ずやエルンスト様の、この熱き魂をアッシュ様のお手元にお届けいたします」
マルコが退出した後、エルンストは一人執務室で窓の外を見上げた。
彼は、自分の運命と、このシュタイン領の未来の全てを隣の領地の昼寝ばかりしている、一人の青年に委ねたのだ。
その選択が、吉と出るか、凶と出るか。
彼にも全く分からなかった。
だが、彼は不思議と晴れやかな気持ちでもあった。
もう一人で悩む必要はないのだ。
「……さて」
彼は椅子に深く座り直した。
「王都の小役人どもか、あるいは辺境の神か。どちらが、上か。見せてもらおうではないか」
王都からの脅威という最大の「外圧」を前にシュタイン領は、ヴァルハラ領と完全に一つの運命共同体となろうとしていた。
(……やはり、来たか)
彼は、執務室の窓から平和を取り戻しつつある自らの領地を見下ろした。
この事態を予期していなかったわけではない。
辺境の取るに足らない二つの領地が、王家の許可も得ずに、事実上の同盟、いや、主従に近い関係を結んだのだ。
中央の、秩序を重んじる貴族たちが、これを問題視しないはずがなかった。
自分がヴァルハラとの平和的な共存を選んだ、その決断。
それが、結果として、王国全体を巻き込むより、大きな騒動の引き金になってしまったことをエルンストは痛いほど理解していた。
執務室に集められた、彼の側近たちはパニックに陥っていた。
「エルンスト様! 王家に反逆の意思あり、と見なされては、我がシュタイン領は、お取り潰しにございますぞ!」
「今からでも、遅くはありませぬ! ヴァルハラとの、あの、屈辱的な条約を破棄し、改めて、王家への、絶対の忠誠を、お示しになるべきです!」
だが、エルンストは、その浅はかな進言を冷たく一蹴した。
「愚かなことを、言うな」
彼の、静かな響きを持つ声に側近たちは押し黙る。
「今、ヴァルハラとの関係を一方的に断てば、どうなる? 我が領の民は、どう動く? 彼らは、もはや我ら領主府を信じてはいない。彼らの心は、ヴァルハラの『神』にあるのだ。その最後の希望を我らが奪えば、民は我らを見限り、ヴァルハラの神に救いを求めるだろう。それこそが、このシュタイン領を内側から崩壊させる、大規模な反乱の始まりとなるのだ」
板挟み。
王家に従えば自領の民が牙を剥く。
民の心に従えば、王家から反逆者として断罪される。
どちらの道を選んだとしても、その先にあるのは破滅だけ。
側近たちが絶望に顔を青くさせる中、エルンストの心は不思議なほど静かだった。
彼は、もう人の世の常識の中で答えを探すことをやめていた。この八方塞がりの状況を打ち破る、唯一の可能性に賭けることを決意したのだ。
それは常識人である彼にとって、これまでで最も非合理的で、途方もない賭けだった。
「……マルコ殿を、呼べ」
エルンストは、側近の一人にそう命じた。
すぐに呼び出されたマルコは、エルンストの覚悟を決めた尋常ならざる覇気に気圧されていた。
「マルコ殿。貴殿に、私の『親書』を聖地ヴァルハラの、主、アッシュ殿の元へ極秘に届けてもらいたい」
「……親書、で、ございますか?」
エルンストは、自らの手で封蝋をした一通の羊皮紙の巻物をマルコに差し出した。
その親書に書かれている内容はこうだ。
『偉大なる聖地の主、アッシュ殿へ。
今、王都の俗世の権力が貴殿と、このシュタイン領との間に結ばれた、神聖なる結びつきを邪な疑いの目で見て、これを断ち切ろうとしている。
私、エルンスト・フォン・リッターは、我が領民の『信仰』と聖地との『平和』を守るため、最後まで王家の不当なる圧力と戦い抜く、覚悟である。
しかし、私の人の子のちっぽけな力だけでは、及ばぬやもしれぬ。
つきましては、どうか貴殿の、あの常人の理解を超えた深遠なる『お知恵』を、この窮地に立つ我らにお貸し願えないだろうか』
それは、エルンストがついにヴァルハラの「神」の力を受け入れ、恐れるだけでなく、自らの政治闘争の切り札として「利用」しようとする大きな危険な一歩だった。
彼は、もはやアッシュが何者であるかを、分析することも理解しようとすることもやめた。
ただ、あの眠そうな顔をした青年が、この人の世の理屈では、どうにもならない状況を覆す可能性を秘めた唯一の存在である、ということに賭けたのだ。
マルコは、その親書を受け取り、エルンストの覚悟に満ちた目に為政者としての凄みを感じた。
「……御意。このマルコ、必ずやエルンスト様の、この熱き魂をアッシュ様のお手元にお届けいたします」
マルコが退出した後、エルンストは一人執務室で窓の外を見上げた。
彼は、自分の運命と、このシュタイン領の未来の全てを隣の領地の昼寝ばかりしている、一人の青年に委ねたのだ。
その選択が、吉と出るか、凶と出るか。
彼にも全く分からなかった。
だが、彼は不思議と晴れやかな気持ちでもあった。
もう一人で悩む必要はないのだ。
「……さて」
彼は椅子に深く座り直した。
「王都の小役人どもか、あるいは辺境の神か。どちらが、上か。見せてもらおうではないか」
王都からの脅威という最大の「外圧」を前にシュタイン領は、ヴァルハラ領と完全に一つの運命共同体となろうとしていた。
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