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第一話:最悪な患者と、口の悪い薬
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心を殺すことには、もう慣れていた。
感情なんてものは、持っているだけ損をする。期待すれば裏切られ、信じれば足元をすくわれる。そんなこと、この18年の人生で嫌というほど学んできた。
だから、実の父親に「借金のカタだ」と告げられ、人買いの馬車に押し込まれた時も、私の心は驚くほど静かだった。涙も出なければ、悲鳴も上がらない。ただ、揺れる馬車の窓から見える、遠ざかっていくみすぼらしい我が家を、凪いだ瞳で見つめていただけだ。
「せいせいするわ」
ぽつりと漏れた言葉は、本心だった。
もうあの家で、陰口を叩かれながら冷や飯を食うこともない。義母や義姉妹の顔色をうかがう必要もない。そう思えば、これからどんな地獄が待っていようと、今よりマシな気がした。
連れてこられたのは、天を突くようにそびえ立つ、黒曜石の城。
畏怖を誘うその威容に、人買いの男が「こちらが、レオニール公爵様のお屋敷でございます」と震える声で言った。
レオニール公爵。
戦場で獅子のごとき武勇を誇り、一代で公爵位までのし上がった帝国の英雄。しかしその一方で、血も涙もなく、逆らう者は容赦なく牙にかける「鋼の獅子」として、貴族たちの間では恐怖の対象だった。
……まあ、上等じゃない。
どうせろくなことにはならないと思っていたけど、相手にとって不足はない。
通されたのは、だだっ広い謁見の間。贅沢だが、どこか人の温もりが感じられない、冷たい空間だった。玉座のような椅子に、一人の男が足を組んで座っている。
陽光を吸い込むような漆黒の髪。磨き上げられた黒曜石のような、鋭い金色の瞳。彫像のように整った顔立ちは、人間離れした美しさを放っているが、その瞳に宿る光は氷のように冷え切っていた。頭上には、彼の種族を示す獅子の耳がぴくりと動いている。
彼が、レオニール公爵。
値踏みするような視線が、私を頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと舐め上げる。そこには何の感情も浮かんでいない。まるで、市場で買った家畜でも見るかのような目だった。
「お前が、エリアナか」
地を這うような低い声が、静寂を破った。
「…いかにも。あなたが、私の新しいご主人様?」
私はわざとふてぶてしく言い返してやった。どうせ媚びを売ったところで、この男には通用しないだろう。ならば、下手に怯えるより、最初から対等なフリでもしてやった方がマシだ。
公爵の眉が、わずかにピクリと動く。
「口の利き方も知らんのか。まあいい。今日からお前は、俺の『薬』だ」
「はあ? 薬?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。意味が分からない。
「お前には、触れた相手の痛みを和らげる、微弱な力があるそうだな」
「…それが何か?」
「俺は古傷のせいで、夜になると激痛に苛まれる。今夜から、お前は俺の寝室で、その痛みが和らぐまで仕えろ。ただそれだけだ。黙って命令に従えば、衣食住は保証してやる」
なるほど。そういうことか。
要するに、私は人間型の湿布か何かとして買われたわけだ。
馬鹿馬鹿しい。
「ずいぶん偉そうね。こっちは仕事なの。治療費、きっちりいただきますから」
挑発するように言い放つと、謁見の間の空気が凍り付いた。後ろに控えていた執事らしき老人が、息を呑むのが分かった。
公爵の金色の瞳が、すうっと細められる。まるで獲物に飛びかかる直前の、飢えた獣の目だ。
「…面白い。その減らず口、いつまで叩けるか見ものだな」
彼は不敵に笑うと、椅子から立ち上がった。その瞬間、私は息を呑んだ。驚くほどの長身。しなやかで、一切の無駄がない、鍛え上げられた肉体。その全身から放たれる威圧感は、そこらの貴族とは比較にならない。本物の、戦場を生きてきた男の匂い。
「いいだろう。お前が俺の痛みを癒せるのなら、相応の対価は払ってやる。だが、もし役立たずだと分かれば…その時は、その生意気な舌を引き抜いて、城の地下牢にでも放り込んでやる」
「…上等じゃない。せいぜい、私という最高の薬を手放すことにならないよう、後悔しないことね」
睨み合う視線が、火花を散らす。
こうして始まった、最悪な主従関係。
素直になれない私と、心を閉ざした公爵様。
この冷え切った城で、私が安らぎを得られる日など、永遠に来ないだろう。
…そう、この時は、本気でそう思っていたのだ。
感情なんてものは、持っているだけ損をする。期待すれば裏切られ、信じれば足元をすくわれる。そんなこと、この18年の人生で嫌というほど学んできた。
だから、実の父親に「借金のカタだ」と告げられ、人買いの馬車に押し込まれた時も、私の心は驚くほど静かだった。涙も出なければ、悲鳴も上がらない。ただ、揺れる馬車の窓から見える、遠ざかっていくみすぼらしい我が家を、凪いだ瞳で見つめていただけだ。
「せいせいするわ」
ぽつりと漏れた言葉は、本心だった。
もうあの家で、陰口を叩かれながら冷や飯を食うこともない。義母や義姉妹の顔色をうかがう必要もない。そう思えば、これからどんな地獄が待っていようと、今よりマシな気がした。
連れてこられたのは、天を突くようにそびえ立つ、黒曜石の城。
畏怖を誘うその威容に、人買いの男が「こちらが、レオニール公爵様のお屋敷でございます」と震える声で言った。
レオニール公爵。
戦場で獅子のごとき武勇を誇り、一代で公爵位までのし上がった帝国の英雄。しかしその一方で、血も涙もなく、逆らう者は容赦なく牙にかける「鋼の獅子」として、貴族たちの間では恐怖の対象だった。
……まあ、上等じゃない。
どうせろくなことにはならないと思っていたけど、相手にとって不足はない。
通されたのは、だだっ広い謁見の間。贅沢だが、どこか人の温もりが感じられない、冷たい空間だった。玉座のような椅子に、一人の男が足を組んで座っている。
陽光を吸い込むような漆黒の髪。磨き上げられた黒曜石のような、鋭い金色の瞳。彫像のように整った顔立ちは、人間離れした美しさを放っているが、その瞳に宿る光は氷のように冷え切っていた。頭上には、彼の種族を示す獅子の耳がぴくりと動いている。
彼が、レオニール公爵。
値踏みするような視線が、私を頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと舐め上げる。そこには何の感情も浮かんでいない。まるで、市場で買った家畜でも見るかのような目だった。
「お前が、エリアナか」
地を這うような低い声が、静寂を破った。
「…いかにも。あなたが、私の新しいご主人様?」
私はわざとふてぶてしく言い返してやった。どうせ媚びを売ったところで、この男には通用しないだろう。ならば、下手に怯えるより、最初から対等なフリでもしてやった方がマシだ。
公爵の眉が、わずかにピクリと動く。
「口の利き方も知らんのか。まあいい。今日からお前は、俺の『薬』だ」
「はあ? 薬?」
思わず、素っ頓狂な声が出た。意味が分からない。
「お前には、触れた相手の痛みを和らげる、微弱な力があるそうだな」
「…それが何か?」
「俺は古傷のせいで、夜になると激痛に苛まれる。今夜から、お前は俺の寝室で、その痛みが和らぐまで仕えろ。ただそれだけだ。黙って命令に従えば、衣食住は保証してやる」
なるほど。そういうことか。
要するに、私は人間型の湿布か何かとして買われたわけだ。
馬鹿馬鹿しい。
「ずいぶん偉そうね。こっちは仕事なの。治療費、きっちりいただきますから」
挑発するように言い放つと、謁見の間の空気が凍り付いた。後ろに控えていた執事らしき老人が、息を呑むのが分かった。
公爵の金色の瞳が、すうっと細められる。まるで獲物に飛びかかる直前の、飢えた獣の目だ。
「…面白い。その減らず口、いつまで叩けるか見ものだな」
彼は不敵に笑うと、椅子から立ち上がった。その瞬間、私は息を呑んだ。驚くほどの長身。しなやかで、一切の無駄がない、鍛え上げられた肉体。その全身から放たれる威圧感は、そこらの貴族とは比較にならない。本物の、戦場を生きてきた男の匂い。
「いいだろう。お前が俺の痛みを癒せるのなら、相応の対価は払ってやる。だが、もし役立たずだと分かれば…その時は、その生意気な舌を引き抜いて、城の地下牢にでも放り込んでやる」
「…上等じゃない。せいぜい、私という最高の薬を手放すことにならないよう、後悔しないことね」
睨み合う視線が、火花を散らす。
こうして始まった、最悪な主従関係。
素直になれない私と、心を閉ざした公爵様。
この冷え切った城で、私が安らぎを得られる日など、永遠に来ないだろう。
…そう、この時は、本気でそう思っていたのだ。
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