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第193話 ユリアのさらに遡った過去
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ユリアは私たちの視線を受けながらもなお、いつもと変わらない落ち着いた表情だ。その彼女がゆっくりと口を開いた。
「何者という程の者ではありません。ただ、私の旧姓は……ユリア・ジャンメールです」
「ジャンメール? どこかで聞いたことがある」
殿下は顎に指をやり、眉をひそめる。
「ルイス王時代までの文字を研究していた言語学者、アルベリク・ジャンメールの娘です」
ユリアの告白に一同息を呑み、言葉を失う。しかし動揺しながらも最初に口を開いたのは殿下だった。
「アルベリク・ジャンメール。そうだ。確かにそう聞いたことがある。だが、火事で亡くなったと聞いたが」
「そうですね。正確には殺害された後に放火されたのです」
淡々と答えるユリアに対して、私たちは顔を強ばらせる。
「ど、ういうこと、ユリア」
やっとのことで震える声を出せた私がユリアに問うと、彼女は私を見た。
「ロザンヌ様に出会う三年程前のことでした。私たち家族は学者の父とそれを支える母の三人、王都の下町で慎ましくも暮らしていました。父は日中、他言語で書かれた本を翻訳する仕事をし、空いた時間は言語学者として色々な言語の研究を細々としていましたが、ある日依頼を受けました。貴人からの依頼だったそうです」
「貴人から……」
殿下は目を見張る。
王族、あるいはどこかの貴族がユリアのお父様に文字解明の依頼をしていたとは。
「多額の報酬と何よりも貴重な資料に、いつもは冷静な父がこれで研究が進むと頬を紅潮させて喜んでいたことを今でも思い出します」
感情のこもらないユリアの話し口調がなおさら胸に響く。
「言語解明が終わり、依頼者を待つのみという頃でした。寝静まった真夜中に強盗が押し入ったのです。父はまだ仕事中だったようで、父の書斎で誰かと争う声に母が気付いて私を起こしました。争う音や声が止むことはなく、事態は深刻だと察した母が先に逃げなさいと私を外に追いやったのです。――窓へと振り返ると、光るナイフが見えた直後、耳をつんざくような悲鳴と共に部屋に火の手が上がりました」
私はいつの間にか強く握りしめていた手が小刻みに震えていた。
そんな私を見ているユリアは視線を外すように目を半ば伏せる。
「ここにいてはいけないと、母の悲鳴を背中に私は走りました。走って走って。どこまでも走って逃げて。――やがて夜が明け、やはり気になって家にこっそりと戻ってきたら家は全焼。家人は全員亡くなったと耳にしました。そして火の不始末による出火だろうと結論づけられました」
何と言って良いのか分からない。ただ、何かを口にしたとしても、意味のない言葉が漏れるだけだろう。
「父は研究中、何度も母と私に言っていました。この言語が解明された時、自分は命を狙われるかもしれないと。その時は逃げろと、ユリアを必ず逃がしてくれと」
「父君が君を?」
「はい。父は盗難の恐れがあるためと、訳語を文字には一切残しませんでした。その代わりに私に全てを託したのです」
「つまり」
殿下は掠れた声を出す。
「つまり君の頭の中にルイス王時代の文字の訳語が収められている?」
「はい。ですから自分に何かあった時、脇目もふらずに逃げろと。何があっても逃げて生きろと繰り返し言われました」
「火事の再調査を訴え出なかったのですか」
黙って聞いていたジェラルドさんが尋ねた。
「はい。最初は訴え出ることも考えましたが、大人が出火原因を火の不始末だと決めてしまったのです。七歳の子供の声に耳を傾けてくれはしなかったでしょう」
ジェラルドさんは苦い表情を浮かべる。
過去の事とはいえ、同職として庶民のために動かない騎士たちの行為を恥じているのだろうか。
「何よりもジャンメールの娘として、名乗りを上げない方が良いと思ったのです」
もし強盗がルイス王時代の訳語を狙った者だとしたら、その人物にジャンメールの娘と知られてしまうと自分の身に危険が迫るから。
「他に身内もいませんでしたし、その後、行き場を失った私は路上生活者となります。しばらくは自分を誰かが追ってくるのではないかと怯えていましたが、それは杞憂でした」
「ロザンヌ様と出会うまで、そこでずっと生きてこられたのですか」
「はい。父の言葉が重荷になったこともありますが」
両親を失い、帰る場所を失い、そして自分の存在さえも失った。ユリアのお父様は役目を放棄してでも、ただユリアに生きてほしかったのだと思う。けれどもユリアにとっては、苦しくても生き続けなければならないのかと呪いの言葉のようにも思えたのかもしれない。
どうしてユリアばかり、こんな苦しい目に遭わなければならないのか。なぜユリアばかり。
ユリアは私に近付くと、ただ黙ってハンカチを頬に優しく押し当てた。
滲んだ視界と共に彼女の行為にようやく気付く。
本当に泣きたいのはユリアの方だ。
私は自分の目元を手でぎゅっと強く拭った。
「何者という程の者ではありません。ただ、私の旧姓は……ユリア・ジャンメールです」
「ジャンメール? どこかで聞いたことがある」
殿下は顎に指をやり、眉をひそめる。
「ルイス王時代までの文字を研究していた言語学者、アルベリク・ジャンメールの娘です」
ユリアの告白に一同息を呑み、言葉を失う。しかし動揺しながらも最初に口を開いたのは殿下だった。
「アルベリク・ジャンメール。そうだ。確かにそう聞いたことがある。だが、火事で亡くなったと聞いたが」
「そうですね。正確には殺害された後に放火されたのです」
淡々と答えるユリアに対して、私たちは顔を強ばらせる。
「ど、ういうこと、ユリア」
やっとのことで震える声を出せた私がユリアに問うと、彼女は私を見た。
「ロザンヌ様に出会う三年程前のことでした。私たち家族は学者の父とそれを支える母の三人、王都の下町で慎ましくも暮らしていました。父は日中、他言語で書かれた本を翻訳する仕事をし、空いた時間は言語学者として色々な言語の研究を細々としていましたが、ある日依頼を受けました。貴人からの依頼だったそうです」
「貴人から……」
殿下は目を見張る。
王族、あるいはどこかの貴族がユリアのお父様に文字解明の依頼をしていたとは。
「多額の報酬と何よりも貴重な資料に、いつもは冷静な父がこれで研究が進むと頬を紅潮させて喜んでいたことを今でも思い出します」
感情のこもらないユリアの話し口調がなおさら胸に響く。
「言語解明が終わり、依頼者を待つのみという頃でした。寝静まった真夜中に強盗が押し入ったのです。父はまだ仕事中だったようで、父の書斎で誰かと争う声に母が気付いて私を起こしました。争う音や声が止むことはなく、事態は深刻だと察した母が先に逃げなさいと私を外に追いやったのです。――窓へと振り返ると、光るナイフが見えた直後、耳をつんざくような悲鳴と共に部屋に火の手が上がりました」
私はいつの間にか強く握りしめていた手が小刻みに震えていた。
そんな私を見ているユリアは視線を外すように目を半ば伏せる。
「ここにいてはいけないと、母の悲鳴を背中に私は走りました。走って走って。どこまでも走って逃げて。――やがて夜が明け、やはり気になって家にこっそりと戻ってきたら家は全焼。家人は全員亡くなったと耳にしました。そして火の不始末による出火だろうと結論づけられました」
何と言って良いのか分からない。ただ、何かを口にしたとしても、意味のない言葉が漏れるだけだろう。
「父は研究中、何度も母と私に言っていました。この言語が解明された時、自分は命を狙われるかもしれないと。その時は逃げろと、ユリアを必ず逃がしてくれと」
「父君が君を?」
「はい。父は盗難の恐れがあるためと、訳語を文字には一切残しませんでした。その代わりに私に全てを託したのです」
「つまり」
殿下は掠れた声を出す。
「つまり君の頭の中にルイス王時代の文字の訳語が収められている?」
「はい。ですから自分に何かあった時、脇目もふらずに逃げろと。何があっても逃げて生きろと繰り返し言われました」
「火事の再調査を訴え出なかったのですか」
黙って聞いていたジェラルドさんが尋ねた。
「はい。最初は訴え出ることも考えましたが、大人が出火原因を火の不始末だと決めてしまったのです。七歳の子供の声に耳を傾けてくれはしなかったでしょう」
ジェラルドさんは苦い表情を浮かべる。
過去の事とはいえ、同職として庶民のために動かない騎士たちの行為を恥じているのだろうか。
「何よりもジャンメールの娘として、名乗りを上げない方が良いと思ったのです」
もし強盗がルイス王時代の訳語を狙った者だとしたら、その人物にジャンメールの娘と知られてしまうと自分の身に危険が迫るから。
「他に身内もいませんでしたし、その後、行き場を失った私は路上生活者となります。しばらくは自分を誰かが追ってくるのではないかと怯えていましたが、それは杞憂でした」
「ロザンヌ様と出会うまで、そこでずっと生きてこられたのですか」
「はい。父の言葉が重荷になったこともありますが」
両親を失い、帰る場所を失い、そして自分の存在さえも失った。ユリアのお父様は役目を放棄してでも、ただユリアに生きてほしかったのだと思う。けれどもユリアにとっては、苦しくても生き続けなければならないのかと呪いの言葉のようにも思えたのかもしれない。
どうしてユリアばかり、こんな苦しい目に遭わなければならないのか。なぜユリアばかり。
ユリアは私に近付くと、ただ黙ってハンカチを頬に優しく押し当てた。
滲んだ視界と共に彼女の行為にようやく気付く。
本当に泣きたいのはユリアの方だ。
私は自分の目元を手でぎゅっと強く拭った。
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