4 / 29
1章
わたしはだれ
しおりを挟む
1
車、足音、人々の話し声。遠くに木霊す汽笛、夢の中か──。
そう、ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。まだ、頭がぼんやりする。
気がついたら、全身が騒音に包まれていた。にょきにょき立ち並ぶ巨大なビル。
ユキコは、白い丸首のシャツにグレーのロングスカートだ。肩にポシェットを下げている。
ユキコはおかっぱ頭で振り返った。
背後をとおった三人連れの女性が、日本語を話していたのだ。
街には観光客とおぼしき外国人が大勢いた。
日本語を話した三人連れは、人にまぎれ、どこかに消えた。
「そうだ。わたしは麗江(れいこう)にいたんだ」
ユキコは、右肩から左の腰に下げていた豹の毛皮のポシェットを開けた。目についたのは中国の金百元の束だ。三つある。どうしたのか覚えていない。
ほかに、紐で首に飾れる数珠繋ぎになった青色の石。小さな皮の袋に入った黄色い金属。黒曜石や火打ち石。
そして、一枚の小さな長四角の白い紙。文字が書かれている。
通る人に読んでもらったら、表には『龍玉堂漢方薬 ○○○○ 秦 周一』と記され、日本の住所と電話番号が印刷されていた。
だが、その中国人はちゃんと読めなかった。
裏側には手書きの文字で『麗江新華HOTEL 電話518・088☆』と書かれていた。○○○○の文字は、あとで知ったのだが、コンサルタントとカタカナで書かれていたのだ。
「思いだした。わたしは秦さんと出会い、いっしょに麗江に行った。そのとき、道に迷わないようにって……」
買い物にいくユキコに、持っていた自分の名刺に書いてくれたものだ。日本語は秦がときどき口にしていて、その柔らかな響きをはっきり記憶していた。
ユキコは目を閉じた。
買い物にでたとき、すぐにぼっとなった。
次第に頭が熱くなり、そのまま電球が切れるときのように、ぷつんと記憶が途絶えた。
頭の中にいるなにかが、活動を開始しようともがいている感じだった。
そしてどこからともなく、声が聞こえてきた。どこかで聞いたような声だった。だが、だれなのかは分からない。
⦅目が覚めたら、大きな都市へいってください。そこで待っていてください⦆
命令ではなく、落ち着いた響きだった。
『はい、分かりました』わたしはなんの疑問も持たず、頭の中でそう応じていた。
あれからどうしたのか──。
ユキコは額に手を当て、南京東路の入り口にたたずんでいた。
肌の色も白く背の高い娘を、通る男たちがちらちら視線を投げかける。
「おい、ねえちゃん。気分でも悪いのか」
さっそく話しかけられた。肉付きのよい中年の男だった。中国人である。探るような目つきが、おれは悪者だよ、と自ら語っていた。
「あのう、ここはどこでしょうか?」
だれでもよかった。とにかく聞きたかった。
肌艶がよくない丸顔の男は、え? とおどろきの眼であたりを見回した。
「上海の外灘ってところんだけど」
半信半疑の面持ち答える。
ところが娘は、もっと魂消た質問をした。
「上海って、どこにあるんですか?」
お上りさんなら、カモってやるぞと内心ほくそ笑んでいた男は、濁った目を見開いた。
男はあわててまばたき、色白の娘の顔を眺めなおした。
目は大きく顔立ちもよい。身なりは都会風だ。
「上海は、中国にあるんだけどな」
男は、からかわれているのかな、と訝りながら応じた。
ユキコが、なあんだ、とばかりにうなずく。
「あのな、ちょっと訊くけど、おねえちゃんはどこからきたんだい?」
気をとりなおし、男が訊ねる。
「麗江」
ユキコはさらりと答える。
「おい、おい、同じ中国じゃねえか。で、いつきたんだい?」
男はまだ半信半疑の面持ちだ。
「いつ、どうやってきたのか分からないんです」
ユキコは顔を曇らせた。
「おじさん、電話持ってる?」
眉根を寄せたまま不意に訊ねた。
ああ、と男はいぶかりながら、シャツの胸ポケットからケイタイを取りだした。
「518088☆。麗江新華HOTEL。龍玉堂の秦さんという人を呼びだしてください」
さっき見た名刺を諳んじていた。
「50元」
金銭に敏感な男は、娘とのトンチンカンなやりとりを払いのけ、手をだした。
ユキコはポシェットを開け、なかから紙幣をつまみだした。
男はユキコの目の前で、ケイタイのキイを押した。
ユキコはケイタイを受け取り、耳に当てた。
秦周一は、一ヶ月前にチエックアウトしていた。
一ヶ月……わたしはどこでなにをしていたんだろう。頭の中に、真っ白な空間がぱっと広がった。
どこかの町角に立ち⦅大きな都市にいきなさい⦆と、そんな声を聞いている自分がいた。
声は、からだの中心に存在する小さな点が、エネルギーを拡散させるかのように放射状に響いた。
そして、うん、そうしようと思っている自分がそこにいた。
自分でも不思議だった。
『大きな都市はどこですか』とあちこちで訊き回っている自分。
地域から出たことのない人達の容量を得ない答えに戸惑いながら、寄り道に寄り道を重ね、ついに上海にたどり着いたのである。
「ねえちゃん、助けが必要なら手を貸してやるぜ。おれは、劉ってんだ」
立ち話をする二人の背後を、観光客が通り過ぎる。
そのとき、どこからともなく、また日本語が聞こえた。
「ここに、日本人はたくさんいるんですか?」
「日本人は、この先の虹橋という町に住んでいる。今はかなり少なくなったけど、そこには日本の食堂や喫茶店や学校まであって、日本人町って言われているんだ」
「もしかしたら、日本には上海よりもっと大きな都市があるんですか?」
にわかに浮かんだ問いかけだった。
「あるよ。ひょっとしたら、世界一かもしれねえな。東京だ。おれは行ったことないけど、行きたいっていう若いもんを、何人も世話してるぜ。パスポート持ってるのか?」
「なに? パスポートって?」
「おまえ、いったい……」
何者なんだ、という言葉を呑みこみ、劉はあらたに真顔になる。
そんな劉を尻目に、ユキコは川向こうに聳えるきらびやかな塔に目をやった。
「虹橋にはどうやっていくんですか?」
「そこの道の先に地下鉄10号線の駅がある。そこから水城路駅に行けばいい。さっき、ポシェットの中ちらっと見えたけど、ねえちゃんが持ってる青い石、どこで手に入れたんだ?」
いつだれに貰ったのか、ユキコにも記憶がなかった。
直径二センチほどのブルーの丸い玉が三つ、金の鎖で繋がっている。
「上海博物館にいってみろ。四階の中国古代玉器館だ。大きさも色艶もそっくりだぜ。間違いない。青玉っていうんだけど、おれはすっかり気に入って毎日のぞきにいって、偽物を作った。それで外国人に、内緒で売ってやるといって大儲けしたけど、警察に捕まってな。姉ちゃんも見事に騙されたね。本物が売り出されるなんて、ありえないからな」
劉は、えへへへと笑った。
2
ユキコは、虹橋の日本人街地区をすこし外れた古い小さなホテルに部屋を借りた。
日本語が聞けるのがうれしかった。なめらかで柔らかな言葉が心地よかった。
虹橋をぶらついて、古北という町の一画で本屋を発見した。
あらゆる本がそろっていた。
その中の本棚の漫画雑誌をめくったとき、誰かに読んでもらえれば言葉の意味と文字が同時に覚えられる、と閃いた。
日本人の客を待ったが、日本に興味のあるらしい中国人の若者ばかりだった。
「あのおやじさんに電話してみよう」
困ったときは電話しろと名刺を渡されたが、半分は本気にしていなかった。
公衆電話からかけてみた。
『外難で会ったユキコですが』
『やっとかかってきたな。パスポートだろ』
『ちがいます。日本語を教えてくれる日本人を紹介してください。その人を虹橋の古北のコーヒーショップ、幸によこしてください。明日午前十時に店で待っています』
東京のほうが大きいと聞き、ユキコは上海に興味をなくした。
東京にいかなければと思った。
翌日、奥の四人掛けのテーブルを借り、コーヒーショップで日本人を待った。
時間になったとき、ジーンズ姿の女性が入ってきた。頭の上に、ワニ口のようなぎざぎざの付いたバンスクリップで髪をとめている。
上は白いワイシャツだ。すっぴんである。
ラフだが、爽やか感じのお姉さんだった。
「ユキコさんですか?」
ユキコより歳が少し上のようだった。
「テーブルの上に、漫画雑誌が二冊あるのですぐに分かりました」
一言一言がはっきり聞こえる、きれいな日本語だった。
「相原ひとみと申します」
相原はうながされ、ユキコの向かい側の椅子に腰を下した。
「では早速ですけど、ちょっと始めてみましょうか?」
とりあえずは、どの程度の能力があるのかが、知りたかった。
ところが、漫画を読んでみると、いちいちうなずくのだ。
覚えてしまったという態度だった。
相原は訊ねた。
「もしかしたらユキコさんは、一度聞いた言葉や文字は、すぐに覚えてしまうんですか?」
「はい、すぐ覚えます」
なんでもないように答える。
「覚えようという意識で言葉を聞くと、頭に入ってくるんです。遠い祖先からの遺伝のような気がします」
どういうことだろう、と相原はあっけにとられた。
半信半疑で、さらに試してみる。
すると、前ページの会話をすらすら淀みなく諳んじてみせた。
意味も絵で理解していた。
ほんとうかよ、と相原の頭が熱くなった。
漫画雑誌を三十冊ほど終了したとき、相原は日本語学校へいった。
N1(一級)の日本語の教科書を分けてもらった。
読み書きをふくめ、その教科書も一週間で終了した。
教える相原は熱に浮かされた。
上気し、ここ二週間を夢中で過ごした。
そんなすごい生徒になど、滅多にお目にかかれない。
興奮している相原に比べ、ユキコはすましている。
「あなたは不思議ですね」
聞いたのはユキコのほうだった。
レッスン終了の宣言をした直後だ。
「劉は外灘の悪者でしょう。そんな人の仕事を、なんであなたのような日本人がお手伝いをしているんですか?」
クリップで頭の髪を結った相原は、なんだとばかり胸を張った。
『おい。ものすごい変な女に日本語を教えてくれねえか?』
劉から掛かってきた電話は、そう言った。
『変な女って、どんな人ですか。とにかく、まず歳が幾つぐらいだとか』
『あなたよりは二つ、三つ、若い。それで、上海の外灘に立っていて、いきなり、ここはどこ? っておれに訊きやがった。上海だ、と答えると、それはどこの国ですか? ってまた訊きやがった。
だから馬鹿かと思ったんだけど、そうじゃねえ。青みがかったきれいな瞳をして、可愛い。モデルみたく背も高い。雲南省の奥地、雪の山をいただく山村地域の出身らしいが、本人がよく覚えていない。
名前からして、もしかしたら日本人との混血かも知れなかったが、日本語はまったく喋れない。日本の東京にいきたいそうで、日本語を教えてくれる日本人を紹介しろ、と電話で言ってきてな』
人の気を引こうと、面白そうに話しているのかと相原は考えた。
『例の青玉の件は、劉さんが警察に捕まって裏で罰金払って、見事に解決したって言ってたよね。それ以上に面白いの?』
劉は、えへへへと笑う。
相原が初めてきた外国は、上海だった。三年前である。
上海博物館の中国古代玉器館で、青玉の美しさに見とれていた。
すると声をかけられた。館の職員と名乗る男だった。
同じものを内緒で二〇万円で売る、といわれたのだ。最後は三万円になった。
日本に帰って、それが偽物だと分かった。騙された日本人があちこちにいた。
相原はマスコミ志望だった。
大学の先輩の雑誌編集者から、ときどき軽い取材を頼まれ、アルバイトをしていた。よし、青玉事件の実態を解明してやれとばかり、外灘に乗り込んだ。
そして地域の警察に偽青玉の実物を見せた。
だが、劉という男が犯人だ、事件は解決した、とあっさり告げられた。
しかし外灘の川辺にいくと、劉は観光客相手に宝石や骨董類の偽物を堂々と売りつけていた。
偽物を売られた文句をいうと、騙される方が悪いに決まっているだろ、とにこにこしている。
この国に、日本人が考えるような規律や道徳心を求めるのは無理であり、みんなが信号を守って横断歩道をわたる社会は永遠にやってこない、と相原は悟った。
相原は、青玉の取材を中心に劉に会っているうち、しだいに親密になった。
そんなとき、日本にいく中国人に日本語を教えてやってくれないか、と頼まれたのだ。もちろん、生徒たちは初めから不法滞在予定者だ。
面白そうなので、ルポになると二つ返事で引き受けた。
「わたしは劉の部下でもないし、劉の仕事を本気で手伝っている訳でもないんですよ。これからのわたしの話を、あなたはだれにも喋らないと約束できますか?」
相原は声を潜めた。
なんだろう、とユキコは相原に目で問いかけた。
「実はわたしは、ジャーナリストなのです。事件や不思議なできごとにぶつかると、いろいろ調べ、事実を解明し、記事にします。いま劉と親しくしているのは、悪を働く組織を調べ、記事にするためなんです。こういうやりかたを潜入取材といいます」
「なにか不思議なことがあると、調べるんですね?」
「もちろんです。内容によりますけどね」
「だったら、わたしについて調べてくれますか。わたし、ほんとうは自分がだれなのか分からないんです。気が付いたら、梅里雪山の麓にある明永村に近い氷河の裏路の洞窟の中にいたんです」
二人の会話は、最後には日本語になっていた。
どこから日本語になっていたのかが気づかないくらい、それは自然な成り行きだった。
(1-3了)
5785
車、足音、人々の話し声。遠くに木霊す汽笛、夢の中か──。
そう、ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。まだ、頭がぼんやりする。
気がついたら、全身が騒音に包まれていた。にょきにょき立ち並ぶ巨大なビル。
ユキコは、白い丸首のシャツにグレーのロングスカートだ。肩にポシェットを下げている。
ユキコはおかっぱ頭で振り返った。
背後をとおった三人連れの女性が、日本語を話していたのだ。
街には観光客とおぼしき外国人が大勢いた。
日本語を話した三人連れは、人にまぎれ、どこかに消えた。
「そうだ。わたしは麗江(れいこう)にいたんだ」
ユキコは、右肩から左の腰に下げていた豹の毛皮のポシェットを開けた。目についたのは中国の金百元の束だ。三つある。どうしたのか覚えていない。
ほかに、紐で首に飾れる数珠繋ぎになった青色の石。小さな皮の袋に入った黄色い金属。黒曜石や火打ち石。
そして、一枚の小さな長四角の白い紙。文字が書かれている。
通る人に読んでもらったら、表には『龍玉堂漢方薬 ○○○○ 秦 周一』と記され、日本の住所と電話番号が印刷されていた。
だが、その中国人はちゃんと読めなかった。
裏側には手書きの文字で『麗江新華HOTEL 電話518・088☆』と書かれていた。○○○○の文字は、あとで知ったのだが、コンサルタントとカタカナで書かれていたのだ。
「思いだした。わたしは秦さんと出会い、いっしょに麗江に行った。そのとき、道に迷わないようにって……」
買い物にいくユキコに、持っていた自分の名刺に書いてくれたものだ。日本語は秦がときどき口にしていて、その柔らかな響きをはっきり記憶していた。
ユキコは目を閉じた。
買い物にでたとき、すぐにぼっとなった。
次第に頭が熱くなり、そのまま電球が切れるときのように、ぷつんと記憶が途絶えた。
頭の中にいるなにかが、活動を開始しようともがいている感じだった。
そしてどこからともなく、声が聞こえてきた。どこかで聞いたような声だった。だが、だれなのかは分からない。
⦅目が覚めたら、大きな都市へいってください。そこで待っていてください⦆
命令ではなく、落ち着いた響きだった。
『はい、分かりました』わたしはなんの疑問も持たず、頭の中でそう応じていた。
あれからどうしたのか──。
ユキコは額に手を当て、南京東路の入り口にたたずんでいた。
肌の色も白く背の高い娘を、通る男たちがちらちら視線を投げかける。
「おい、ねえちゃん。気分でも悪いのか」
さっそく話しかけられた。肉付きのよい中年の男だった。中国人である。探るような目つきが、おれは悪者だよ、と自ら語っていた。
「あのう、ここはどこでしょうか?」
だれでもよかった。とにかく聞きたかった。
肌艶がよくない丸顔の男は、え? とおどろきの眼であたりを見回した。
「上海の外灘ってところんだけど」
半信半疑の面持ち答える。
ところが娘は、もっと魂消た質問をした。
「上海って、どこにあるんですか?」
お上りさんなら、カモってやるぞと内心ほくそ笑んでいた男は、濁った目を見開いた。
男はあわててまばたき、色白の娘の顔を眺めなおした。
目は大きく顔立ちもよい。身なりは都会風だ。
「上海は、中国にあるんだけどな」
男は、からかわれているのかな、と訝りながら応じた。
ユキコが、なあんだ、とばかりにうなずく。
「あのな、ちょっと訊くけど、おねえちゃんはどこからきたんだい?」
気をとりなおし、男が訊ねる。
「麗江」
ユキコはさらりと答える。
「おい、おい、同じ中国じゃねえか。で、いつきたんだい?」
男はまだ半信半疑の面持ちだ。
「いつ、どうやってきたのか分からないんです」
ユキコは顔を曇らせた。
「おじさん、電話持ってる?」
眉根を寄せたまま不意に訊ねた。
ああ、と男はいぶかりながら、シャツの胸ポケットからケイタイを取りだした。
「518088☆。麗江新華HOTEL。龍玉堂の秦さんという人を呼びだしてください」
さっき見た名刺を諳んじていた。
「50元」
金銭に敏感な男は、娘とのトンチンカンなやりとりを払いのけ、手をだした。
ユキコはポシェットを開け、なかから紙幣をつまみだした。
男はユキコの目の前で、ケイタイのキイを押した。
ユキコはケイタイを受け取り、耳に当てた。
秦周一は、一ヶ月前にチエックアウトしていた。
一ヶ月……わたしはどこでなにをしていたんだろう。頭の中に、真っ白な空間がぱっと広がった。
どこかの町角に立ち⦅大きな都市にいきなさい⦆と、そんな声を聞いている自分がいた。
声は、からだの中心に存在する小さな点が、エネルギーを拡散させるかのように放射状に響いた。
そして、うん、そうしようと思っている自分がそこにいた。
自分でも不思議だった。
『大きな都市はどこですか』とあちこちで訊き回っている自分。
地域から出たことのない人達の容量を得ない答えに戸惑いながら、寄り道に寄り道を重ね、ついに上海にたどり着いたのである。
「ねえちゃん、助けが必要なら手を貸してやるぜ。おれは、劉ってんだ」
立ち話をする二人の背後を、観光客が通り過ぎる。
そのとき、どこからともなく、また日本語が聞こえた。
「ここに、日本人はたくさんいるんですか?」
「日本人は、この先の虹橋という町に住んでいる。今はかなり少なくなったけど、そこには日本の食堂や喫茶店や学校まであって、日本人町って言われているんだ」
「もしかしたら、日本には上海よりもっと大きな都市があるんですか?」
にわかに浮かんだ問いかけだった。
「あるよ。ひょっとしたら、世界一かもしれねえな。東京だ。おれは行ったことないけど、行きたいっていう若いもんを、何人も世話してるぜ。パスポート持ってるのか?」
「なに? パスポートって?」
「おまえ、いったい……」
何者なんだ、という言葉を呑みこみ、劉はあらたに真顔になる。
そんな劉を尻目に、ユキコは川向こうに聳えるきらびやかな塔に目をやった。
「虹橋にはどうやっていくんですか?」
「そこの道の先に地下鉄10号線の駅がある。そこから水城路駅に行けばいい。さっき、ポシェットの中ちらっと見えたけど、ねえちゃんが持ってる青い石、どこで手に入れたんだ?」
いつだれに貰ったのか、ユキコにも記憶がなかった。
直径二センチほどのブルーの丸い玉が三つ、金の鎖で繋がっている。
「上海博物館にいってみろ。四階の中国古代玉器館だ。大きさも色艶もそっくりだぜ。間違いない。青玉っていうんだけど、おれはすっかり気に入って毎日のぞきにいって、偽物を作った。それで外国人に、内緒で売ってやるといって大儲けしたけど、警察に捕まってな。姉ちゃんも見事に騙されたね。本物が売り出されるなんて、ありえないからな」
劉は、えへへへと笑った。
2
ユキコは、虹橋の日本人街地区をすこし外れた古い小さなホテルに部屋を借りた。
日本語が聞けるのがうれしかった。なめらかで柔らかな言葉が心地よかった。
虹橋をぶらついて、古北という町の一画で本屋を発見した。
あらゆる本がそろっていた。
その中の本棚の漫画雑誌をめくったとき、誰かに読んでもらえれば言葉の意味と文字が同時に覚えられる、と閃いた。
日本人の客を待ったが、日本に興味のあるらしい中国人の若者ばかりだった。
「あのおやじさんに電話してみよう」
困ったときは電話しろと名刺を渡されたが、半分は本気にしていなかった。
公衆電話からかけてみた。
『外難で会ったユキコですが』
『やっとかかってきたな。パスポートだろ』
『ちがいます。日本語を教えてくれる日本人を紹介してください。その人を虹橋の古北のコーヒーショップ、幸によこしてください。明日午前十時に店で待っています』
東京のほうが大きいと聞き、ユキコは上海に興味をなくした。
東京にいかなければと思った。
翌日、奥の四人掛けのテーブルを借り、コーヒーショップで日本人を待った。
時間になったとき、ジーンズ姿の女性が入ってきた。頭の上に、ワニ口のようなぎざぎざの付いたバンスクリップで髪をとめている。
上は白いワイシャツだ。すっぴんである。
ラフだが、爽やか感じのお姉さんだった。
「ユキコさんですか?」
ユキコより歳が少し上のようだった。
「テーブルの上に、漫画雑誌が二冊あるのですぐに分かりました」
一言一言がはっきり聞こえる、きれいな日本語だった。
「相原ひとみと申します」
相原はうながされ、ユキコの向かい側の椅子に腰を下した。
「では早速ですけど、ちょっと始めてみましょうか?」
とりあえずは、どの程度の能力があるのかが、知りたかった。
ところが、漫画を読んでみると、いちいちうなずくのだ。
覚えてしまったという態度だった。
相原は訊ねた。
「もしかしたらユキコさんは、一度聞いた言葉や文字は、すぐに覚えてしまうんですか?」
「はい、すぐ覚えます」
なんでもないように答える。
「覚えようという意識で言葉を聞くと、頭に入ってくるんです。遠い祖先からの遺伝のような気がします」
どういうことだろう、と相原はあっけにとられた。
半信半疑で、さらに試してみる。
すると、前ページの会話をすらすら淀みなく諳んじてみせた。
意味も絵で理解していた。
ほんとうかよ、と相原の頭が熱くなった。
漫画雑誌を三十冊ほど終了したとき、相原は日本語学校へいった。
N1(一級)の日本語の教科書を分けてもらった。
読み書きをふくめ、その教科書も一週間で終了した。
教える相原は熱に浮かされた。
上気し、ここ二週間を夢中で過ごした。
そんなすごい生徒になど、滅多にお目にかかれない。
興奮している相原に比べ、ユキコはすましている。
「あなたは不思議ですね」
聞いたのはユキコのほうだった。
レッスン終了の宣言をした直後だ。
「劉は外灘の悪者でしょう。そんな人の仕事を、なんであなたのような日本人がお手伝いをしているんですか?」
クリップで頭の髪を結った相原は、なんだとばかり胸を張った。
『おい。ものすごい変な女に日本語を教えてくれねえか?』
劉から掛かってきた電話は、そう言った。
『変な女って、どんな人ですか。とにかく、まず歳が幾つぐらいだとか』
『あなたよりは二つ、三つ、若い。それで、上海の外灘に立っていて、いきなり、ここはどこ? っておれに訊きやがった。上海だ、と答えると、それはどこの国ですか? ってまた訊きやがった。
だから馬鹿かと思ったんだけど、そうじゃねえ。青みがかったきれいな瞳をして、可愛い。モデルみたく背も高い。雲南省の奥地、雪の山をいただく山村地域の出身らしいが、本人がよく覚えていない。
名前からして、もしかしたら日本人との混血かも知れなかったが、日本語はまったく喋れない。日本の東京にいきたいそうで、日本語を教えてくれる日本人を紹介しろ、と電話で言ってきてな』
人の気を引こうと、面白そうに話しているのかと相原は考えた。
『例の青玉の件は、劉さんが警察に捕まって裏で罰金払って、見事に解決したって言ってたよね。それ以上に面白いの?』
劉は、えへへへと笑う。
相原が初めてきた外国は、上海だった。三年前である。
上海博物館の中国古代玉器館で、青玉の美しさに見とれていた。
すると声をかけられた。館の職員と名乗る男だった。
同じものを内緒で二〇万円で売る、といわれたのだ。最後は三万円になった。
日本に帰って、それが偽物だと分かった。騙された日本人があちこちにいた。
相原はマスコミ志望だった。
大学の先輩の雑誌編集者から、ときどき軽い取材を頼まれ、アルバイトをしていた。よし、青玉事件の実態を解明してやれとばかり、外灘に乗り込んだ。
そして地域の警察に偽青玉の実物を見せた。
だが、劉という男が犯人だ、事件は解決した、とあっさり告げられた。
しかし外灘の川辺にいくと、劉は観光客相手に宝石や骨董類の偽物を堂々と売りつけていた。
偽物を売られた文句をいうと、騙される方が悪いに決まっているだろ、とにこにこしている。
この国に、日本人が考えるような規律や道徳心を求めるのは無理であり、みんなが信号を守って横断歩道をわたる社会は永遠にやってこない、と相原は悟った。
相原は、青玉の取材を中心に劉に会っているうち、しだいに親密になった。
そんなとき、日本にいく中国人に日本語を教えてやってくれないか、と頼まれたのだ。もちろん、生徒たちは初めから不法滞在予定者だ。
面白そうなので、ルポになると二つ返事で引き受けた。
「わたしは劉の部下でもないし、劉の仕事を本気で手伝っている訳でもないんですよ。これからのわたしの話を、あなたはだれにも喋らないと約束できますか?」
相原は声を潜めた。
なんだろう、とユキコは相原に目で問いかけた。
「実はわたしは、ジャーナリストなのです。事件や不思議なできごとにぶつかると、いろいろ調べ、事実を解明し、記事にします。いま劉と親しくしているのは、悪を働く組織を調べ、記事にするためなんです。こういうやりかたを潜入取材といいます」
「なにか不思議なことがあると、調べるんですね?」
「もちろんです。内容によりますけどね」
「だったら、わたしについて調べてくれますか。わたし、ほんとうは自分がだれなのか分からないんです。気が付いたら、梅里雪山の麓にある明永村に近い氷河の裏路の洞窟の中にいたんです」
二人の会話は、最後には日本語になっていた。
どこから日本語になっていたのかが気づかないくらい、それは自然な成り行きだった。
(1-3了)
5785
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
異世界スローライフ希望なのに、女神の過保護が止まらない
葉泪秋
ファンタジー
HOTランキング1位感謝です!(2/3)
「小説家になろう」日間ランキング最高11位!(ハイファンタジー)
ブラック企業で過労死した俺、佐久間遼。
神様に願ったのは、ただ「異世界で、畑でも耕しながらのんびり暮らしたい」ということだけ。
そうして手に入れた、辺境の村での穏やかな日々。現状に満足し、今度こそは平穏なスローライフを……と思っていたのだが、俺の妙なスキルと前世の社畜根性が、そうはさせない。
ふとした善意で枯れた井戸を直したことから、堅物の騎士団長やら、過保護な女神やらに目をつけられることになる。
早く穏やかに暮らしたい。
俺は今日も、規格外に育った野菜を手に、皆の姿を眺めている。
【毎日18:00更新】
※表紙画像はAIを使用しています
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
【完結】うさぎ転生 〜女子高生の私、交通事故で死んだと思ったら、気づけば現代ダンジョンの最弱モンスターに!?最強目指して生き延びる〜
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
女子高生の篠崎カレンは、交通事故に遭って命を落とした……はずが、目覚めるとそこはモンスターあふれる現代ダンジョン。しかも身体はウサギになっていた!
HPはわずか5、攻撃力もゼロに等しい「最弱モンスター」扱いの白うさぎ。それでもスライムやコボルトにおびえながら、なんとか生き延びる日々。唯一の救いは、ダンジョン特有の“スキル”を磨けば強くなれるということ。
跳躍蹴りでスライムを倒し、小動物の悲鳴でコボルトを怯ませ、少しずつ経験値を積んでいくうちに、カレンは手応えを感じ始める。
「このままじゃ終わらない。私、もっと強くなっていつか……」
最弱からの“首刈りウサギ”進化を目指して、ウサギの身体で奮闘するカレン。彼女はこの危険だらけのダンジョンで、生き延びるだけでなく“人間へ戻る術(すべ)”を探し当てられるのか? それとも新たなモンスターとしての道を歩むのか?最弱うさぎの成り上がりサバイバルが、いま幕を開ける!
英雄将軍の隠し子は、軍学校で『普通』に暮らしたい。~でも前世の戦術知識がチートすぎて、気付けば帝国の影の支配者になっていました~
ヒミヤデリュージョン
ファンタジー
帝国の辺境で、ただ静かに生き延びたいと願う少年、ヴァン。
彼に正義感はない。あるのは、前世の記憶と、母が遺した『物理法則を応用した高圧魔力』という危険な理論だけだ。
敵の大軍が迫る中、ヴァンは剣も振るわず、補給線と心理を切り裂く。
結果、敵軍は撤退。代償も、喝采も、彼には無意味だった。
だが、その「効率的すぎる勝利」は帝国の目に留まり、彼は最高峰の『帝国軍事学院』へと引きずり出される。
「英雄になりたいわけじゃない。生き残りたいだけだ」
謎の仮面メイド『シンカク』、命を取引に差し出した狼耳の少女『アイリ』。
少年は選択する。正義ではなく、最も費用対効果の高い道を。
これは、合理が英雄譚を侵食していく、学園ミリタリーファンタジー。
【※作者は日本語を勉強中の外国人です。翻訳ソフトと辞書を駆使して執筆しています。至らない点もあるかと思いますが、物語を楽しんでいただければ幸いです。】
貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。
黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。
この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。
出来損ない貴族の三男は、謎スキル【サブスク】で世界最強へと成り上がる〜今日も僕は、無能を演じながら能力を徴収する〜
シマセイ
ファンタジー
実力至上主義の貴族家に転生したものの、何の才能も持たない三男のルキウスは、「出来損ない」として優秀な兄たちから虐げられる日々を送っていた。
起死回生を願った五歳の「スキルの儀」で彼が授かったのは、【サブスクリプション】という誰も聞いたことのない謎のスキル。
その結果、彼の立場はさらに悪化。完全な「クズ」の烙印を押され、家族から存在しない者として扱われるようになってしまう。
絶望の淵で彼に寄り添うのは、心優しき専属メイドただ一人。
役立たずと蔑まれたこの謎のスキルが、やがて少年の運命を、そして世界を静かに揺るがしていくことを、まだ誰も知らない。
企業再生のプロ、倒産寸前の貧乏伯爵に転生する
namisan
ファンタジー
数々の倒産寸前の企業を立て直してきた敏腕コンサルタントの男は、過労の末に命を落とし、異世界で目を覚ます。
転生先は、帝国北部の辺境にあるアインハルト伯爵家の若き当主、アレク。
しかし、そこは「帝国の重荷」と蔑まれる、借金まみれで領民が飢える極貧領地だった。
凍える屋敷、迫りくる借金取り、絶望する家臣たち。
詰みかけた状況の中で、アレクは独自のユニーク魔法【構造解析(アナライズ)】に目覚める。
それは、物体の構造のみならず、組織の欠陥や魔法術式の不備さえも見抜き、再構築(クラフト)するチート能力だった。
「問題ない。この程度の赤字、前世の案件に比べれば可愛いものだ」
前世の経営知識と規格外の魔法で、アレクは領地の大改革に乗り出す。
痩せた土地を改良し、特産品を生み出し、隣国の経済さえも掌握していくアレク。
そんな彼の手腕に惹かれ、集まってくるのは一癖も二癖もある高貴な美女たち。
これは、底辺から這い上がった若き伯爵が、最強の布陣で自領を帝国一の都市へと発展させ、栄華を極める物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる