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第一部「ブレナード反逆編」
第3話:契約書と侯爵邸への訪問
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翌日、午後三時。
私は兄ロイに付き添われ、グランデ侯爵家の馬車に乗り込んだ。目的は、正式な婚姻契約書への署名と、婚約者としての挨拶――そして、屋敷の視察である。
「本当に行くのか?」
馬車の中で兄が何度目かの問いを投げてくる。
私は苦笑しながら頷いた。
「条件付き契約結婚。私が選べる“最も安全な結婚”の形よ。あの人が今後、本気で何か仕掛けてきたら、その時は考える」
「……本気で仕掛けてきそうだから心配してるんだが」
兄の予感は鋭い。けれど、私はそれでも構わないと思っていた。
失うものがない今、私には選択肢が限られている。
侯爵家の屋敷に着くと、まず驚いたのはその“静寂”だった。
重厚な門をくぐり、広々とした庭園を抜けて正面玄関へ向かう。装飾は控えめながら、調度品ひとつひとつが上質で、緊張感のある空気が張りつめている。
そして、邸内もまた――整然としすぎていた。
無駄がなく、冷たくも感じられるほどに“整っている”。
出迎えたのは一人の老執事だった。
「ようこそ、レイナ様。侯爵閣下は書斎にてお待ちしております。こちらへどうぞ」
私は兄を待合室へ案内してもらい、ひとり書斎へと足を運ぶ。
扉を開けると、そこには昨日と同じ、変わらず無表情なアレクシスがいた。
「来てくれて感謝する。時間通りだな」
「ええ、時間厳守は貴族のたしなみですから」
そう言って席に着くと、彼は手元にあった契約書を差し出してきた。
見れば、すでに何度も目を通されたような跡がある。おそらく、昨夜遅くまで確認していたのだろう。
「確認してほしい。君が提示したすべての条件を反映している」
私は文書に目を通した。
・甘言の禁止
・寝室別、干渉不可
・契約は1年更新
・互いの自由尊重
……完璧だった。法律的にも抜け目なく、感情を差し挟む余地がない。
「申し分ありません。では、こちらに署名を――」
ペンを持った私の手が止まった。
契約書の末尾、備考欄に、手書きの一文が添えられていたのだ。
> 《備考》ただし、予期せぬ感情的変化が発生した場合は、契約の再協議を申し出ることができる。
「……これは?」
「君が拒めば削除する。ただ、これは僕自身に向けた保険のようなものだ」
アレクシスは机越しに私を見つめる。その眼差しは、言葉よりも雄弁だった。
「契約とはいえ、君と共に過ごす中で、僕が何を感じるかまでは……保証できないからな」
まっすぐな声。
そこには下心でも策略でもない、ただ“正直すぎる危うさ”があった。
私はそっと息をつき、ペンを走らせた。
「……了解しました。備考もそのままで構いません」
彼の表情は変わらなかったが、わずかに瞳の奥が揺れた気がした。
* * *
その後、使用人たちの案内で屋敷の見学が始まった。
どの部屋も清潔で、過不足なく整っている。まるで、軍の施設のように秩序だった空間。
だけど不思議と、そこには“孤独”の気配も漂っていた。
「……侯爵閣下は、普段ここでどのように?」
案内役の侍女に尋ねると、彼女は苦笑しながら答えた。
「閣下は非常に規則的なお方でして。食事も時間通り、毎朝書斎にこもり、夜には庭を一周されております」
「ご友人は?」
「……申し訳ありません、私の口からは」
察した。
この人はずっと、誰も心に入れず、誰にも触れられず生きてきたのだ。
だからこそ、昨日のような直球を、躊躇なく投げられたのだろう。
“僕は、君を囲いたい”
その言葉が、ふと胸の奥で響いた。
* * *
全ての確認が終わり、別れの時。
私は馬車に乗る直前、彼に問いかけた。
「アレクシス様。あなたにとって、結婚とは何ですの?」
彼は少しだけ考える素振りを見せたあと、静かに答えた。
「……手を伸ばしても、拒まれない関係」
その一言に、私は思わず言葉を失った。
それはまるで、孤独な子供が呟いたような、純粋で、寂しげな願いだったから。
「……それならば、私も契約以上の何かを、少しだけ信じてみても……いいかもしれませんわね」
ふと、彼の目が丸くなる。
驚いた? それとも、期待してしまった?
そんな反応が、少しだけ可愛らしく見えた。
馬車の扉が閉まり、走り出す。
私は窓の外、夕焼けの中に立つ彼の姿を見つめながら、小さく呟いた。
「――本当に、変わった人。だけど……悪くないかもしれないわね」
私は兄ロイに付き添われ、グランデ侯爵家の馬車に乗り込んだ。目的は、正式な婚姻契約書への署名と、婚約者としての挨拶――そして、屋敷の視察である。
「本当に行くのか?」
馬車の中で兄が何度目かの問いを投げてくる。
私は苦笑しながら頷いた。
「条件付き契約結婚。私が選べる“最も安全な結婚”の形よ。あの人が今後、本気で何か仕掛けてきたら、その時は考える」
「……本気で仕掛けてきそうだから心配してるんだが」
兄の予感は鋭い。けれど、私はそれでも構わないと思っていた。
失うものがない今、私には選択肢が限られている。
侯爵家の屋敷に着くと、まず驚いたのはその“静寂”だった。
重厚な門をくぐり、広々とした庭園を抜けて正面玄関へ向かう。装飾は控えめながら、調度品ひとつひとつが上質で、緊張感のある空気が張りつめている。
そして、邸内もまた――整然としすぎていた。
無駄がなく、冷たくも感じられるほどに“整っている”。
出迎えたのは一人の老執事だった。
「ようこそ、レイナ様。侯爵閣下は書斎にてお待ちしております。こちらへどうぞ」
私は兄を待合室へ案内してもらい、ひとり書斎へと足を運ぶ。
扉を開けると、そこには昨日と同じ、変わらず無表情なアレクシスがいた。
「来てくれて感謝する。時間通りだな」
「ええ、時間厳守は貴族のたしなみですから」
そう言って席に着くと、彼は手元にあった契約書を差し出してきた。
見れば、すでに何度も目を通されたような跡がある。おそらく、昨夜遅くまで確認していたのだろう。
「確認してほしい。君が提示したすべての条件を反映している」
私は文書に目を通した。
・甘言の禁止
・寝室別、干渉不可
・契約は1年更新
・互いの自由尊重
……完璧だった。法律的にも抜け目なく、感情を差し挟む余地がない。
「申し分ありません。では、こちらに署名を――」
ペンを持った私の手が止まった。
契約書の末尾、備考欄に、手書きの一文が添えられていたのだ。
> 《備考》ただし、予期せぬ感情的変化が発生した場合は、契約の再協議を申し出ることができる。
「……これは?」
「君が拒めば削除する。ただ、これは僕自身に向けた保険のようなものだ」
アレクシスは机越しに私を見つめる。その眼差しは、言葉よりも雄弁だった。
「契約とはいえ、君と共に過ごす中で、僕が何を感じるかまでは……保証できないからな」
まっすぐな声。
そこには下心でも策略でもない、ただ“正直すぎる危うさ”があった。
私はそっと息をつき、ペンを走らせた。
「……了解しました。備考もそのままで構いません」
彼の表情は変わらなかったが、わずかに瞳の奥が揺れた気がした。
* * *
その後、使用人たちの案内で屋敷の見学が始まった。
どの部屋も清潔で、過不足なく整っている。まるで、軍の施設のように秩序だった空間。
だけど不思議と、そこには“孤独”の気配も漂っていた。
「……侯爵閣下は、普段ここでどのように?」
案内役の侍女に尋ねると、彼女は苦笑しながら答えた。
「閣下は非常に規則的なお方でして。食事も時間通り、毎朝書斎にこもり、夜には庭を一周されております」
「ご友人は?」
「……申し訳ありません、私の口からは」
察した。
この人はずっと、誰も心に入れず、誰にも触れられず生きてきたのだ。
だからこそ、昨日のような直球を、躊躇なく投げられたのだろう。
“僕は、君を囲いたい”
その言葉が、ふと胸の奥で響いた。
* * *
全ての確認が終わり、別れの時。
私は馬車に乗る直前、彼に問いかけた。
「アレクシス様。あなたにとって、結婚とは何ですの?」
彼は少しだけ考える素振りを見せたあと、静かに答えた。
「……手を伸ばしても、拒まれない関係」
その一言に、私は思わず言葉を失った。
それはまるで、孤独な子供が呟いたような、純粋で、寂しげな願いだったから。
「……それならば、私も契約以上の何かを、少しだけ信じてみても……いいかもしれませんわね」
ふと、彼の目が丸くなる。
驚いた? それとも、期待してしまった?
そんな反応が、少しだけ可愛らしく見えた。
馬車の扉が閉まり、走り出す。
私は窓の外、夕焼けの中に立つ彼の姿を見つめながら、小さく呟いた。
「――本当に、変わった人。だけど……悪くないかもしれないわね」
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