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第一部「ブレナード反逆編」
第5話:新生活初日と、朝食での異変
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朝。鳥のさえずりと共に目を覚ました私は、穏やかな日差しが差し込む窓辺に視線をやった。
──そうだ。今日から私は、グランデ侯爵家の“夫人”として、ここで暮らしていくのだ。
形式だけの契約結婚。
恋愛感情も、甘い言葉も、必要ない。私はそう決めていた。
けれど。
「……おはよう、レイナ」
朝食の席に着いた私に、アレクシスが“当然のように”そう声をかけてきた時、私は思わずナイフとフォークを取り落としそうになった。
「……お、おはようございます。閣下」
「“おはよう”は契約上の挨拶だ。義務として言っている」
「ええ、承知しています。驚いたのは、あまりにも自然だったからでして」
言いながらも、昨日の夜のことを思い出す。
わざわざ私の部屋を訪れ、「おやすみ」を伝え、詩集を置いていった彼の姿が、胸の奥をやさしく揺らした。
――ずるい人。形式の中に、感情を忍ばせてくる。
執事が手際よくサーブしていく。
ふわふわのオムレツに焼きたてのパン、香り立つ紅茶。すべてが丁寧に整えられていて、見た目も美しい。
「レイナ、何か好みはあるか?」
「そうですね……トマトは少し苦手ですが、他は大抵いただけますわ」
「以後、献立から除外させよう」
「えっ」
「不要なものを排除するのは、生活の最適化につながる」
彼は真剣に言っている。しかも、本気で献立表を書き換えようとしているあたり、冗談ではないらしい。
「……“夫人だから特別扱い”というわけではないですわよね?」
「“契約相手”だから、だ」
そう返す彼の横顔に、私はまたしても言葉を失った。
* * *
食後、私は侍女と共に屋敷内のルールや動線を確認する時間をもらい、館内を歩いた。
使用人たちは皆、整然としていて礼儀正しく、私を“侯爵夫人”として迎える準備ができているようだった。
それでも、どこか空気が張り詰めている。
完璧すぎる秩序には、妙な“沈黙”が潜んでいた。
ふと、廊下の端で立ち止まる。
東棟と西棟を分ける小さな扉の前。そこは“閉ざされた空間”のように感じられた。
「……ここは?」
「西棟でございます。現在は使用されておりません」
「誰か、住んでいたのですか?」
侍女の手が、ほんの一瞬、止まった。
だがすぐに、柔らかな笑みが戻る。
「かつて、前侯爵ご夫妻が。……今は、空室でございます」
――その返答は正しい。けれど、何かを隠しているような、そんな違和感が残った。
* * *
その日の午後。応接間で書状を整理していると、兄ロイから手紙が届いた。
《変人だが、悪人ではない。だが気を抜くな。》
相変わらずぶっきらぼうな兄の文章に、思わず微笑んだ。
アレクシスは、変わり者だ。
だが、私に優しい。おそらく彼自身、どう優しくすればいいのか、まだ手探りなのだ。
だから、私はまだ信じない。
信じるには早すぎるし、傷つきたくもない。
ただ、それでも――
「……レイナ?」
部屋の扉をノックせずに開けた彼が、少しだけ焦ったように私を覗き込んできた。
「閣下、ノックは……」
「悪い。だが、君が戻ってこないから、体調でも崩したのではと」
その言葉に、胸の奥がじわりと温かくなる。
「……心配してくださったんですの?」
「“契約相手”が倒れると困る」
そう言ってそっぽを向いた彼の耳が、ほんの少し赤くなっている気がしたのは、気のせいだろうか。
* * *
夜。
寝室に戻ると、枕元に置かれた小箱に気づいた。
中には、小さな髪留めが一つ。淡いラベンダー色の石が、控えめに光っている。
「……また、ずるいことを」
タグも手紙もない。でも、誰からの贈り物かなんて、わかりきっていた。
心の距離は、まだ遠い。
でも、少しずつ近づいているのかもしれない。
“契約だから”と割り切ったはずの関係に、確かに何かが芽吹き始めている。
──そうだ。今日から私は、グランデ侯爵家の“夫人”として、ここで暮らしていくのだ。
形式だけの契約結婚。
恋愛感情も、甘い言葉も、必要ない。私はそう決めていた。
けれど。
「……おはよう、レイナ」
朝食の席に着いた私に、アレクシスが“当然のように”そう声をかけてきた時、私は思わずナイフとフォークを取り落としそうになった。
「……お、おはようございます。閣下」
「“おはよう”は契約上の挨拶だ。義務として言っている」
「ええ、承知しています。驚いたのは、あまりにも自然だったからでして」
言いながらも、昨日の夜のことを思い出す。
わざわざ私の部屋を訪れ、「おやすみ」を伝え、詩集を置いていった彼の姿が、胸の奥をやさしく揺らした。
――ずるい人。形式の中に、感情を忍ばせてくる。
執事が手際よくサーブしていく。
ふわふわのオムレツに焼きたてのパン、香り立つ紅茶。すべてが丁寧に整えられていて、見た目も美しい。
「レイナ、何か好みはあるか?」
「そうですね……トマトは少し苦手ですが、他は大抵いただけますわ」
「以後、献立から除外させよう」
「えっ」
「不要なものを排除するのは、生活の最適化につながる」
彼は真剣に言っている。しかも、本気で献立表を書き換えようとしているあたり、冗談ではないらしい。
「……“夫人だから特別扱い”というわけではないですわよね?」
「“契約相手”だから、だ」
そう返す彼の横顔に、私はまたしても言葉を失った。
* * *
食後、私は侍女と共に屋敷内のルールや動線を確認する時間をもらい、館内を歩いた。
使用人たちは皆、整然としていて礼儀正しく、私を“侯爵夫人”として迎える準備ができているようだった。
それでも、どこか空気が張り詰めている。
完璧すぎる秩序には、妙な“沈黙”が潜んでいた。
ふと、廊下の端で立ち止まる。
東棟と西棟を分ける小さな扉の前。そこは“閉ざされた空間”のように感じられた。
「……ここは?」
「西棟でございます。現在は使用されておりません」
「誰か、住んでいたのですか?」
侍女の手が、ほんの一瞬、止まった。
だがすぐに、柔らかな笑みが戻る。
「かつて、前侯爵ご夫妻が。……今は、空室でございます」
――その返答は正しい。けれど、何かを隠しているような、そんな違和感が残った。
* * *
その日の午後。応接間で書状を整理していると、兄ロイから手紙が届いた。
《変人だが、悪人ではない。だが気を抜くな。》
相変わらずぶっきらぼうな兄の文章に、思わず微笑んだ。
アレクシスは、変わり者だ。
だが、私に優しい。おそらく彼自身、どう優しくすればいいのか、まだ手探りなのだ。
だから、私はまだ信じない。
信じるには早すぎるし、傷つきたくもない。
ただ、それでも――
「……レイナ?」
部屋の扉をノックせずに開けた彼が、少しだけ焦ったように私を覗き込んできた。
「閣下、ノックは……」
「悪い。だが、君が戻ってこないから、体調でも崩したのではと」
その言葉に、胸の奥がじわりと温かくなる。
「……心配してくださったんですの?」
「“契約相手”が倒れると困る」
そう言ってそっぽを向いた彼の耳が、ほんの少し赤くなっている気がしたのは、気のせいだろうか。
* * *
夜。
寝室に戻ると、枕元に置かれた小箱に気づいた。
中には、小さな髪留めが一つ。淡いラベンダー色の石が、控えめに光っている。
「……また、ずるいことを」
タグも手紙もない。でも、誰からの贈り物かなんて、わかりきっていた。
心の距離は、まだ遠い。
でも、少しずつ近づいているのかもしれない。
“契約だから”と割り切ったはずの関係に、確かに何かが芽吹き始めている。
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