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第1章
10・白い結婚
しおりを挟む◇◇◇◇◇◇
「それじゃあ、一旦籍だけ入れてもらう形で。正式な挙式については、後日改めて話し合う、ということで良いかな?」
「……俺はそれで構わない」
父の問いかけにクラウス様は静かに答える。その声音からは、なんの感情も読み取れない。
(……後日、なんて。最初から私とクラウス様の式を挙げるつもりなんてないでしょう)
「それでは、我々は陛下へご報告に行ってくるよ。それに……他にも急ぎの用事があるものでな。クラウス殿、また」
「……レティノア。しっかり務めるのよ」
去り際、継母は鋭い視線をこちらへ投げつけた。
その瞳には強い圧力と、私への憎しみが込められているように思えた。
(やっと……、静かになった)
教会の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
さっきまでの喧騒が嘘のように空間は静まり返っている。
残されたのは――私と、クラウス様。
私はちらりとクラウス様を見上げた。
クラウス様は礼拝堂の中をゆっくりと見回している。その視線は、ここではないどこか遠くを見ているようだった。
(何を……考えているんだろう)
彼の表情はあまり変化しない。私には分かりそうもなかった。
少しの沈黙のあと、クラウス様は私へと視線を戻すと淡々と告げた。
「……しばらくの間、陛下のご指示でこの教会に住むことになった。わざわざ新居を用意してくれるらしい。それまでの措置だそうだ」
「えっ!?」
(クラウス様が、教会に住む……!?)
思いもよらなかったクラウス様の発言に、思わず一歩あとずさってしまった。
(いや、そりゃ籍だけとはいえ結婚するわけだし、同居の話が出ますよね!?)
理屈としては分かる。
だが、男の人と一緒に暮らすなど、男性経験のない私が身構えてしまうのは仕方のないことだろう。
「寝られればどこでもいい。空いているスペースはないだろうか」
当のクラウス様は、なんでもないことのように言葉を続ける。
緊張したこちらの方がバカみたいだ。
「…………使われていない部屋が一室あります。ご案内いたします」
私は礼拝堂の奥へ続く通路へと足を向けた。
クラウス様は無言で私の後ろをついてくる。
かつん、かつん、と靴音だけが石造りの壁に響いていた。
通路の先にあるのは、主に私が使用している簡素な生活の場だ。
小さなキッチンと、古びた木製のテーブル。壁には棚と水差しがある。質素ではあるが、私にとっては十分すぎる場所だった。
その奥には、私が使っている部屋と、今は使われていない居室が並んでいる。
私は居室の扉の前で足を止めると、クラウス様を振り返った。
「こちらです。もともと歴代の聖女の関係者が使っていた部屋の一つですが、今は空き部屋です」
言葉を継ぎながら、私は扉を開く。室内にはベッドが一台と、机と椅子。窓際には小さな棚が置かれ、窓から差し込む光が木の床を淡く照らしている。
掃除はしてあるが、この部屋が最後に使われていたのは、私が教会に住むよりかなり前だという話だ。
「隣が私の部屋ですので、何かあればお呼びください」
「わかった。では、その部屋を使わせてもらおう」
クラウス様は頷いた。
その仕草には、迷いも遠慮も感じられない。
「……では、私は礼拝堂のほうへ戻りますね」
恐らくクラウス様は、どこからか荷物を持ってきて、部屋の片付けを始めるだろう。
手伝いを申し出ることもできたが、あいにく私には聖女としての仕事がつまっていた。
踵を返そうとしたその瞬間、クラウス様は「ああそうだ」と思い出したように声をかけてきた。
「誤解のないように一つ言っておく」
「はい?」
呼び止められて振り返る。
クラウス様は扉の前に立ったまま、静かにこちらを見ていた。
冷たさを感じさせるその顔には、なんの感情も浮かんでいない。
「俺はあなたに触れるつもりはない」
「え……」
(なんなの、この人)
それは、仮にも妻となる女性に言うセリフだろうか。それも、悪びれもせずに堂々と。
琥珀色の瞳は、ただ強い光を宿していた。
(それは、遠回しに私のことを女として見れないって言ってるわけ……?)
「俺のことは気にせず、普段通りに、あなたの思うままに過ごしてくれ」
「……承知、しました」
短く礼だけをして、私はクラウス様に背を向ける。
廊下に響く足音が、気持ち、行きよりも早くなっているような気がした。
(なんなの、あの人! 意味がわからない)
怒りとも戸惑いとも判別のつかない感情が、私の胸の中を渦巻いている。
そして同時に、ほんの少しだけ、心が軽くなったような不思議な気分だった。
(……だけど、触れられない、踏み込まれないことに、安堵しているなんて)
私に対する拒絶の言葉であるはずなのに、私は傷つきながらも、救われたように感じたのだ。
(これは、きっと白い結婚なんだわ)
以前、聖女の代わりとして王都から少し外れた町を訪問した際、町娘たちがきゃっきゃと声を弾ませながら教えてくれた話を思い出す。
最近、王都では恋愛小説が流行っているのだと。
彼女たちが教えてくれた話の中には、白い結婚を題材にしたものもあった。
白い結婚――心も体も交わらない、形だけの婚姻。そう思えば、気持ちが少し軽くなる。
父の口ぶりから察するに、そもそもこれは王命に近い政略的な婚姻のはずだ。
きっとクラウス様は、私に対してなんの感情もないのだろう。
だから、先のような発言をしたに違いない。
(クラウス様の言う通り、私は私で今まで通りに過ごせばいい。どうせこの関係は、ミレシアが戻ってくるまでのものなのだから)
通路を抜け礼拝堂に戻ると、そこは先ほどと変わらず静かだった。
祭壇に灯したままだったキャンドルの明かりだけが、静寂に溶け込むようにして揺れていた。
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