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第29話 元上司のモーニングルーティンは、茹でゴブリンの解体から始まる
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午前5時。
まだ暗い農具小屋を、激しいノックが叩き起こした。
「時間だよ! 起きな!」
タエさんの声だ。
扉が蹴破られる寸前の勢いで、黒田敬一は跳ね起きた。
「あと5分だけ。頼む、あと5分」
「甘えるんじゃないよ、あんた。働かない子には、ご飯はあげないからね」
冷たい板張りの床が、素足に突き刺さる。
ネットカフェのブースより狭い農具小屋。
カビ臭い布団と、最低限の生活用品。
これが元課長の寝床だった。
「ほら、着替えな。5分後にラジオ体操」
「ラジオ体操?」
「夜明け前の準備運動だよ。体がなまってる奴に解体作業は務まらない」
タエさんは老婆の姿をしていた。
しかし、目だけが違う。
あの目は人間じゃない。
黒田の背筋が、本能的に凍りついた。
5分後。
庭に引きずり出された黒田は、震えながらラジオ体操を始めた。
12月の寒空。息が白い。
「遅い! もっと腕を伸ばしな!」
タエさんの号令が容赦なく響く。
体操の動きがおかしい。
普通の3倍速だ。
「ついてこられないのかい? 情けないねえ」
「無理だ。人間にはこんな速度で」
「言い訳はいらないよ。動けないなら、動けるまでやるだけさ」
30分後。
黒田は芝生の上で大の字になっていた。
肺が焼ける。腕が上がらない。
「さあ、体が温まったところで本業だ。ついてきな」
温まってなどいない。
凍えている。
しかし逆らう気力はもうなかった。
◆
タエさんに連れられて、土蔵の横を通り過ぎる。
地下への階段を降りると、むせ返るような熱気が押し寄せた。
「これが第1階層の入り口さ。熱湯トラップの出口でもある」
湯気の向こうに、異様な光景が広がっていた。
緑色の小柄な生き物。
茹で上がって赤黒く変色した死体が、3体転がっている。
「こ、これは」
「ゴブリンだよ。知らないのかい?」
黒田の胃が持ち上がった。
その場にしゃがみ込み、朝食など食べていないのに、胃液だけを吐いた。
「情けないねえ。初日から吐くとは」
「無理だ。こんなの無理だ」
「無理かどうかは、あんたが決めることじゃないよ」
タエさんが解体用のナイフを差し出した。
「魔石は腹の中。皮と肉は分けて回収。骨は廃棄。昼飯までに3体終わらせな」
黒田の手が震えている。
かつて部下を怒鳴り散らしていた手だ。
パワハラで何人も追い詰めた手だ。
「なんで俺が。課長だったのに」
「過去の肩書なんざ、ここじゃ何の役にも立たないよ」
ナイフを握らされる。
刃先がゴブリンの腹に触れた瞬間、生臭さが鼻を突いた。
「ひっ」
「声を出すな。集中しな」
その時、背後に冷気が降りた。
振り返ると、白い着物の女が立っていた。
雪のように白い肌。感情のない瞳。
「くさい」
ユキだった。
鼻をつまんで、黒田を見下ろしている。
「あの人、くさい。……くさい」
「ユキ、今は作業中だよ」
「わかった。でも、くさい。悪意の、におい」
ユキはそれだけ言うと、すぐに去っていった。
彼女が通り過ぎた場所だけ、空気が凍っている。
「さあ、続けな。手が止まってるよ」
黒田はナイフを握り直した。
視界が滲む。
鼻水が垂れる。
それでも、手を動かすしかなかった。
◆
午前8時。
俺は縁側で目を覚ました。
障子から差し込む朝日。
炬燵の温もり。
そしてミレイが運んでくる朝食の匂い。
「おはようございます、カイトさん」
「ああ、おはよう」
焼き魚に味噌汁。ご飯に漬物。
昨日の残りを活用した、効率的な和朝食だ。
「今日も平和だな」
「はい。……平和です」
遠くから、微かに悲鳴のような声が聞こえた。
黒田だろう。
「あれは」
「タエさんの研修ですね」
ミレイの声は平坦だった。
しかし、箸を持つ指先がわずかに力んでいる。
かつて「化け物」と罵られた記憶。
それを忘れるほど、彼女は鈍感ではない。
「順調、ですか?」
「さあな。俺は見てない」
「そうですか」
ミレイは味噌汁をよそいながら、小さく息を吐いた。
「あの人が苦しんでいるのを見ても、嬉しいとは思いません」
嘘だ、とは言わなかった。
「ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、安心しました」
それ以上は聞かなかった。
ミレイにはミレイの整理がある。
俺が口を挟むことじゃない。
朝食を終え、お茶を啜っていると、スマホが鳴った。
桐生からだ。
「よう、朝から悪いな」
「何かあったか」
「タレコミの件は止まった。お前んとこの新入社員のおかげでな」
新入社員。
皮肉な言い方だが、間違ってはいない。
「だが、安心するのは早い。上層部が監査チームを編成したらしい」
「監査?」
「正規の手続きで調査に入るってことだ。近いうちにそっちに来るぞ」
電話越しに、桐生のため息が聞こえた。
「俺の顔だけじゃ止められない。正式な調査令状が出たら、協力せざるを得なくなる」
「了解した。情報ありがとう」
「やりすぎるなよ」
電話を切った。
ミレイが心配そうな顔で俺を見ている。
「どうしますか?」
「正規の手続きで来るなら、こちらも正規で対応する」
俺は庭を眺めた。
敷地は広い。設備も整ってきた。収益も安定している。
だが、法的にはただの「個人の古民家」だ。
「この場所を会社として登記する」
「会社、ですか」
「法人なら、正当な事業として主張できる。帳簿と契約書があれば、監査が来ても問題ない」
ミレイの背筋が、すっと伸びた。
「では私は、正式な社員に」
「そうなるな。給与明細も出る」
マスクの下で、ミレイの口元がほころんだ。
見えないが、わかる。
「光栄です」
遠くで、また悲鳴が聞こえた。
黒田はまだ、1体目と格闘しているらしい。
◆
その日の夕方。
農具小屋から這い出てきた黒田は、泥と血と涙で顔がぐちゃぐちゃだった。
「終わった。やっと終わった」
「お疲れさん。明日は今日より早く終わらせな」
タエさんが去っていく。
黒田は小屋の前にへたり込んだ。
その時、壁の隙間から声がした。
「……嘘つき」
スキマだ。
どこからともなく囁く声。
「……ぜんぶ……かえってきた……」
黒田が振り向いても、誰もいない。
「……逃げても……むだ……」
声だけが、頭の中に染み込んでくる。
「……ずっと……みてる……」
黒田は両手で耳を塞いだ。
しかし、声は消えない。
隙間がある限り、どこにでも入り込む。
明日も、5時起きだ。
◆
俺は縁側から、その様子を眺めていた。
「可哀想、とは思わないんですか?」
ミレイが隣に立っている。
「あいつは自分で選んだ」
それだけ答えた。
かつて俺に言い放った言葉。
「自己責任」「お前の代わりはいくらでもいる」。
今、そのまま返ってきている。
「適材適所だ。あいつが働けば、うちは回る」
ミレイが小さく笑った。
「カイトさんらしいですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
夕日が山の向こうに沈んでいく。
やることは山ほどある。
法人化の準備。監査対策。新商品の開発。
だが、焦る必要はない。
働くのは従業員たちだ。
俺は、炬燵で寝て過ごすだけでいい。
続く
まだ暗い農具小屋を、激しいノックが叩き起こした。
「時間だよ! 起きな!」
タエさんの声だ。
扉が蹴破られる寸前の勢いで、黒田敬一は跳ね起きた。
「あと5分だけ。頼む、あと5分」
「甘えるんじゃないよ、あんた。働かない子には、ご飯はあげないからね」
冷たい板張りの床が、素足に突き刺さる。
ネットカフェのブースより狭い農具小屋。
カビ臭い布団と、最低限の生活用品。
これが元課長の寝床だった。
「ほら、着替えな。5分後にラジオ体操」
「ラジオ体操?」
「夜明け前の準備運動だよ。体がなまってる奴に解体作業は務まらない」
タエさんは老婆の姿をしていた。
しかし、目だけが違う。
あの目は人間じゃない。
黒田の背筋が、本能的に凍りついた。
5分後。
庭に引きずり出された黒田は、震えながらラジオ体操を始めた。
12月の寒空。息が白い。
「遅い! もっと腕を伸ばしな!」
タエさんの号令が容赦なく響く。
体操の動きがおかしい。
普通の3倍速だ。
「ついてこられないのかい? 情けないねえ」
「無理だ。人間にはこんな速度で」
「言い訳はいらないよ。動けないなら、動けるまでやるだけさ」
30分後。
黒田は芝生の上で大の字になっていた。
肺が焼ける。腕が上がらない。
「さあ、体が温まったところで本業だ。ついてきな」
温まってなどいない。
凍えている。
しかし逆らう気力はもうなかった。
◆
タエさんに連れられて、土蔵の横を通り過ぎる。
地下への階段を降りると、むせ返るような熱気が押し寄せた。
「これが第1階層の入り口さ。熱湯トラップの出口でもある」
湯気の向こうに、異様な光景が広がっていた。
緑色の小柄な生き物。
茹で上がって赤黒く変色した死体が、3体転がっている。
「こ、これは」
「ゴブリンだよ。知らないのかい?」
黒田の胃が持ち上がった。
その場にしゃがみ込み、朝食など食べていないのに、胃液だけを吐いた。
「情けないねえ。初日から吐くとは」
「無理だ。こんなの無理だ」
「無理かどうかは、あんたが決めることじゃないよ」
タエさんが解体用のナイフを差し出した。
「魔石は腹の中。皮と肉は分けて回収。骨は廃棄。昼飯までに3体終わらせな」
黒田の手が震えている。
かつて部下を怒鳴り散らしていた手だ。
パワハラで何人も追い詰めた手だ。
「なんで俺が。課長だったのに」
「過去の肩書なんざ、ここじゃ何の役にも立たないよ」
ナイフを握らされる。
刃先がゴブリンの腹に触れた瞬間、生臭さが鼻を突いた。
「ひっ」
「声を出すな。集中しな」
その時、背後に冷気が降りた。
振り返ると、白い着物の女が立っていた。
雪のように白い肌。感情のない瞳。
「くさい」
ユキだった。
鼻をつまんで、黒田を見下ろしている。
「あの人、くさい。……くさい」
「ユキ、今は作業中だよ」
「わかった。でも、くさい。悪意の、におい」
ユキはそれだけ言うと、すぐに去っていった。
彼女が通り過ぎた場所だけ、空気が凍っている。
「さあ、続けな。手が止まってるよ」
黒田はナイフを握り直した。
視界が滲む。
鼻水が垂れる。
それでも、手を動かすしかなかった。
◆
午前8時。
俺は縁側で目を覚ました。
障子から差し込む朝日。
炬燵の温もり。
そしてミレイが運んでくる朝食の匂い。
「おはようございます、カイトさん」
「ああ、おはよう」
焼き魚に味噌汁。ご飯に漬物。
昨日の残りを活用した、効率的な和朝食だ。
「今日も平和だな」
「はい。……平和です」
遠くから、微かに悲鳴のような声が聞こえた。
黒田だろう。
「あれは」
「タエさんの研修ですね」
ミレイの声は平坦だった。
しかし、箸を持つ指先がわずかに力んでいる。
かつて「化け物」と罵られた記憶。
それを忘れるほど、彼女は鈍感ではない。
「順調、ですか?」
「さあな。俺は見てない」
「そうですか」
ミレイは味噌汁をよそいながら、小さく息を吐いた。
「あの人が苦しんでいるのを見ても、嬉しいとは思いません」
嘘だ、とは言わなかった。
「ただ、少しだけ。ほんの少しだけ、安心しました」
それ以上は聞かなかった。
ミレイにはミレイの整理がある。
俺が口を挟むことじゃない。
朝食を終え、お茶を啜っていると、スマホが鳴った。
桐生からだ。
「よう、朝から悪いな」
「何かあったか」
「タレコミの件は止まった。お前んとこの新入社員のおかげでな」
新入社員。
皮肉な言い方だが、間違ってはいない。
「だが、安心するのは早い。上層部が監査チームを編成したらしい」
「監査?」
「正規の手続きで調査に入るってことだ。近いうちにそっちに来るぞ」
電話越しに、桐生のため息が聞こえた。
「俺の顔だけじゃ止められない。正式な調査令状が出たら、協力せざるを得なくなる」
「了解した。情報ありがとう」
「やりすぎるなよ」
電話を切った。
ミレイが心配そうな顔で俺を見ている。
「どうしますか?」
「正規の手続きで来るなら、こちらも正規で対応する」
俺は庭を眺めた。
敷地は広い。設備も整ってきた。収益も安定している。
だが、法的にはただの「個人の古民家」だ。
「この場所を会社として登記する」
「会社、ですか」
「法人なら、正当な事業として主張できる。帳簿と契約書があれば、監査が来ても問題ない」
ミレイの背筋が、すっと伸びた。
「では私は、正式な社員に」
「そうなるな。給与明細も出る」
マスクの下で、ミレイの口元がほころんだ。
見えないが、わかる。
「光栄です」
遠くで、また悲鳴が聞こえた。
黒田はまだ、1体目と格闘しているらしい。
◆
その日の夕方。
農具小屋から這い出てきた黒田は、泥と血と涙で顔がぐちゃぐちゃだった。
「終わった。やっと終わった」
「お疲れさん。明日は今日より早く終わらせな」
タエさんが去っていく。
黒田は小屋の前にへたり込んだ。
その時、壁の隙間から声がした。
「……嘘つき」
スキマだ。
どこからともなく囁く声。
「……ぜんぶ……かえってきた……」
黒田が振り向いても、誰もいない。
「……逃げても……むだ……」
声だけが、頭の中に染み込んでくる。
「……ずっと……みてる……」
黒田は両手で耳を塞いだ。
しかし、声は消えない。
隙間がある限り、どこにでも入り込む。
明日も、5時起きだ。
◆
俺は縁側から、その様子を眺めていた。
「可哀想、とは思わないんですか?」
ミレイが隣に立っている。
「あいつは自分で選んだ」
それだけ答えた。
かつて俺に言い放った言葉。
「自己責任」「お前の代わりはいくらでもいる」。
今、そのまま返ってきている。
「適材適所だ。あいつが働けば、うちは回る」
ミレイが小さく笑った。
「カイトさんらしいですね」
「褒め言葉として受け取っておく」
夕日が山の向こうに沈んでいく。
やることは山ほどある。
法人化の準備。監査対策。新商品の開発。
だが、焦る必要はない。
働くのは従業員たちだ。
俺は、炬燵で寝て過ごすだけでいい。
続く
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