出来損ないΩと虐げられ追放された僕が、魂香を操る薬師として呪われ騎士団長様を癒し、溺愛されるまで

水凪しおん

文字の大きさ
3 / 16

第2話「魂香の覚醒」

しおりを挟む
 王都の喧騒は、エリオットが想像していた以上だった。
 馬車の走る音、人々の話し声、市場の活気。静かな子爵家の屋敷で育った彼にとって、すべてが目まぐるしい情報の洪水だ。
 屋敷を飛び出して三日。アンナにもらった金貨を少しずつ切り崩し、エリオットは安宿に身を潜めていた。今日は彼の十八歳の誕生日。そして、本来であれば「洗礼の儀」を受ける日だった。

『儀式を受けなければ、僕の性は確定しない。ずっと、βのままだ』

 それでいい、とエリオットは思っていた。
 αにもΩにもなりたくない。ただ誰にも知られず、ひっそりと生きていきたい。それが彼のささやかな願いだった。

 しかし、運命はそれを許さなかった。
 このエルミール王国では、洗礼の儀を受けない十八歳以上の者は、不審者として衛兵に拘束される決まりになっている。儀式は、国民としての義務なのだ。

「どうしよう……」

 宿の窓から通りを眺め、エリオットは途方に暮れる。街のあちこちで、自分と同じ年頃の若者たちが、親に連れられて王都の大聖堂へと向かう姿が見えた。彼らの顔は、自らの性が確定する瞬間を前に、期待と不安に満ちている。

 このまま隠れ続けても、いずれは見つかってしまうだろう。
 覚悟を決めるしかなかった。

 エリオットは、みすぼらしい旅装のフードを目深にかぶり、人混みに紛れて大聖堂へと向かった。幸い、儀式への参加は家名ではなく個人名で受け付けられた。グレイフィールド家の者だと気づかれる心配は、おそらくない。

 荘厳な大聖堂の内部は、大勢の人々で埋め尽くされていた。
 中央には、透き通るような水をたたえた「聖なる泉」が鎮座している。あの泉の水に身を浸すことで、魂の奥底に眠る第二の性が目覚め、魂香としてその姿を現すのだ。

「次、エリオット」

 神官の厳かな声に呼ばれ、エリオットはびくりと肩を震わせた。
 周囲の視線が自分に集まるのを感じる。みすぼらしい格好で、たった一人で儀式に臨むエリオットの姿は、ひどく場違いに見えただろう。

 緊張にこわばる足で、泉へと進む。
 冷たい水が、ゆっくりと体を包み込んでいく。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

『どうか、平凡なβでありますように』

 目を閉じ、強く、強く祈った。
 その瞬間だった。

 体の芯から、何かが弾けるような感覚。
 熱い奔流が全身を駆け巡る。今まで感じたことのない強烈な力が、内側から溢れ出してくる。

「こ、これは……!」

 周囲から驚きの声が上がった。
 神官が、息をのんで泉を指さす。

 エリオットが浸かっている泉の水が、淡い虹色の光を放ち始めていた。そして彼の体から、見たこともないほど清らかで濃密な香りが立ち上り、聖堂中に満ちていく。
 それは、まるで夜明けの森の香りだった。
 雨上がりの土の匂い、濡れた若葉の息吹、そして月の光を浴びて咲くという幻の花「月下美人」にも似た、甘く、それでいて凛とした気高い香り。

 その場にいた誰もが、その魂香に魅了され、我を忘れて立ち尽くしていた。
 特にαの者たちは、抗いがたい本能的な衝動に、めまいすら覚えている。

「なんという……なんという魂香だ……」

「これほどのΩ、見たことも聞いたこともない……」

 Ω。
 その言葉に、エリオットは愕然とした。

『僕が? 僕が、Ω……?』

 信じられなかった。
 虐げられ、蔑まれ、存在価値すらないと言われ続けた自分が。子を成す性であり、αに庇護されるべき存在とされる、Ωだというのか。
 だが、体から溢れ出るこの甘い香りが、その事実を何よりも雄弁に物語っていた。
 聖堂は、かつてないほどの騒然とした空気に包まれる。誰もが、稀代のΩの誕生に色めき立っていた。

 その混乱の中、エリオットは人々の輪から抜け出し、聖堂の裏口から必死に逃げ出した。
 頭が真っ白だった。
 Ωとして覚醒してしまった。その事実は、エリオットにとって絶望以外の何物でもない。
 Ωは、その希少性と特異な体質から、常にαの所有欲の対象となる。特に、エリオットのように強力な魂香を持つΩは、有力な貴族たちの間で政略の道具として奪い合いになるだろう。
 父が言っていた『慰み者』という言葉が、現実味を帯びて蘇る。

『逃げなきゃ。もっと、遠くへ』

 人通りの少ない裏路地を、息を切らして走る。
 しかし覚醒したばかりの体は、慣れない魂香の奔流にうまく適応できずにいた。体が熱く、足元がおぼつかない。
 甘い香りが、自分の意思とは関係なく周囲に振りまかれていく。

 まずい、と思った時にはもう遅かった。
 曲がり角の先で、ごろつき風の男たちに囲まれてしまった。全員が、粗野な魂香を放つαだった。

「よう、坊主。すげえいい匂いをさせてるじゃねえか」

「こんな極上のΩが、一人でうろついてるなんてな」

 下卑た笑みを浮かべ、男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
 彼らの瞳は、欲望の色に濁っていた。

「や、やめてください……!」

 エリオットは後ずさるが、背中が冷たい壁にぶつかる。もう逃げ場はない。
 恐怖で声も出なかった。一人の男の汚い手が、彼の肩を掴もうと伸びてくる。

『誰か、助けて……!』

 心の中で叫んだ、その時。

「――そこまでだ」

 低く、しかし芯の通った声が路地に響き渡った。
 その声がした瞬間、ごろつきたちの動きがぴたりと止まる。まるで蛇に睨まれた蛙のように。

 声の主は、路地の入り口に立っていた。
 夕陽を背にしているため、その表情はよく見えない。ただ、そこにいるだけで空気が凍てつくような、圧倒的な存在感を放っている。
 彼が纏う魂香は、まるで研ぎ澄まされた鋼。鋭く、気高く、他の追随を許さない、絶対的な強者の香りだった。

「貴様ら、その方に何をするつもりだ」

 男はゆっくりと、エリオットたちのほうへ歩み寄ってくる。
 一歩、また一歩と近づくにつれて、その威圧的な魂香は密度を増していく。ごろつきたちの顔からは、みるみる血の気が引いていった。

「ひっ……! あ、あれは……『氷の騎士』……き、騎士団長閣下……!」

「な、なぜこのような場所に……!」

 騎士団長。その言葉に、エリオットは息をのんだ。
 まさか。この人が、あの「氷の騎士」カイゼル・フォン・アードラー。

 夕陽の光が、彼の横顔を照らし出す。
 彫刻のように整った顔立ち。冷徹さを感じさせる蒼氷の瞳。そして、その瞳の奥に宿る、底知れないほどの孤独の影。
 噂に聞く姿、そのものだった。

 カイゼルは、ごろつきたちを一瞥もせず、ただ真っ直ぐにエリオットだけを見つめていた。

「失せろ。二度と私の前に姿を現すな」

 その静かな命令に、ごろつきたちは悲鳴のような声を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 後に残されたのは、エリオットとカイゼル、そして気まずい沈黙だけだった。

「……大丈夫か」

 カイゼルが、ゆっくりと口を開いた。
 エリオットは、あまりの出来事に声も出せず、ただこくこくとうなずくことしかできない。

 カイゼルは、エリオットの数歩手前で足を止めると、わずかに眉をひそめた。

「……ひどい顔だ。どこか、怪我でも?」

「い、いえ……大丈夫、です」

 かろうじて言葉を絞り出す。
 目の前にいるのは、実家を破滅の淵に追いやった元凶であり、自分が『慰み者』として差し出されるはずだった相手。
 恐怖と混乱で、頭がうまく働かなかった。

 カイゼルは、そんなエリオットの様子を静かに観察しているようだった。彼の蒼氷の瞳が、何かを探るようにエリオットの魂香の源を見つめている。

「君、名前は」

「……エリオット、です」

「そうか。エリオット」

 カイゼルは何かを言いかけたが、やがて小さく首を振った。

「もうすぐ日が暮れる。Ωが一人で出歩くのは危険だ。……早く、家に帰りなさい」

 それだけを言うと、彼はエリオットに背を向け、何もなかったかのように去って行った。
 残されたエリオットは、その場にへたり込んだまま、しばらく動けなかった。

 彼の魂香が消えた路地には、また元の薄暗い静寂が戻っていた。
 しかしエリオットの鼻腔の奥には、先ほどの鋼のような、それでいてどこか切ないカイゼルの魂香が、まだ鮮明に残っている気がした。

『家に帰れ、か……』

 自嘲の笑みが、唇に浮かぶ。
 自分にはもう、帰る家などないというのに。

 それでも、エリオットはゆっくりと立ち上がった。
 カイゼルに助けられたことで、ほんの少しだけ冷静さを取り戻していた。

『そうだ。僕にはもう、帰る場所はない。だから、自分で作るんだ』

 祖母の言葉が、再び心に蘇る。

『あなたの優しさは、いつか誰かを救う力になるのよ』

 自分に出来ることは、なんだろう。
 このΩの体と、人を惹きつけてしまう魂香は、もしかしたら呪いなのかもしれない。
 けれど、祖母が遺してくれた薬草学の知識がある。そして今、目覚めたこの鋭敏な嗅覚は、様々な魂香やハーブの香りを、以前よりもずっと繊細に感じ取ることができた。

 もしかしたら、この力は。
 誰かを傷つけるためではなく、誰かを癒すために使えるのではないだろうか。

 王都の喧騒が、遠くに聞こえる。
 エリオットは、まだ見ぬ自分の未来へと、震える足で一歩を踏み出した。
 それは絶望の淵から見つけた、小さな、小さな希望の光だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ざまぁされたチョロ可愛い王子様は、俺が貰ってあげますね

ヒラヲ
BL
「オーレリア・キャクストン侯爵令嬢! この時をもって、そなたとの婚約を破棄する!」 オーレリアに嫌がらせを受けたというエイミーの言葉を真に受けた僕は、王立学園の卒業パーティーで婚約破棄を突き付ける。 しかし、突如現れた隣国の第一王子がオーレリアに婚約を申し込み、嫌がらせはエイミーの自作自演であることが発覚する。 その結果、僕は冤罪による断罪劇の責任を取らされることになってしまった。 「どうして僕がこんな目に遭わなければならないんだ!?」 卒業パーティーから一ヶ月後、王位継承権を剥奪された僕は王都を追放され、オールディス辺境伯領へと送られる。 見習い騎士として一からやり直すことになった僕に、指導係の辺境伯子息アイザックがやたら絡んでくるようになって……? 追放先の辺境伯子息×ざまぁされたナルシスト王子様 悪役令嬢を断罪しようとしてざまぁされた王子の、その後を書いたBL作品です。

追放された無能錬金術師ですが、感情ポーションで氷の騎士様に拾われ、執着されています

水凪しおん
BL
宮廷錬金術師のエリアスは、「無能」の烙印を押され、王都から追放される。全てを失い絶望する彼が辺境の村で偶然作り出したのは、人の"感情"に作用する奇跡のポーションだった。 その噂は、呪いで感情を失い「氷の騎士」と畏れられる美貌の騎士団長ヴィクターの耳にも届く。藁にもすがる思いでエリアスを訪れたヴィクターは、ポーションがもたらす初めての"温もり"に、その作り手であるエリアス自身へ次第に強く執着していく。 「お前は、俺だけの錬金術師になれ」 過剰な護衛、暴走する独占欲、そして隠された呪いの真相。やがて王都の卑劣な陰謀が、穏やかな二人の関係を引き裂こうとする。 これは、追放された心優しき錬金術師が、孤独な騎士の凍てついた心を溶かし、世界で一番の幸福を錬成するまでの愛の物語。

黒豚神子の異世界溺愛ライフ

零壱
BL
───マンホールに落ちたら、黒豚になりました。 女神様のやらかしで黒豚神子として異世界に転移したリル(♂)は、平和な場所で美貌の婚約者(♂)にやたらめったら溺愛されつつ、異世界をのほほんと満喫中。 女神とか神子とか、色々考えるのめんどくさい。 ところでこの婚約者、豚が好きなの?どうかしてるね?という、せっかくの異世界転移を台無しにしたり、ちょっと我に返ってみたり。 主人公、基本ポジティブです。 黒豚が攻めです。 黒豚が、攻めです。 ラブコメ。ほのぼの。ちょびっとシリアス。 全三話予定。→全四話になりました。

災厄の魔導士と呼ばれた男は、転生後静かに暮らしたいので失業勇者を紐にしている場合ではない!

椿谷あずる
BL
かつて“災厄の魔導士”と呼ばれ恐れられたゼルファス・クロードは、転生後、平穏に暮らすことだけを望んでいた。 ある日、夜の森で倒れている銀髪の勇者、リアン・アルディナを見つける。かつて自分にとどめを刺した相手だが、今は仲間から見限られ孤独だった。 平穏を乱されたくないゼルファスだったが、森に現れた魔物の襲撃により、仕方なく勇者を連れ帰ることに。 天然でのんびりした勇者と、達観し皮肉屋の魔導士。 「……いや、回復したら帰れよ」「えーっ」 平穏には程遠い、なんかゆるっとした日常のおはなし。

婚約破棄された公爵令嬢アンジェはスキルひきこもりで、ざまあする!BLミッションをクリアするまで出られない空間で王子と側近のBL生活が始まる!

山田 バルス
BL
婚約破棄とスキル「ひきこもり」―二人だけの世界・BLバージョン!?  春の陽光の中、ベル=ナドッテ魔術学院の卒業式は華やかに幕を開けた。だが祝福の拍手を突き破るように、第二王子アーノルド=トロンハイムの声が講堂に響く。 「アンジェ=オスロベルゲン公爵令嬢。お前との婚約を破棄する!」  ざわめく生徒たち。銀髪の令嬢アンジェが静かに問い返す。 「理由を、うかがっても?」 「お前のスキルが“ひきこもり”だからだ! 怠け者の能力など王妃にはふさわしくない!」  隣で男爵令嬢アルタが嬉しげに王子の腕に絡みつき、挑発するように笑った。 「ひきこもりなんて、みっともないスキルですわね」  その一言に、アンジェの瞳が凛と光る。 「“ひきこもり”は、かつて帝国を滅ぼした力。あなたが望むなら……体験していただきましょう」  彼女が手を掲げた瞬間、白光が弾け――王子と宰相家の青年モルデ=リレハンメルの姿が消えた。 ◇ ◇ ◇  目を開けた二人の前に広がっていたのは、真っ白な円形の部屋。ベッドが一つ、机が二つ。壁のモニターには、奇妙な文字が浮かんでいた。 『スキル《ひきこもり》へようこそ。二人だけの世界――BLバージョン♡』 「……は?」「……え?」  凍りつく二人。ドアはどこにも通じず、完全な密室。やがてモニターが再び光る。 『第一ミッション:以下のセリフを言ってキスをしてください。  アーノルド「モルデ、お前を愛している」  モルデ「ボクもお慕いしています」』 「き、キス!?」「アンジェ、正気か!?」  空腹を感じ始めた二人に、さらに追い打ち。 『成功すれば豪華ディナーをプレゼント♡』  ステーキとワインの映像に喉を鳴らし、ついに王子が観念する。 「……モルデ、お前を……愛している」 「……ボクも、アーノルド王子をお慕いしています」  顔を寄せた瞬間――ピコンッ! 『ミッション達成♡ おめでとうございます!』  テーブルに豪華な料理が現れるが、二人は真っ赤になったまま沈黙。 「……なんか負けた気がする」「……同感です」  モニターの隅では、紅茶を片手に微笑むアンジェの姿が。 『スキル《ひきこもり》――強制的に二人きりの世界を生成。解除条件は全ミッション制覇♡』  王子は頭を抱えて叫ぶ。 「アンジェぇぇぇぇぇっ!!」  天井スピーカーから甘い声が響いた。 『次のミッション、準備中です♡』  こうして、トロンハイム王国史上もっとも恥ずかしい“ひきこもり事件”が幕を開けた――。

伯爵令息アルロの魔法学園生活

あさざきゆずき
BL
ハーフエルフのアルロは、人間とエルフの両方から嫌われている。だから、アルロは魔法学園へ入学しても孤独だった。そんなとき、口は悪いけれど妙に優しい優等生が現れた。

この俺が正ヒロインとして殿方に求愛されるわけがない!

ゆずまめ鯉
BL
五歳の頃の授業中、頭に衝撃を受けたことから、自分が、前世の妹が遊んでいた乙女ゲームの世界にいることに気づいてしまったニエル・ガルフィオン。 ニエルの外見はどこからどう見ても金髪碧眼の美少年。しかもヒロインとはくっつかないモブキャラだったので、伯爵家次男として悠々自適に暮らそうとしていた。 これなら異性にもモテると信じて疑わなかった。 ところが、正ヒロインであるイリーナと結ばれるはずのチート級メインキャラであるユージン・アイアンズが熱心に構うのは、モブで攻略対象外のニエルで……!? ユージン・アイアンズ(19)×ニエル・ガルフィオン(19) 公爵家嫡男と伯爵家次男の同い年BLです。

不遇の第七王子は愛され不慣れで困惑気味です

新川はじめ
BL
 国王とシスターの間に生まれたフィル・ディーンテ。五歳で母を亡くし第七王子として王宮へ迎え入れられたのだが、そこは針の筵だった。唯一優しくしてくれたのは王太子である兄セガールとその友人オーティスで、二人の存在が幼いフィルにとって心の支えだった。  フィルが十八歳になった頃、王宮内で生霊事件が発生。セガールの寝所に夜な夜な現れる生霊を退治するため、彼と容姿のよく似たフィルが囮になることに。指揮を取るのは大魔法師になったオーティスで「生霊が現れたら直ちに捉えます」と言ってたはずなのに何やら様子がおかしい。  生霊はベッドに潜り込んでお触りを始めるし。想い人のオーティスはなぜか黙ってガン見してるし。どうしちゃったの、話が違うじゃん!頼むからしっかりしてくれよぉー!

処理中です...