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第2話「偽りの夫婦と温かい外套」
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帝国での生活は、静かな牢獄のようだった。
ユアンに与えられた部屋は、王族の居室として何一つ不自由のない、豪奢で広々とした空間だった。上質な衣服、宝石、美食。物質的には何一つ満たされていた。しかし、彼の心を満たすものは、そこには何一つとして存在しなかった。
侍女たちは皆、ユアンを「将軍閣下の番様」として丁重に扱ったが、その態度はどこかよそよそしく、心を許して話せる相手は一人もいなかった。彼女たちの目に映る自分は、将軍の所有物であり、小国から来た異分子でしかないのだと、ユアンは痛いほど感じていた。
夫であるはずのクロヴィスとは、日に一度、食事の席で顔を合わせるだけだった。広大な食卓の両端に座り、交わす言葉はほとんどない。彼は食事中も常に書類に目を通しており、ユアンのことなどまるで意に介していない様子だった。その徹底した無関心は、ユアンの心を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。
そして、最も苦痛な時間が、数日に一度訪れた。
「お前の役目を果たしてもらう」
クロヴィスはいつもそう言って、まるで仕事の一環であるかのようにユアンの寝室を訪れた。そこに愛情や欲望の色はなく、ただ義務を遂行するための儀式のような行為が繰り返されるだけだった。彼はユアンの体を乱暴に扱うことはなかったが、その手つきはどこまでも機械的で、一切の熱を帯びていなかった。
ユアンはただ、目を固く閉じ、嵐が過ぎ去るのを待つように耐えた。クロヴィスが事を終え、無言で部屋を出ていく背中を見送るたび、自分の体が自分のものではないかのような感覚に襲われた。涙さえ、もう流れなかった。心はとうの昔に、固く凍てついてしまったのだから。
早く、早く世継ぎを宿して、この苦しみから解放されたい。ユアンの願いは、ただそれだけだった。
そんな日々が何か月か続いた、冬の始まりの頃。
その夜は、帝国に来て初めての雪が降っていた。窓の外でしんしんと降り積もる白い雪を眺めていると、ユアンの胸に故郷への想いが募った。セレーネの冬は厳しかったが、暖炉の前で家族と寄り添い、熱いハーブティーを飲む時間は、何にも代えがたい幸せなひとときだった。もう二度と帰れない場所。思い出すだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
じっとしていられなくなり、ユアンは薄い部屋着の上にショールを一枚羽織っただけで、ふらふらと庭へ抜け出した。
冷たい夜気が、肌を刺す。吐く息は白く、あっという間に闇に溶けていった。庭園は雪化粧を施され、昼間とは違う幻想的な静けさに包まれていた。ユアンは中庭にある石のベンチに腰を下ろし、空から舞い落ちる雪の結晶を、ただぼんやりと見上げていた。
故郷を思い、家族を思う。そして、自分の惨めな今の境遇を思う。自分は一体、何をしているのだろう。こんな場所で、心を殺して生きることに、何の意味があるというのだろう。
考えれば考えるほど、孤独感が深海の底から湧き上がってくるように、ユアンを飲み込んでいく。寒さで体が震えているのか、それとも寂しさで震えているのか、もう分からなかった。指先の感覚はとうになくなり、唇は紫色になっているだろう。このまま凍えて死んでしまえたら、どんなに楽だろうか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
その時だった。
ふわり、と。
背後から、信じられないほど分厚く、そして温かい何かが、彼の肩を包み込んだ。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、クロヴィスだった。いつからそこにいたのか、全く気づかなかった。彼は軍服ではなく、簡素な黒い私服姿で、その手にはいつも携えているはずの剣もなかった。
ユアンにかけられたのは、彼のものと思われる、上質な黒いウールの外套だった。まだ持ち主の体温が残っているのか、じんわりとした温もりが、凍えたユアンの体をゆっくりと溶かしていく。
「……クロヴィス、様」
なぜ、ここに。そう問おうとしたが、声が震えて上手く言葉にならない。
クロヴィスは何も言わなかった。ただ、その凍てつくような灰色の瞳で、ユアンの顔をじっと見つめている。その視線に射抜かれ、ユアンは身動きが取れなくなった。
彼は何を考えているのだろう。なぜ、自分に外套を? 叱責されるのだろうか。こんな夜中に庭に出ていたことを。それとも、世継ぎを産むべき体を冷やすなと、道具を管理するような目で怒っているのだろうか。
様々な考えが頭を巡るが、答えは見つからない。クロヴィスの表情は、相変わらず能面のように固く、何の感情も読み取ることができなかった。
沈黙が、雪の降る音だけを伴って、二人の間に流れる。
やがて、クロヴィスはふいとユアンから視線を外すと、一言も発することなく、背を向けて踵を返した。そして、そのまま屋敷の中へと戻っていく。
あっけに取られて、ユアンはその大きな背中をただ見送ることしかできなかった。残されたのは、肩にかけられた外套の確かな重みと、そこに染み込んだ微かな白檀の香り、そして持ち主の温もりだけ。
なぜ。
その問いだけが、ユアンの心の中に何度もこだました。
彼が自分にかける言葉は、いつも命令か、義務の確認だけだった。彼の自分に対する態度は、完全な無関心そのものだったはずだ。それなのに、なぜ。
外套をぎゅっと胸に抱きしめる。そこに残る温もりが、まるでクロヴィス本人に抱きしめられているかのような錯覚をユアンにもたらした。それは決して優しさとは呼べない、無骨で、無言の行為だった。だが、その無言の行為は、今まで彼から受けたどんな形式的な接触よりも、深くユアンの心を揺さぶった。
あの冷たい男の中に、もしかしたら、ほんのわずかながら、人間らしい感情が存在するのだろうか。
ユアンは、クロヴィスが去っていった扉をじっと見つめながら、戸惑いを覚えていた。あの背中に、初めて冷酷さ以外の何かを感じ取ってしまったからだ。それはまだ、名前の付けられない、小さな小さな感情の欠片。
雪は、変わらずしんしんと降り続いていた。しかし、ユアンの心には、ほんの少しだけ、温かい光が差し込んだような気がした。肩にかけられた外套は、雪に濡れることなく、ユアンの体を守り続けていた。それは、この冷たい帝国でユアンが初めて感じた、誰かからの温もりだった。
ユアンに与えられた部屋は、王族の居室として何一つ不自由のない、豪奢で広々とした空間だった。上質な衣服、宝石、美食。物質的には何一つ満たされていた。しかし、彼の心を満たすものは、そこには何一つとして存在しなかった。
侍女たちは皆、ユアンを「将軍閣下の番様」として丁重に扱ったが、その態度はどこかよそよそしく、心を許して話せる相手は一人もいなかった。彼女たちの目に映る自分は、将軍の所有物であり、小国から来た異分子でしかないのだと、ユアンは痛いほど感じていた。
夫であるはずのクロヴィスとは、日に一度、食事の席で顔を合わせるだけだった。広大な食卓の両端に座り、交わす言葉はほとんどない。彼は食事中も常に書類に目を通しており、ユアンのことなどまるで意に介していない様子だった。その徹底した無関心は、ユアンの心を少しずつ、しかし確実に蝕んでいった。
そして、最も苦痛な時間が、数日に一度訪れた。
「お前の役目を果たしてもらう」
クロヴィスはいつもそう言って、まるで仕事の一環であるかのようにユアンの寝室を訪れた。そこに愛情や欲望の色はなく、ただ義務を遂行するための儀式のような行為が繰り返されるだけだった。彼はユアンの体を乱暴に扱うことはなかったが、その手つきはどこまでも機械的で、一切の熱を帯びていなかった。
ユアンはただ、目を固く閉じ、嵐が過ぎ去るのを待つように耐えた。クロヴィスが事を終え、無言で部屋を出ていく背中を見送るたび、自分の体が自分のものではないかのような感覚に襲われた。涙さえ、もう流れなかった。心はとうの昔に、固く凍てついてしまったのだから。
早く、早く世継ぎを宿して、この苦しみから解放されたい。ユアンの願いは、ただそれだけだった。
そんな日々が何か月か続いた、冬の始まりの頃。
その夜は、帝国に来て初めての雪が降っていた。窓の外でしんしんと降り積もる白い雪を眺めていると、ユアンの胸に故郷への想いが募った。セレーネの冬は厳しかったが、暖炉の前で家族と寄り添い、熱いハーブティーを飲む時間は、何にも代えがたい幸せなひとときだった。もう二度と帰れない場所。思い出すだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
じっとしていられなくなり、ユアンは薄い部屋着の上にショールを一枚羽織っただけで、ふらふらと庭へ抜け出した。
冷たい夜気が、肌を刺す。吐く息は白く、あっという間に闇に溶けていった。庭園は雪化粧を施され、昼間とは違う幻想的な静けさに包まれていた。ユアンは中庭にある石のベンチに腰を下ろし、空から舞い落ちる雪の結晶を、ただぼんやりと見上げていた。
故郷を思い、家族を思う。そして、自分の惨めな今の境遇を思う。自分は一体、何をしているのだろう。こんな場所で、心を殺して生きることに、何の意味があるというのだろう。
考えれば考えるほど、孤独感が深海の底から湧き上がってくるように、ユアンを飲み込んでいく。寒さで体が震えているのか、それとも寂しさで震えているのか、もう分からなかった。指先の感覚はとうになくなり、唇は紫色になっているだろう。このまま凍えて死んでしまえたら、どんなに楽だろうか。そんな考えが、ふと頭をよぎった。
その時だった。
ふわり、と。
背後から、信じられないほど分厚く、そして温かい何かが、彼の肩を包み込んだ。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、クロヴィスだった。いつからそこにいたのか、全く気づかなかった。彼は軍服ではなく、簡素な黒い私服姿で、その手にはいつも携えているはずの剣もなかった。
ユアンにかけられたのは、彼のものと思われる、上質な黒いウールの外套だった。まだ持ち主の体温が残っているのか、じんわりとした温もりが、凍えたユアンの体をゆっくりと溶かしていく。
「……クロヴィス、様」
なぜ、ここに。そう問おうとしたが、声が震えて上手く言葉にならない。
クロヴィスは何も言わなかった。ただ、その凍てつくような灰色の瞳で、ユアンの顔をじっと見つめている。その視線に射抜かれ、ユアンは身動きが取れなくなった。
彼は何を考えているのだろう。なぜ、自分に外套を? 叱責されるのだろうか。こんな夜中に庭に出ていたことを。それとも、世継ぎを産むべき体を冷やすなと、道具を管理するような目で怒っているのだろうか。
様々な考えが頭を巡るが、答えは見つからない。クロヴィスの表情は、相変わらず能面のように固く、何の感情も読み取ることができなかった。
沈黙が、雪の降る音だけを伴って、二人の間に流れる。
やがて、クロヴィスはふいとユアンから視線を外すと、一言も発することなく、背を向けて踵を返した。そして、そのまま屋敷の中へと戻っていく。
あっけに取られて、ユアンはその大きな背中をただ見送ることしかできなかった。残されたのは、肩にかけられた外套の確かな重みと、そこに染み込んだ微かな白檀の香り、そして持ち主の温もりだけ。
なぜ。
その問いだけが、ユアンの心の中に何度もこだました。
彼が自分にかける言葉は、いつも命令か、義務の確認だけだった。彼の自分に対する態度は、完全な無関心そのものだったはずだ。それなのに、なぜ。
外套をぎゅっと胸に抱きしめる。そこに残る温もりが、まるでクロヴィス本人に抱きしめられているかのような錯覚をユアンにもたらした。それは決して優しさとは呼べない、無骨で、無言の行為だった。だが、その無言の行為は、今まで彼から受けたどんな形式的な接触よりも、深くユアンの心を揺さぶった。
あの冷たい男の中に、もしかしたら、ほんのわずかながら、人間らしい感情が存在するのだろうか。
ユアンは、クロヴィスが去っていった扉をじっと見つめながら、戸惑いを覚えていた。あの背中に、初めて冷酷さ以外の何かを感じ取ってしまったからだ。それはまだ、名前の付けられない、小さな小さな感情の欠片。
雪は、変わらずしんしんと降り続いていた。しかし、ユアンの心には、ほんの少しだけ、温かい光が差し込んだような気がした。肩にかけられた外套は、雪に濡れることなく、ユアンの体を守り続けていた。それは、この冷たい帝国でユアンが初めて感じた、誰かからの温もりだった。
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