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第3話「私の番を侮辱するな」
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皇帝主催の夜会が開かれることになったのは、雪の夜から一月ほど経った頃だった。
「閣下も、もちろん番様とご一緒にご出席されますよね?」
副官であるリオが、当たり前のように尋ねてきた時、クロヴィスは眉間に皺を寄せた。夜会などという華やかな場所は、彼の最も好まないものの一つだった。だが、皇帝主催となれば欠席は許されない。そして、将軍の番となったユアンを伴わずに出席すれば、それはそれで余計な憶測を呼ぶことになるだろう。
「……ああ」
クロヴィスは、短い肯定の言葉だけを返した。その決定が、後にユアンの心を、そして自分自身の心を大きく揺り動かすことになるとは、まだ知る由もなかった。
ユアンにとって、帝国の夜会への出席は初めてのことだった。用意された衣装は、セレーネの夜空を思わせる深い瑠璃色の絹で仕立てられ、胸元には星々のようにダイアモンドが散りばめられていた。鏡に映る自分の姿は、まるで知らない誰かのようで、ユアンは落ち着かない気持ちで裾を握りしめた。
「参るぞ」
迎えに来たクロヴィスは、黒地に金の刺繍が施された豪奢な軍の正装に身を包んでいた。その威風堂々とした姿は、まさしく帝国最強の将軍と呼ぶにふさわしい。彼はユアンの姿を一瞥したが、特に何も言うことはなかった。ただ、会場へ向かう馬車の中で、「私の側から離れるな」と、それだけを短く告げた。
会場である城の大広間は、眩いばかりの光と、人々の熱気で満ち溢れていた。きらびやかな衣装を纏った貴族たちが、あちこちで扇を片手に談笑している。その誰もが、自信と傲慢さに満ちた表情をしていた。
ユアンがクロヴィスの隣に姿を現すと、会場のあちこちから好奇の視線が突き刺さるのを感じた。小国から来た、名ばかりの将軍の番。彼らが自分をどう見ているのか、言葉を交わさなくても痛いほど伝わってくる。ユアンは思わずクロヴィスの影に隠れるように、身を縮こまらせた。
クロヴィスはそんなユアンの様子に気づいているのかいないのか、次々と挨拶に訪れる貴族や軍の幹部に、いつも通りの無愛想な態度で応じている。ユアンは彼の隣で、愛想笑いを浮かべながら、ひたすら嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
事件が起きたのは、夜会が中盤に差し掛かった頃だった。
クロヴィスが皇帝陛下に呼ばれ、少しの間、ユアンは一人でその場に残されることになった。クロヴィスは去り際に「ここで待っていろ」と言い置いたが、彼の庇護がなくなった途端、待っていたかのように数人の貴族の男たちがユアンを取り囲んだ。
「これは将軍閣下の番殿。ようこそ、帝国の夜会へ」
リーダー格らしき、肥えた壮年の男が、ねっとりとした視線をユアンに向けながら言った。その目には、隠そうともしない侮蔑の色が浮かんでいる。
「セレーネ王国は、美しい花が咲き乱れる、のどかな国だと聞いております。さぞかし、のんびりとお育ちになったことでしょうな」
言葉は丁寧だが、その裏には明らかな棘があった。ユアンが何も言い返せずにいると、周りの者たちが下卑た笑い声をあげる。
「しかし、驚きましたな。あの『氷の将軍』が、このような……おっと失礼、可憐なオメガを番に迎えられるとは」
「これではまるで、鷹の隣にカナリアですな。すぐにでも食い殺されてしまいそうだ」
嘲笑が、刃となってユアンの心に突き刺さる。俯くユアンの耳に、決定的な一言が届いた。
「まあ、世継ぎのための道具としては、これくらいか弱く、従順な方が扱いやすいのかもしれませんがな。しかし、将軍閣下も、夜の閨ではこんなか弱いオメガでは満足できまい」
その侮辱的な言葉に、ユアンの頭から血の気が引いた。それは、自分だけではなく、クロヴィスをも貶める言葉だった。国の為だと、道具に徹すると決めていたはずなのに。涙が込み上げてきて、視界が滲む。思わず俯いて、唇をきつく噛みしめた。
その時だった。
ぐい、と力強く腰を引き寄せられ、ユアンの体は硬い胸板にぶつかった。驚いて顔を上げると、すぐそこにクロヴィスの怒りに燃える灰色の瞳があった。いつの間に戻ってきたのか。
「……今、何と言った」
地を這うような低い声が、騒がしかった周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。クロヴィスの全身から放たれる殺気にも似た威圧感に、先ほどまでユアンを嘲笑していた貴族たちの顔が青ざめていく。
「しょ、将軍閣下……これは、その、冗談で……」
リーダー格の男が、慌てて言い訳をしようとする。だが、クロヴィスはそれを許さなかった。
ユアンの腰を抱く腕にさらに力を込め、まるで己の所有物を見せつけるかのようにきつく抱き寄せる。そして、侮辱した貴族を、獲物を前にした獣のような鋭い眼光で睨みつけた。
「私の番を侮辱することは、この私への侮辱と見なす」
彼の言葉は、静かでありながら、大広間の隅々にまで響き渡った。音楽さえも止み、全ての視線が彼らに集中している。
「二度はないと思え。次にその汚い口で私の番を貶めれば、その舌を引き抜くことになるぞ」
冷え冷えとした宣告に、貴族は腰を抜かさんばかりに震え上がり、仲間と共に這うようにしてその場から逃げ去っていった。
シーンと静まり返った大広間で、クロヴィスは周囲をぐるりと見渡した。その視線を受けた者たちは皆、慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように会話を再開する。
クロヴィスは、ふん、と鼻を鳴らすと、ユアンの腰を抱いたまま、何事もなかったかのようにその場を離れた。
ユアンの胸は、驚きと、今まで感じたことのない激しい高鳴りでいっぱいになっていた。クロヴィスの腕の中は、鋼のように硬く、そして驚くほど熱い。守られた。この人に。道具としてしか見ていないはずの、この人に。その事実が、ユアンの心を混乱させた。
夜会が終わり、城へ戻る馬車の中、二人の間に会話はなかった。だが、以前のような冷たい沈黙ではなかった。何か、熱を持った空気が二人の間に漂っている。
部屋に戻ると、クロヴィスはユアンの腕を掴んだ。
「見せろ」
「え……?」
見ると、先ほど貴族に押された際に、壁の装飾にぶつかったのだろう。ユアンの白く細い腕には、赤い擦り傷ができていた。自分でも気づかなかった傷だ。
クロヴィスは何も言わずに部屋の棚から薬箱を取り出すと、手慣れた様子で薬をガーゼに取り、ユアンの傷口に黙って塗り始めた。その手つきは、戦場で幾度となく傷の手当てをしてきた者のそれだった。不器用だが、驚くほど優しい手つきだった。
「……あの、ありがとうございます」
ユアンがようやく絞り出した声に、クロヴィスは視線を上げずに答えた。
「勘違いするな」
また、その言葉だった。だが、以前聞いた時とは響きが違う。
「帝国の将軍の番として、毅然としていろ。お前が舐められれば、私が舐められることになる。それは私の沽券に関わる」
ぶっきらぼうな言い方。けれど、その言葉はもう、ユアンの心を傷つけなかった。彼の言葉の裏にある、不器用な庇護の心を感じ取ってしまったからだ。
手当てを終えると、クロヴィスはすぐに背を向けて部屋から出て行こうとした。その広い背中に、ユアンは思わず声をかけていた。
「クロヴィス様!」
クロヴィスが、ぴたりと足を止める。
「……嬉しかったです。……守って、くださって」
震える声で告げた、精一杯の感謝だった。
クロヴィスは、振り返らないまま、一瞬だけ沈黙した。そして、「……くだらん」と短く吐き捨てると、今度こそ部屋を出て行った。
一人残された部屋で、ユアンは手当てされた自分の腕を見つめた。薬が少し沁みる。だが、それ以上に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
『私の番』。
彼がそう言った時の、力強い声。腰を抱き寄せた、熱い腕。
あれは、自分の沽券のためだけだったのだろうか。本当に、それだけだったのだろうか。
ユアンにはもう、そうは思えなかった。あの冷たい将軍の心の中に、ほんの小さな『ユアン』という個人を認める場所が生まれたのかもしれない。そう思うだけで、胸が甘く痛んだ。
この日から、ユアンの中で、クロヴィス・ガレリアという男の存在が、ただの冷酷な夫から、少しずつ違うものへと変わり始めていた。
「閣下も、もちろん番様とご一緒にご出席されますよね?」
副官であるリオが、当たり前のように尋ねてきた時、クロヴィスは眉間に皺を寄せた。夜会などという華やかな場所は、彼の最も好まないものの一つだった。だが、皇帝主催となれば欠席は許されない。そして、将軍の番となったユアンを伴わずに出席すれば、それはそれで余計な憶測を呼ぶことになるだろう。
「……ああ」
クロヴィスは、短い肯定の言葉だけを返した。その決定が、後にユアンの心を、そして自分自身の心を大きく揺り動かすことになるとは、まだ知る由もなかった。
ユアンにとって、帝国の夜会への出席は初めてのことだった。用意された衣装は、セレーネの夜空を思わせる深い瑠璃色の絹で仕立てられ、胸元には星々のようにダイアモンドが散りばめられていた。鏡に映る自分の姿は、まるで知らない誰かのようで、ユアンは落ち着かない気持ちで裾を握りしめた。
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迎えに来たクロヴィスは、黒地に金の刺繍が施された豪奢な軍の正装に身を包んでいた。その威風堂々とした姿は、まさしく帝国最強の将軍と呼ぶにふさわしい。彼はユアンの姿を一瞥したが、特に何も言うことはなかった。ただ、会場へ向かう馬車の中で、「私の側から離れるな」と、それだけを短く告げた。
会場である城の大広間は、眩いばかりの光と、人々の熱気で満ち溢れていた。きらびやかな衣装を纏った貴族たちが、あちこちで扇を片手に談笑している。その誰もが、自信と傲慢さに満ちた表情をしていた。
ユアンがクロヴィスの隣に姿を現すと、会場のあちこちから好奇の視線が突き刺さるのを感じた。小国から来た、名ばかりの将軍の番。彼らが自分をどう見ているのか、言葉を交わさなくても痛いほど伝わってくる。ユアンは思わずクロヴィスの影に隠れるように、身を縮こまらせた。
クロヴィスはそんなユアンの様子に気づいているのかいないのか、次々と挨拶に訪れる貴族や軍の幹部に、いつも通りの無愛想な態度で応じている。ユアンは彼の隣で、愛想笑いを浮かべながら、ひたすら嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
事件が起きたのは、夜会が中盤に差し掛かった頃だった。
クロヴィスが皇帝陛下に呼ばれ、少しの間、ユアンは一人でその場に残されることになった。クロヴィスは去り際に「ここで待っていろ」と言い置いたが、彼の庇護がなくなった途端、待っていたかのように数人の貴族の男たちがユアンを取り囲んだ。
「これは将軍閣下の番殿。ようこそ、帝国の夜会へ」
リーダー格らしき、肥えた壮年の男が、ねっとりとした視線をユアンに向けながら言った。その目には、隠そうともしない侮蔑の色が浮かんでいる。
「セレーネ王国は、美しい花が咲き乱れる、のどかな国だと聞いております。さぞかし、のんびりとお育ちになったことでしょうな」
言葉は丁寧だが、その裏には明らかな棘があった。ユアンが何も言い返せずにいると、周りの者たちが下卑た笑い声をあげる。
「しかし、驚きましたな。あの『氷の将軍』が、このような……おっと失礼、可憐なオメガを番に迎えられるとは」
「これではまるで、鷹の隣にカナリアですな。すぐにでも食い殺されてしまいそうだ」
嘲笑が、刃となってユアンの心に突き刺さる。俯くユアンの耳に、決定的な一言が届いた。
「まあ、世継ぎのための道具としては、これくらいか弱く、従順な方が扱いやすいのかもしれませんがな。しかし、将軍閣下も、夜の閨ではこんなか弱いオメガでは満足できまい」
その侮辱的な言葉に、ユアンの頭から血の気が引いた。それは、自分だけではなく、クロヴィスをも貶める言葉だった。国の為だと、道具に徹すると決めていたはずなのに。涙が込み上げてきて、視界が滲む。思わず俯いて、唇をきつく噛みしめた。
その時だった。
ぐい、と力強く腰を引き寄せられ、ユアンの体は硬い胸板にぶつかった。驚いて顔を上げると、すぐそこにクロヴィスの怒りに燃える灰色の瞳があった。いつの間に戻ってきたのか。
「……今、何と言った」
地を這うような低い声が、騒がしかった周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。クロヴィスの全身から放たれる殺気にも似た威圧感に、先ほどまでユアンを嘲笑していた貴族たちの顔が青ざめていく。
「しょ、将軍閣下……これは、その、冗談で……」
リーダー格の男が、慌てて言い訳をしようとする。だが、クロヴィスはそれを許さなかった。
ユアンの腰を抱く腕にさらに力を込め、まるで己の所有物を見せつけるかのようにきつく抱き寄せる。そして、侮辱した貴族を、獲物を前にした獣のような鋭い眼光で睨みつけた。
「私の番を侮辱することは、この私への侮辱と見なす」
彼の言葉は、静かでありながら、大広間の隅々にまで響き渡った。音楽さえも止み、全ての視線が彼らに集中している。
「二度はないと思え。次にその汚い口で私の番を貶めれば、その舌を引き抜くことになるぞ」
冷え冷えとした宣告に、貴族は腰を抜かさんばかりに震え上がり、仲間と共に這うようにしてその場から逃げ去っていった。
シーンと静まり返った大広間で、クロヴィスは周囲をぐるりと見渡した。その視線を受けた者たちは皆、慌てて目を逸らし、何事もなかったかのように会話を再開する。
クロヴィスは、ふん、と鼻を鳴らすと、ユアンの腰を抱いたまま、何事もなかったかのようにその場を離れた。
ユアンの胸は、驚きと、今まで感じたことのない激しい高鳴りでいっぱいになっていた。クロヴィスの腕の中は、鋼のように硬く、そして驚くほど熱い。守られた。この人に。道具としてしか見ていないはずの、この人に。その事実が、ユアンの心を混乱させた。
夜会が終わり、城へ戻る馬車の中、二人の間に会話はなかった。だが、以前のような冷たい沈黙ではなかった。何か、熱を持った空気が二人の間に漂っている。
部屋に戻ると、クロヴィスはユアンの腕を掴んだ。
「見せろ」
「え……?」
見ると、先ほど貴族に押された際に、壁の装飾にぶつかったのだろう。ユアンの白く細い腕には、赤い擦り傷ができていた。自分でも気づかなかった傷だ。
クロヴィスは何も言わずに部屋の棚から薬箱を取り出すと、手慣れた様子で薬をガーゼに取り、ユアンの傷口に黙って塗り始めた。その手つきは、戦場で幾度となく傷の手当てをしてきた者のそれだった。不器用だが、驚くほど優しい手つきだった。
「……あの、ありがとうございます」
ユアンがようやく絞り出した声に、クロヴィスは視線を上げずに答えた。
「勘違いするな」
また、その言葉だった。だが、以前聞いた時とは響きが違う。
「帝国の将軍の番として、毅然としていろ。お前が舐められれば、私が舐められることになる。それは私の沽券に関わる」
ぶっきらぼうな言い方。けれど、その言葉はもう、ユアンの心を傷つけなかった。彼の言葉の裏にある、不器用な庇護の心を感じ取ってしまったからだ。
手当てを終えると、クロヴィスはすぐに背を向けて部屋から出て行こうとした。その広い背中に、ユアンは思わず声をかけていた。
「クロヴィス様!」
クロヴィスが、ぴたりと足を止める。
「……嬉しかったです。……守って、くださって」
震える声で告げた、精一杯の感謝だった。
クロヴィスは、振り返らないまま、一瞬だけ沈黙した。そして、「……くだらん」と短く吐き捨てると、今度こそ部屋を出て行った。
一人残された部屋で、ユアンは手当てされた自分の腕を見つめた。薬が少し沁みる。だが、それ以上に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
『私の番』。
彼がそう言った時の、力強い声。腰を抱き寄せた、熱い腕。
あれは、自分の沽券のためだけだったのだろうか。本当に、それだけだったのだろうか。
ユアンにはもう、そうは思えなかった。あの冷たい将軍の心の中に、ほんの小さな『ユアン』という個人を認める場所が生まれたのかもしれない。そう思うだけで、胸が甘く痛んだ。
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