2 / 16
第1話「凍える部屋と一匙のスープ」
しおりを挟む
冷たい石の床が、薄い毛布一枚を隔てて体温を奪っていく。
カイは身を丸め、浅い息を繰り返した。
ここはグレイフォード辺境伯家の屋敷、その最奥にある物置同然の部屋。
窓ガラスにはひびが入り、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
『寒い……お腹すいた……』
もう何度目になるか分からない心の声は、誰に届くこともなく虚空に消えた。
俺、カイ・フォン・グレイフォードはこの家の次男だ。
そしてごく稀に生まれるという、男のオメガ。
そのたった一つの事実が、俺の価値をゼロにした。
いや、マイナスかもしれない。
家族にとって俺は、存在しない方がいい汚点なのだ。
この世界に来て、もうすぐ1年が経つ。
前の世界では、俺は日本の小さなレストランで働く料理人だった。
仕込み中に起きたガス爆発事故。
それが俺の、最初の人生のエンディング。
そして次に目を開けた時、俺はこのカイという少年の身体に入っていた。
骨と皮ばかりに痩せ細り、いつも何かに怯えている可哀想な少年。
彼が元々持っていた記憶と俺自身の記憶が混ざり合い、今の俺がいる。
今日は新年を祝う日。
父も母も、そして俺を目の敵にする兄も、着飾って王都での祝賀会に出かけて行った。
屋敷に残されたのは、必要最低限の使用人たちと忘れ去られた俺だけ。
いつもなら、このまま凍える部屋で誰かが気まぐれに運んでくる硬いパンを待つだけ。
でも、今日は何かが違った。
『新年、か……』
前の世界なら、今頃は厨房で戦場のような忙しさを味わっていたはずだ。
年末から仕込み続けたおせち料理を重箱に詰め、常連客の笑顔を思い浮かべて。
家族で囲む温かい食卓。
笑い声。
それが料理人を目指した、原風景。
その記憶が、冷え切った身体の奥に小さな火を灯した。
じっとしていても、凍えて死ぬだけだ。
カイはゆっくりと身体を起こした。
ぎし、と床が鳴る。
空腹で目眩がするのを、壁に手をついてこらえた。
足音を忍ばせ、薄暗い廊下を歩く。
目指すのは厨房だ。
使用人に見つかれば、きっと怒鳴られるだろう。
それでも足は止まらなかった。
生きるために、何かを口にしなければ。
厨房からは微かに人の気配がする。
祝賀会に行かない組が、自分たちの食事の準備でもしているのだろう。
カイは扉の隙間からそっと中を覗いた。
いたのは年配のメイドが一人だけ。
彼女は大きな鍋をかき混ぜながら、退屈そうにため息をついている。
今しかない。
カイは意を決して、厨房に滑り込んだ。
「……! カイ様?」
メイドはぎょっとした顔で俺を見る。
無理もない。
この屋敷で俺は、幽霊か何かのような扱いなのだから。
「ご、ごめんなさい。すぐに戻ります」
慌てて引き返そうとする俺の腕を、意外にも彼女は掴まなかった。
代わりにその顔に浮かんだのは、驚きと……そしてほんの少しの同情。
「まあ……なんてお姿に……。旦那様たちもあんまりだわ」
つぶやかれた言葉に、カイは何も言えなかった。
「何か、お探しですか?」
「あ、あの……何か、食べるものを……少しでいいんです。パンの耳とか、野菜の切れ端とかで……」
か細い声でそう言うと、メイドは悲しそうに眉を下げた。
「そんなものではなく……。お待ちください、今、温かいスープを作っておりますから」
彼女が差し出してくれたのは、木の椀になみなみと注がれた湯気の立つスープだった。
具はほとんど入っていない、野菜の煮汁のようなもの。
でも今の俺にとっては、どんなご馳走よりも魅力的に見えた。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取り、ふうふうと冷ましてからそっと口をつける。
温かい液体が凍えた喉を通り、胃へと落ちていく。
じんわりと、身体の内側から熱が広がっていく感覚。
生き返る、とはこのことだろう。
『……ん?』
スープを味わいながら、カイはふと調理台の隅に置かれた食材に目をやった。
干からびた肉の塊。
土のついたままの、ごつごつした根菜。
硬そうな黒パン。
おそらく使用人たちの食事の材料だろう。
決して上等な食材ではない。
でも、料理人だった俺の目にはそれが宝の山に見えた。
『この肉と野菜があれば……もっと美味しくできる』
俺の中に眠っていた魂が、うずき出すのを感じた。
「あの……」
気づけば声が出ていた。
メイドが不思議そうな顔でこちらを見る。
「もしよかったら……俺にこのスープ、作らせてもらえませんか?」
「え?」
メイドは目を丸くした。
無理もない。
今まで何もできず、ただ怯えていただけの次男坊が、突然料理をしたいと言い出したのだから。
「少し味を変えるだけです。きっと、もっと美味しくなりますから」
その時の俺がどんな顔をしていたのか。
自分でも分からない。
けれど、俺の目の中に確かな光を見たのか、メイドは戸惑いながらもこくりと頷いた。
それが、俺の二度目の人生の本当の始まりだった。
カイは身を丸め、浅い息を繰り返した。
ここはグレイフォード辺境伯家の屋敷、その最奥にある物置同然の部屋。
窓ガラスにはひびが入り、隙間風が容赦なく吹き込んでくる。
『寒い……お腹すいた……』
もう何度目になるか分からない心の声は、誰に届くこともなく虚空に消えた。
俺、カイ・フォン・グレイフォードはこの家の次男だ。
そしてごく稀に生まれるという、男のオメガ。
そのたった一つの事実が、俺の価値をゼロにした。
いや、マイナスかもしれない。
家族にとって俺は、存在しない方がいい汚点なのだ。
この世界に来て、もうすぐ1年が経つ。
前の世界では、俺は日本の小さなレストランで働く料理人だった。
仕込み中に起きたガス爆発事故。
それが俺の、最初の人生のエンディング。
そして次に目を開けた時、俺はこのカイという少年の身体に入っていた。
骨と皮ばかりに痩せ細り、いつも何かに怯えている可哀想な少年。
彼が元々持っていた記憶と俺自身の記憶が混ざり合い、今の俺がいる。
今日は新年を祝う日。
父も母も、そして俺を目の敵にする兄も、着飾って王都での祝賀会に出かけて行った。
屋敷に残されたのは、必要最低限の使用人たちと忘れ去られた俺だけ。
いつもなら、このまま凍える部屋で誰かが気まぐれに運んでくる硬いパンを待つだけ。
でも、今日は何かが違った。
『新年、か……』
前の世界なら、今頃は厨房で戦場のような忙しさを味わっていたはずだ。
年末から仕込み続けたおせち料理を重箱に詰め、常連客の笑顔を思い浮かべて。
家族で囲む温かい食卓。
笑い声。
それが料理人を目指した、原風景。
その記憶が、冷え切った身体の奥に小さな火を灯した。
じっとしていても、凍えて死ぬだけだ。
カイはゆっくりと身体を起こした。
ぎし、と床が鳴る。
空腹で目眩がするのを、壁に手をついてこらえた。
足音を忍ばせ、薄暗い廊下を歩く。
目指すのは厨房だ。
使用人に見つかれば、きっと怒鳴られるだろう。
それでも足は止まらなかった。
生きるために、何かを口にしなければ。
厨房からは微かに人の気配がする。
祝賀会に行かない組が、自分たちの食事の準備でもしているのだろう。
カイは扉の隙間からそっと中を覗いた。
いたのは年配のメイドが一人だけ。
彼女は大きな鍋をかき混ぜながら、退屈そうにため息をついている。
今しかない。
カイは意を決して、厨房に滑り込んだ。
「……! カイ様?」
メイドはぎょっとした顔で俺を見る。
無理もない。
この屋敷で俺は、幽霊か何かのような扱いなのだから。
「ご、ごめんなさい。すぐに戻ります」
慌てて引き返そうとする俺の腕を、意外にも彼女は掴まなかった。
代わりにその顔に浮かんだのは、驚きと……そしてほんの少しの同情。
「まあ……なんてお姿に……。旦那様たちもあんまりだわ」
つぶやかれた言葉に、カイは何も言えなかった。
「何か、お探しですか?」
「あ、あの……何か、食べるものを……少しでいいんです。パンの耳とか、野菜の切れ端とかで……」
か細い声でそう言うと、メイドは悲しそうに眉を下げた。
「そんなものではなく……。お待ちください、今、温かいスープを作っておりますから」
彼女が差し出してくれたのは、木の椀になみなみと注がれた湯気の立つスープだった。
具はほとんど入っていない、野菜の煮汁のようなもの。
でも今の俺にとっては、どんなご馳走よりも魅力的に見えた。
「ありがとうございます」
礼を言って受け取り、ふうふうと冷ましてからそっと口をつける。
温かい液体が凍えた喉を通り、胃へと落ちていく。
じんわりと、身体の内側から熱が広がっていく感覚。
生き返る、とはこのことだろう。
『……ん?』
スープを味わいながら、カイはふと調理台の隅に置かれた食材に目をやった。
干からびた肉の塊。
土のついたままの、ごつごつした根菜。
硬そうな黒パン。
おそらく使用人たちの食事の材料だろう。
決して上等な食材ではない。
でも、料理人だった俺の目にはそれが宝の山に見えた。
『この肉と野菜があれば……もっと美味しくできる』
俺の中に眠っていた魂が、うずき出すのを感じた。
「あの……」
気づけば声が出ていた。
メイドが不思議そうな顔でこちらを見る。
「もしよかったら……俺にこのスープ、作らせてもらえませんか?」
「え?」
メイドは目を丸くした。
無理もない。
今まで何もできず、ただ怯えていただけの次男坊が、突然料理をしたいと言い出したのだから。
「少し味を変えるだけです。きっと、もっと美味しくなりますから」
その時の俺がどんな顔をしていたのか。
自分でも分からない。
けれど、俺の目の中に確かな光を見たのか、メイドは戸惑いながらもこくりと頷いた。
それが、俺の二度目の人生の本当の始まりだった。
310
あなたにおすすめの小説
自己肯定感低めの不幸な義弟が完璧な義兄と大揉めに揉める話
あと
BL
「こんな僕をお兄ちゃんは嫌ってるだろうな」
トップ俳優な完璧超人の義理の兄×不幸な自己肯定感低めのネガティブ義理の弟です。
お金ない受けが追い詰められて変なアルバイトしようとしたら、攻めと再会して……?みたいな話です。
攻めがヤンデレ気味で、受けがマジで卑屈なので苦手な人はブラウザバックで。
兄弟は親が離婚してるため、苗字が違います。
攻め:水瀬真広
受け:神崎彼方
⚠️作者は芸能界にもお葬式ににもエアプなので、気にしないでください。
途中でモブおじが出てきます。
義理とはいえ兄弟なので、地雷の人はブラウザバックで。
初投稿です。
初投稿がちょっと人を選ぶ作品なので不安です。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
内容も時々サイレント修正するかもです。
定期的にタグ整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
過労死転生した悪役令息Ωは、冷徹な隣国皇帝陛下の運命の番でした~婚約破棄と断罪からのざまぁ、そして始まる激甘な溺愛生活~
水凪しおん
BL
過労死した平凡な会社員が目を覚ますと、そこは愛読していたBL小説の世界。よりにもよって、義理の家族に虐げられ、最後は婚約者に断罪される「悪役令息」リオンに転生してしまった!
「出来損ないのΩ」と罵られ、食事もろくに与えられない絶望的な日々。破滅フラグしかない運命に抗うため、前世の知識を頼りに生き延びる決意をするリオン。
そんな彼の前に現れたのは、隣国から訪れた「冷徹皇帝」カイゼル。誰もが恐れる圧倒的カリスマを持つ彼に、なぜかリオンは助けられてしまう。カイゼルに触れられた瞬間、走る甘い痺れ。それは、αとΩを引き合わせる「運命の番」の兆しだった。
「お前がいいんだ、リオン」――まっすぐな求婚、惜しみない溺愛。
孤独だった悪役令息が、運命の番である皇帝に見出され、破滅の運命を覆していく。巧妙な罠、仕組まれた断罪劇、そして華麗なるざまぁ。絶望の淵から始まる、極上の逆転シンデレラストーリー!
置き去りにされた転生シンママはご落胤を秘かに育てるも、モトサヤはご容赦のほどを
青の雀
恋愛
シンママから玉の輿婚へ
学生時代から付き合っていた王太子のレオンハルト・バルセロナ殿下に、ある日突然、旅先で置き去りにされてしまう。
お忍び旅行で来ていたので、誰も二人の居場所を知らなく、両親のどちらかが亡くなった時にしか発動しないはずの「血の呪縛」魔法を使われた。
お腹には、殿下との子供を宿しているというのに、政略結婚をするため、バレンシア・セレナーデ公爵令嬢が邪魔になったという理由だけで、あっけなく捨てられてしまったのだ。
レオンハルトは当初、バレンシアを置き去りにする意図はなく、すぐに戻ってくるつもりでいた。
でも、王都に戻ったレオンハルトは、そのまま結婚式を挙げさせられることになる。
お相手は隣国の王女アレキサンドラ。
アレキサンドラとレオンハルトは、形式の上だけの夫婦となるが、レオンハルトには心の妻であるバレンシアがいるので、指1本アレキサンドラに触れることはない。
バレンシアガ置き去りにされて、2年が経った頃、白い結婚に不満をあらわにしたアレキサンドラは、ついに、バレンシアとその王子の存在に気付き、ご落胤である王子を手に入れようと画策するが、どれも失敗に終わってしまう。
バレンシアは、前世、京都の餅菓子屋の一人娘として、シンママをしながら子供を育てた経験があり、今世もパティシエとしての腕を生かし、パンに製菓を売り歩く行商になり、王子を育てていく。
せっかくなので、家庭でできる餅菓子レシピを載せることにしました
αからΩになった俺が幸せを掴むまで
なの
BL
柴田海、本名大嶋海里、21歳、今はオメガ、職業……オメガの出張風俗店勤務。
10年前、父が亡くなって新しいお義父さんと義兄貴ができた。
義兄貴は俺に優しくて、俺は大好きだった。
アルファと言われていた俺だったがある日熱を出してしまった。
義兄貴に看病されるうちにヒートのような症状が…
義兄貴と一線を超えてしまって逃げ出した。そんな海里は生きていくためにオメガの出張風俗店で働くようになった。
そんな海里が本当の幸せを掴むまで…
【完結】マジで婚約破棄される5秒前〜婚約破棄まであと5秒しかありませんが、じゃあ悪役令息は一体どうしろと?〜
明太子
BL
公爵令息ジェーン・アンテノールは初恋の人である婚約者のウィリアム王太子から冷遇されている。
その理由は彼が侯爵令息のリア・グラマシーと恋仲であるため。
ジェーンは婚約者の心が離れていることを寂しく思いながらも卒業パーティーに出席する。
しかし、その場で彼はひょんなことから自身がリアを主人公とした物語(BLゲーム)の悪役だと気付く。
そしてこの後すぐにウィリアムから婚約破棄されることも。
婚約破棄まであと5秒しかありませんが、じゃあ一体どうしろと?
シナリオから外れたジェーンの行動は登場人物たちに思わぬ影響を与えていくことに。
※小説家になろうにも掲載しております。
美人なのに醜いと虐げられる転生公爵令息は、婚約破棄と家を捨てて成り上がることを画策しています。
竜鳴躍
BL
ミスティ=エルフィードには前世の記憶がある。
男しかいないこの世界、横暴な王子の婚約者であることには絶望しかない。
家族も屑ばかりで、母親(男)は美しく生まれた息子に嫉妬して、徹底的にその美を隠し、『醜い』子として育てられた。
前世の記憶があるから、本当は自分が誰よりも美しいことは分かっている。
前世の記憶チートで優秀なことも。
だけど、こんな家も婚約者も捨てたいから、僕は知られないように自分を磨く。
愚かで醜い子として婚約破棄されたいから。
貧乏子爵のオメガ令息は、王子妃候補になりたくない
こたま
BL
山あいの田舎で、子爵とは名ばかりの殆ど農家な仲良し一家で育ったラリー。男オメガで貧乏子爵。このまま実家で生きていくつもりであったが。王から未婚の貴族オメガにはすべからく王子妃候補の選定のため王宮に集うようお達しが出た。行きたくないしお金も無い。辞退するよう手紙を書いたのに、近くに遠征している騎士団が帰る時、迎えに行って一緒に連れていくと連絡があった。断れないの?高貴なお嬢様にイジメられない?不安だらけのラリーを迎えに来たのは美丈夫な騎士のニールだった。
殿下に婚約終了と言われたので城を出ようとしたら、何かおかしいんですが!?
krm
BL
「俺達の婚約は今日で終わりにする」
突然の婚約終了宣言。心がぐしゃぐしゃになった僕は、荷物を抱えて城を出る決意をした。
なのに、何故か殿下が追いかけてきて――いやいやいや、どういうこと!?
全力すれ違いラブコメファンタジーBL!
支部の企画投稿用に書いたショートショートです。前後編二話完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる