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第6話「月光と隠された真実」
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煌都の夜空には、薄い雲越しに青白い月が浮かんでいた。
祭りの囃子声が遠くで微かに響く裏路地。紫苑と李翔は、店の前の古い木組みの段差に並んで腰掛けていた。
手の中には、不器用な手つきで差し出された紅と金の飴細工が握られている。透き通るような冷たい感触が、心を激しく揺さぶり続けていた。
目の前にいる大柄な軍人が、あの夜、路地裏で泣きじゃくっていた少年だった。そして、長年探し続けていた「忘れられない恩人」とは、他でもない自分自身だったのだ。
「紫苑殿? 本当にどうしたのだ。指先が震えているぞ」
低く落ち着いた声が、意識を現実へと引き戻した。
心配そうに覗き込んでくる瞳には、一切の打算も、アルファ特有の傲慢さも存在しない。ただ純粋に、体調を案じているだけだった。
呼吸を整えようと、密かに深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、激しい葛藤が渦巻いていた。
『私が、あなたの探しているその人間です』
その一言を告げるだけで、二人の関係は劇的に変わるだろう。長年のすれ違いが終わり、美しい再会として結実するはずだ。しかし、喉はその言葉をどうしても紡ぎ出すことができなかった。
理由は一つだった。オメガであるという呪わしい事実だ。
もし真実を知り、さらに深い感情を抱いたとしたら。そして、その感情がアルファとしての本能と結びついてしまったら。
これまで、自分の意志とは無関係に本能で惹かれ合う関係を激しく憎んできた。真っすぐで誠実な好意が、いつか本能の濁流に飲み込まれ、ただの「支配と服従」に成り果ててしまうのではないかという恐怖が、心を縛り付けていた。
「……なんでもありません。少し、夜風が冷たくて眩暈がしただけです」
視線をそらし、手元の飴細工を見つめたまま、静かに嘘をついた。
ほっとしたように息を吐き出すと、立ち上がって自分の着ていた麻の上着を脱ぎ、華奢な肩にふわりと掛けた。
「無理をさせてすまなかった。外に連れ出した私の責任だ。すぐに中へ戻ろう」
肩を覆った上着からは、体温とともにあの雨に濡れた森の香りが濃厚に立ち上ってきた。
薬で抑え込んでいるはずの感覚が、またしても甘く痺れるような反応を示す。しかし、以前のような恐怖や拒絶感はそこにはなかった。ただ、この温かさにずっと包まれていたいという、どうしようもなく弱く、そして切実な願いが芽生えていることに気づいてしまった。
「……ありがとうございます」
襟元をわずかに引き寄せ、優しさに身を委ねるようにして立ち上がった。
店内に戻ると、分厚い扉が閉まる重たい音が響き、外の祭りの喧騒が嘘のように遠ざかった。
ランプの薄暗い光が、静まり返った室内を優しく照らしている。いつもの椅子に座らされ、少し離れた丸椅子に腰を下ろすのを見た。
「温かいお茶を淹れようか。勝手をして申し訳ないが、茶葉はどこにある?」
普段はすべて紫苑が行っているが、体調を気遣い、不器用ながらも自ら動こうとしていた。
「いえ、私がやります。もう大丈夫ですから」
立ち上がり、棚から茶葉を取り出した。いつものように白磁の器を用意し、お湯を注ぐ。その一連の動作の中で、頭の中は彼のことで一杯になっていた。
執着していたのは、オメガとしての本能によるものではなかった。あの幼い日の記憶、不安で押し潰されそうだった夜に差し伸べられた小さな手。その記憶が、ここまで導いてきたのだ。
『運命の相手、か』
水盤の占いを思い出した。
確かに、運命の相手として指し示した。しかし、それは本能的な結びつきだけを意味していたわけではなかったのだ。過去から続く深い縁、人と人との魂の共鳴。すべてを含めて、引き寄せたのかもしれない。
お茶を淹れ終え、前に器を置く。
「すまない。結局、あなたにやらせてしまったな」
申し訳なさと感謝の入り混じった表情で器を受け取り、ゆっくりと口をつけた。
「美味しい。あなたの淹れるお茶は、いつも心が落ち着く」
その言葉の裏にある真っすぐな誠実さに、胸が締め付けられるように痛んだ。
これほどまでに純粋で、不器用なほどに優しい人。騙し続けることは、もはや耐え難い苦痛になりつつあった。
しかし、同時に失うことへの恐怖が、口を固く閉ざさせている。
「……李翔さん」
自分の器を両手で包み込みながら、ぽつりと口を開いた。
「ん? どうした」
「あなたが探しているその人は、もうこの煌都にはいないかもしれませんよ。長い年月が経っています。別の街へ行ったか、あるいは……もう、この世にはいないかもしれない」
わざと残酷な可能性を口にした。どんな反応を示すのか試すような卑怯な真似だとわかっていたが、止められなかった。
お茶を飲む手を止め、静かに器を机の上に置いた。
顔に怒りはなく、ただ深く静かな思索の海に沈んでいるような表情だった。
「そうかもしれないな」
声は驚くほど穏やかだった。
「以前の私なら、その言葉を聞いて絶望し、ただ過去の亡霊を追いかけ続けていただろう。だが、今は違う」
真っすぐな視線が、冷涼な瞳をしっかりと捉えた。
「あの夜の記憶は、私にとってかけがえのない宝物だ。だが、私は今を生きている。そして今、私の目の前には、あなたという人がいる」
心臓が大きく跳ねた。呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。
「私は、過去の恩人に再会できなくても構わないと思うようになった。もちろん、会って礼を言いたい気持ちはある。だが、それ以上に……私は今、この店であなたと過ごす穏やかな時間が、何よりも大切だと感じているのだ」
言葉は飾り気がなく、それゆえに圧倒的な熱を持って心に響いた。
過去の幻影よりも、今目の前にいる「占い師」を選ぼうとしている。オメガでもなく、過去の恩人でもなく、ただ一人の人間として。
目頭が、不意に熱くなった。
長年冷たい氷で覆い隠してきた感情が、温かい言葉によって音を立てて溶け出していくのを感じる。
「あなたは……本当に、おかしな人です」
震える声をごまかすようにうつむいてお茶を口に含んだ。
喉を通る温かい液体が、冷え切っていた心を体の奥底からゆっくりと温めていく。
小さく笑い、再びお茶を飲み始めた。
店内に漂う古い木材の匂い、薬草の微かな香り、そして放たれる雨に濡れた森の香りが、一つの静かで完璧な調和を生み出していた。
もう遠ざけたいとは思っていなかった。いつか真実に気づく日が来るまで、この穏やかな時間を少しでも長く守り続けたい。
月光が窓枠を通して、二人の影を古びた床に長く伸ばしていた。
祭りの囃子声が遠くで微かに響く裏路地。紫苑と李翔は、店の前の古い木組みの段差に並んで腰掛けていた。
手の中には、不器用な手つきで差し出された紅と金の飴細工が握られている。透き通るような冷たい感触が、心を激しく揺さぶり続けていた。
目の前にいる大柄な軍人が、あの夜、路地裏で泣きじゃくっていた少年だった。そして、長年探し続けていた「忘れられない恩人」とは、他でもない自分自身だったのだ。
「紫苑殿? 本当にどうしたのだ。指先が震えているぞ」
低く落ち着いた声が、意識を現実へと引き戻した。
心配そうに覗き込んでくる瞳には、一切の打算も、アルファ特有の傲慢さも存在しない。ただ純粋に、体調を案じているだけだった。
呼吸を整えようと、密かに深く息を吸い込んだ。
胸の奥で、激しい葛藤が渦巻いていた。
『私が、あなたの探しているその人間です』
その一言を告げるだけで、二人の関係は劇的に変わるだろう。長年のすれ違いが終わり、美しい再会として結実するはずだ。しかし、喉はその言葉をどうしても紡ぎ出すことができなかった。
理由は一つだった。オメガであるという呪わしい事実だ。
もし真実を知り、さらに深い感情を抱いたとしたら。そして、その感情がアルファとしての本能と結びついてしまったら。
これまで、自分の意志とは無関係に本能で惹かれ合う関係を激しく憎んできた。真っすぐで誠実な好意が、いつか本能の濁流に飲み込まれ、ただの「支配と服従」に成り果ててしまうのではないかという恐怖が、心を縛り付けていた。
「……なんでもありません。少し、夜風が冷たくて眩暈がしただけです」
視線をそらし、手元の飴細工を見つめたまま、静かに嘘をついた。
ほっとしたように息を吐き出すと、立ち上がって自分の着ていた麻の上着を脱ぎ、華奢な肩にふわりと掛けた。
「無理をさせてすまなかった。外に連れ出した私の責任だ。すぐに中へ戻ろう」
肩を覆った上着からは、体温とともにあの雨に濡れた森の香りが濃厚に立ち上ってきた。
薬で抑え込んでいるはずの感覚が、またしても甘く痺れるような反応を示す。しかし、以前のような恐怖や拒絶感はそこにはなかった。ただ、この温かさにずっと包まれていたいという、どうしようもなく弱く、そして切実な願いが芽生えていることに気づいてしまった。
「……ありがとうございます」
襟元をわずかに引き寄せ、優しさに身を委ねるようにして立ち上がった。
店内に戻ると、分厚い扉が閉まる重たい音が響き、外の祭りの喧騒が嘘のように遠ざかった。
ランプの薄暗い光が、静まり返った室内を優しく照らしている。いつもの椅子に座らされ、少し離れた丸椅子に腰を下ろすのを見た。
「温かいお茶を淹れようか。勝手をして申し訳ないが、茶葉はどこにある?」
普段はすべて紫苑が行っているが、体調を気遣い、不器用ながらも自ら動こうとしていた。
「いえ、私がやります。もう大丈夫ですから」
立ち上がり、棚から茶葉を取り出した。いつものように白磁の器を用意し、お湯を注ぐ。その一連の動作の中で、頭の中は彼のことで一杯になっていた。
執着していたのは、オメガとしての本能によるものではなかった。あの幼い日の記憶、不安で押し潰されそうだった夜に差し伸べられた小さな手。その記憶が、ここまで導いてきたのだ。
『運命の相手、か』
水盤の占いを思い出した。
確かに、運命の相手として指し示した。しかし、それは本能的な結びつきだけを意味していたわけではなかったのだ。過去から続く深い縁、人と人との魂の共鳴。すべてを含めて、引き寄せたのかもしれない。
お茶を淹れ終え、前に器を置く。
「すまない。結局、あなたにやらせてしまったな」
申し訳なさと感謝の入り混じった表情で器を受け取り、ゆっくりと口をつけた。
「美味しい。あなたの淹れるお茶は、いつも心が落ち着く」
その言葉の裏にある真っすぐな誠実さに、胸が締め付けられるように痛んだ。
これほどまでに純粋で、不器用なほどに優しい人。騙し続けることは、もはや耐え難い苦痛になりつつあった。
しかし、同時に失うことへの恐怖が、口を固く閉ざさせている。
「……李翔さん」
自分の器を両手で包み込みながら、ぽつりと口を開いた。
「ん? どうした」
「あなたが探しているその人は、もうこの煌都にはいないかもしれませんよ。長い年月が経っています。別の街へ行ったか、あるいは……もう、この世にはいないかもしれない」
わざと残酷な可能性を口にした。どんな反応を示すのか試すような卑怯な真似だとわかっていたが、止められなかった。
お茶を飲む手を止め、静かに器を机の上に置いた。
顔に怒りはなく、ただ深く静かな思索の海に沈んでいるような表情だった。
「そうかもしれないな」
声は驚くほど穏やかだった。
「以前の私なら、その言葉を聞いて絶望し、ただ過去の亡霊を追いかけ続けていただろう。だが、今は違う」
真っすぐな視線が、冷涼な瞳をしっかりと捉えた。
「あの夜の記憶は、私にとってかけがえのない宝物だ。だが、私は今を生きている。そして今、私の目の前には、あなたという人がいる」
心臓が大きく跳ねた。呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。
「私は、過去の恩人に再会できなくても構わないと思うようになった。もちろん、会って礼を言いたい気持ちはある。だが、それ以上に……私は今、この店であなたと過ごす穏やかな時間が、何よりも大切だと感じているのだ」
言葉は飾り気がなく、それゆえに圧倒的な熱を持って心に響いた。
過去の幻影よりも、今目の前にいる「占い師」を選ぼうとしている。オメガでもなく、過去の恩人でもなく、ただ一人の人間として。
目頭が、不意に熱くなった。
長年冷たい氷で覆い隠してきた感情が、温かい言葉によって音を立てて溶け出していくのを感じる。
「あなたは……本当に、おかしな人です」
震える声をごまかすようにうつむいてお茶を口に含んだ。
喉を通る温かい液体が、冷え切っていた心を体の奥底からゆっくりと温めていく。
小さく笑い、再びお茶を飲み始めた。
店内に漂う古い木材の匂い、薬草の微かな香り、そして放たれる雨に濡れた森の香りが、一つの静かで完璧な調和を生み出していた。
もう遠ざけたいとは思っていなかった。いつか真実に気づく日が来るまで、この穏やかな時間を少しでも長く守り続けたい。
月光が窓枠を通して、二人の影を古びた床に長く伸ばしていた。
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