恵方巻を食べてオメガになるはずが、氷の騎士団長様に胃袋を掴まれ溺愛されています

水凪しおん

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第9話「拒絶の理由と魂の叫び」

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 夜が明けても、俺の熱は引かなかった。
 クラウス様は定期的にテントに戻ってきては、水を飲ませてくれたり、額を冷やしてくれたりした。その献身的な介抱は、主君が部下に向ける情けにしては手厚すぎる。
 だが、彼は決して俺に指一本、性的な意味では触れようとしなかった。
 テントの中に充満する甘い香りは、時間が経つにつれて深みを増している。それはまるで、熟成された高級なリキュールのようだ。
 クラウス様はその匂いを嗅ぐたびに、どこか切なそうな、それでいて何かを必死に耐えるような顔をする。

「……つらいか、ルエン」

 水を飲ませてくれる彼の手が、俺の頬に触れた。その指先は震えていた。

「つらい、です……。体が熱くて、寂しくて……」

「すまない。代わってやれればいいのだが」

「代わらなくていいんです。ただ、あなたが俺を……」

 言いかけて、俺は口をつぐんだ。
 昨夜の拒絶がトラウマになっていた。これ以上惨めな思いはしたくない。
 だが、沈黙に耐えきれなくなったのはクラウス様の方だった。
 彼は苦しげに吐き捨てた。

「お前は、なぜそこまでしてオメガになりたかったんだ」

 その問いに、俺は虚ろな目で天井を見上げた。

「……あなたの隣に、立ちたかったからです」

「俺の?」

「ベータの料理人なんて、近衛騎士団長の相手にはふさわしくないでしょう。夜会にも出られない。番の契約も結べない。ただ遠くから見ているだけなんて、もう耐えられなかったんです」

 すべてを吐き出すと、胸のつかえが少し取れた気がした。
 クラウス様は長い間、黙り込んでいた。テントの外で風が唸る音だけが聞こえる。
 やがて、彼が静かに口を開いた。

「馬鹿な奴だ」

 その声色は、驚くほど優しかった。

「俺がいつ、オメガを望んだ? 俺がいつ、身分や属性で相手を選んだ?」

「でも、世間は……」

「世間などどうでもいい! 俺が見ていたのは、お前だ。ルエン、お前自身だ!」

 彼は俺の肩を掴み、強く揺さぶった。

「毎晩、厨房の明かりが消えるまで働き、誰よりも早く起きて仕込みをするお前を。兵士たちの体調を気遣い、一人一人の好みに合わせて味付けを変える繊細さを。そして、食材に向き合う時の、あの真剣で美しい横顔を……俺はずっと見ていたんだ」

 俺は呆然として彼を見つめた。
 彼は、知っていたのか。俺の些細なこだわりも、隠していた努力も。

「俺が惚れたのは、ベータのルエンだ。オメガのお前じゃない」

 心臓が止まるかと思った。
 惚れた? 今、彼はそう言ったのか?

「で、ですが、俺はもうオメガに……この匂いだって……」

「……そのことだが」

 クラウス様は気まずそうに視線を泳がせた。

「ルエン。落ち着いて聞いてくれ。……お前からは、オメガのフェロモンなんて出ていない」

「え?」

「この匂いは……最高級の出汁と、炊き立ての米と、完熟した果実が混ざり合ったような……要するに、ものすごく『美味そうな料理』の匂いだ」

 思考が停止した。
 料理の、匂い?
 俺は慌てて自分の腕の匂いを嗅いだ。
 甘く、芳醇な香り。確かにそれは、異性を誘惑する香りというよりは、胃袋を直撃する暴力的なまでの「飯テロ」臭だった。

「じゃあ、この熱は……?」

「おそらく、魔力の過剰摂取による『食あたり』に近いものだろう。あの恵方巻、相当な魔力が込められていたはずだ」

 食あたり。
 俺が命懸けで挑んだ運命の儀式の結果が、ただの魔力酔いと食あたり?
 あまりの情けなさに、涙も引っ込んだ。
 俺はオメガになっていない。ベータのまま、ただ全身から美味しい匂いを放つ人間になっただけだ。

「な、なんてことだ……」

 顔から火が出るほど恥ずかしい。穴があったら入りたい。いや、今すぐ雪の中に埋まりたい。
 俺は両手で顔を覆い、のたうち回った。

「見ないでください! 忘れてください! 今の話は全部ナシです!」

「無理だ。全部聞いたし、全部記憶した」

 クラウス様が、俺の手首を掴んで顔を覆う手を外させた。
 至近距離にある彼の瞳は、氷河のように冷たい色ではなく、春の日差しのように温かく笑っていた。

「むしろ安心した。お前がお前でなくなっていたらどうしようかと、気が気じゃなかったんだ」

 彼の指が、俺の唇をなぞる。
 その触れ方は、昨夜の拒絶とは正反対の、慈愛に満ちたものだった。
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