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第三話「生まれて初めての安らぎ」
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突然現れた、息を呑むほど美しい銀髪の貴公子。
アオイは、湯気でできた心臓が、もし本物だったなら激しく跳ねているだろうと感じていた。彼が率いる一団は明らかにただの旅人ではない。その佇まい、身につけた衣服の質、そして何より、銀髪の青年から放たれる近寄りがたいほどの威圧感。それは、彼が相当な高位の貴族であることを示していた。
(どうしよう……人が来た……)
沼から人の形を得て以来、アオイは誰とも会っていなかった。鳥や獣たちが恐る恐る水を飲みに来ることはあったが、人間がこの地を訪れたのは初めてだ。
銀髪の青年――クロードは、一切の表情を浮かべないまま、真っ直ぐにアオイを見つめている。そのサファイアの瞳は、まるでこちらの魂の奥底まで見透かしてくるかのようだ。
アオイは、彼が深刻な苦しみを抱えていることを、なぜか直感で感じ取っていた。それは、沼だった頃に感じていた人々の負の感情に似ているようで、けれど全く違う、もっと根深く個人的な苦しみ。まるで、全身に茨が巻き付いているかのような、絶え間ない痛み。
「……君は、何者だ」
クロードが静かに口を開いた。その声は、彼の見た目通り、冬の湖を思わせるほど低く、冷たい。
「ぼ、僕はアオイ……です。この泉の、まあ、番人のようなものです」
しどろもどろになりながらアオイは答えた。元・沼です、とは言えるはずもない。
クロードはアオイの答えに納得した様子もなく、ただじっと泉の水面を見つめている。その横顔には、深い疲労と諦めの色が滲んでいた。
アオイは、いてもたってもいられなくなった。この人を、この温泉に入れてあげたい。この温かさで、少しでも彼の苦しみを和らげることができたなら。
「あ、あの……もしよろしければ、この温泉に入っていきませんか?きっと、疲れが取れると思いますから」
恐る恐る、アオイはそう提案した。
クロードは、アオイに視線を戻す。その瞳には、あからさまな疑念の色が浮かんでいた。
「温泉……だと?」
「はい。体に良く効く、特別な温泉なんです」
クロードの隣にいた老執事が、主君に深々と頭を下げた。
「クロード様、どうか。ここまで来たのです。試してみる価値はございます」
促されたクロードは、しばし逡巡した後、小さく頷いた。どうせ何も変わらないだろうという諦めが、彼の全身から見て取れた。
クロードは供の者たちを下がらせると、手早く衣服を脱ぎ始めた。月明かりに照らされた彼の体は、まるで大理石でできた彫刻のように完璧だったが、その肌は病的なまでに白い。
アオイは、彼が傷ついた獣のように警戒しながら湯に足を入れるのを見ていた。
そして、クロードがゆっくりと、その泉に体を沈めた、その瞬間。
「――ッ!?」
クロードの全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡った。
温かい。
ただ、それだけのことのはずだった。だが、彼にとってその感覚は、天啓にも等しいものだった。
生まれてからこの方、片時も離れることのなかった体の痛みが、まるで嘘のようにすうっと和らいでいく。体の芯まで凍てつかせ、常に彼を苛んできた呪いの疼きが、優しい温もりに包まれて溶かされていく。
じんわりと、体の内側から何かが解き放たれていく感覚。
それは、クロードが生まれて初めて経験する、「安らぎ」という感情だった。
あまりの衝撃と感動に、彼は言葉を失い、ただ呆然と湯の中に座り込む。いつも固く結ばれていた眉間の皺が、ほんのわずかに緩んでいた。
アオイは、クロードのその微かな変化を見逃さなかった。
(よかった……)
自分の生み出した温泉が、この苦しんでいる人を癒やすことができた。その事実が、アオイの胸を温かい喜びで満たしていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。クロードは、まるで長年の眠りから覚めたかのように、ゆっくりと目を開けた。そのサファイアの瞳には、先ほどまでの疑念はなく、代わりに強い光が宿っていた。
湯から上がったクロードは、濡れた銀髪をかきあげながら、まっすぐにアオイの元へと歩み寄る。そして、感情の乗らない平坦な声で、しかし有無を言わせぬ力強さで、こう告げた。
「ここに滞在する」
「え……?」
アオイが聞き返すと、クロードは言葉を続けた。
「この土地の開発に、私の全てを投資しよう。この泉を、最高の療養地に作り上げる」
その言葉は、アオイにとって予想外のものであり、同時に、胸の奥にしまい込んでいた夢を刺激するものだった。
最高の温泉郷を作る。前世で叶えられなかった、俺の夢。
クロードの瞳には、もはや迷いはなかった。この泉は、自分の呪いを癒やす唯一の希望なのだと、彼は確信していた。そして、その奇跡の源であるアオイという存在に対しても、強烈な興味と独占欲が芽生え始めていた。
こうして、元・呪いの沼と、呪われた公爵による、壮大な温泉郷計画が静かに幕を開けたのだった。
アオイは、湯気でできた心臓が、もし本物だったなら激しく跳ねているだろうと感じていた。彼が率いる一団は明らかにただの旅人ではない。その佇まい、身につけた衣服の質、そして何より、銀髪の青年から放たれる近寄りがたいほどの威圧感。それは、彼が相当な高位の貴族であることを示していた。
(どうしよう……人が来た……)
沼から人の形を得て以来、アオイは誰とも会っていなかった。鳥や獣たちが恐る恐る水を飲みに来ることはあったが、人間がこの地を訪れたのは初めてだ。
銀髪の青年――クロードは、一切の表情を浮かべないまま、真っ直ぐにアオイを見つめている。そのサファイアの瞳は、まるでこちらの魂の奥底まで見透かしてくるかのようだ。
アオイは、彼が深刻な苦しみを抱えていることを、なぜか直感で感じ取っていた。それは、沼だった頃に感じていた人々の負の感情に似ているようで、けれど全く違う、もっと根深く個人的な苦しみ。まるで、全身に茨が巻き付いているかのような、絶え間ない痛み。
「……君は、何者だ」
クロードが静かに口を開いた。その声は、彼の見た目通り、冬の湖を思わせるほど低く、冷たい。
「ぼ、僕はアオイ……です。この泉の、まあ、番人のようなものです」
しどろもどろになりながらアオイは答えた。元・沼です、とは言えるはずもない。
クロードはアオイの答えに納得した様子もなく、ただじっと泉の水面を見つめている。その横顔には、深い疲労と諦めの色が滲んでいた。
アオイは、いてもたってもいられなくなった。この人を、この温泉に入れてあげたい。この温かさで、少しでも彼の苦しみを和らげることができたなら。
「あ、あの……もしよろしければ、この温泉に入っていきませんか?きっと、疲れが取れると思いますから」
恐る恐る、アオイはそう提案した。
クロードは、アオイに視線を戻す。その瞳には、あからさまな疑念の色が浮かんでいた。
「温泉……だと?」
「はい。体に良く効く、特別な温泉なんです」
クロードの隣にいた老執事が、主君に深々と頭を下げた。
「クロード様、どうか。ここまで来たのです。試してみる価値はございます」
促されたクロードは、しばし逡巡した後、小さく頷いた。どうせ何も変わらないだろうという諦めが、彼の全身から見て取れた。
クロードは供の者たちを下がらせると、手早く衣服を脱ぎ始めた。月明かりに照らされた彼の体は、まるで大理石でできた彫刻のように完璧だったが、その肌は病的なまでに白い。
アオイは、彼が傷ついた獣のように警戒しながら湯に足を入れるのを見ていた。
そして、クロードがゆっくりと、その泉に体を沈めた、その瞬間。
「――ッ!?」
クロードの全身を、経験したことのない衝撃が駆け巡った。
温かい。
ただ、それだけのことのはずだった。だが、彼にとってその感覚は、天啓にも等しいものだった。
生まれてからこの方、片時も離れることのなかった体の痛みが、まるで嘘のようにすうっと和らいでいく。体の芯まで凍てつかせ、常に彼を苛んできた呪いの疼きが、優しい温もりに包まれて溶かされていく。
じんわりと、体の内側から何かが解き放たれていく感覚。
それは、クロードが生まれて初めて経験する、「安らぎ」という感情だった。
あまりの衝撃と感動に、彼は言葉を失い、ただ呆然と湯の中に座り込む。いつも固く結ばれていた眉間の皺が、ほんのわずかに緩んでいた。
アオイは、クロードのその微かな変化を見逃さなかった。
(よかった……)
自分の生み出した温泉が、この苦しんでいる人を癒やすことができた。その事実が、アオイの胸を温かい喜びで満たしていく。
どれくらいの時間が経っただろうか。クロードは、まるで長年の眠りから覚めたかのように、ゆっくりと目を開けた。そのサファイアの瞳には、先ほどまでの疑念はなく、代わりに強い光が宿っていた。
湯から上がったクロードは、濡れた銀髪をかきあげながら、まっすぐにアオイの元へと歩み寄る。そして、感情の乗らない平坦な声で、しかし有無を言わせぬ力強さで、こう告げた。
「ここに滞在する」
「え……?」
アオイが聞き返すと、クロードは言葉を続けた。
「この土地の開発に、私の全てを投資しよう。この泉を、最高の療養地に作り上げる」
その言葉は、アオイにとって予想外のものであり、同時に、胸の奥にしまい込んでいた夢を刺激するものだった。
最高の温泉郷を作る。前世で叶えられなかった、俺の夢。
クロードの瞳には、もはや迷いはなかった。この泉は、自分の呪いを癒やす唯一の希望なのだと、彼は確信していた。そして、その奇跡の源であるアオイという存在に対しても、強烈な興味と独占欲が芽生え始めていた。
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