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第1話「摩天楼の孤独と偽りのベータ」
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蛍光灯の白い光が、無機質なオフィスを、照らし続けている。
時刻は、とっくに22時を回っていた。
キーボードを叩く音だけが、死んだように静かなフロアに、響いている。
『まだ終わらない……』
僕は、中央都市銀行の行員、水瀬湊。
26歳。
世間一般では、エリートと呼ばれるメガバンクに勤めているが、その実態は、消耗品のように働く歯車の一つに過ぎない。
そして、この職場……いや、誰にも明かしていない、秘密を抱えている。
僕は、オメガだ。
男性の中では、ごく少数とされる、子を成せる性。
定期的に、ヒートと呼ばれる発情期が訪れ、その際には、強烈なフェロモンを発して、アルファを惹きつけてしまう。
そんな性が、男社会の頂点とも言えるこの銀行で、受け入れられるはずがない。
だから僕は、強力な抑制剤でオメガの性質を無理に抑えつけ、ベータとして生きている。
「水瀬、この資料、明日の朝イチまでに修正しておけ」
背後から投げつけられた声に、びくりと肩が跳ねた。
声の主は、課長の高梨さん。
僕が今関わっている、大型融資プロジェクトのリーダーだ。
「……はい。ですが課長、こちらのデータは先日、課長のご指示通りに修正したはずですが」
「細かいことを気にするな。クライアントから、追加の要望があったんだよ。とにかく、やっておけ」
有無を言わさぬ口調。
僕の手元にドサリと置かれた分厚いファイルは、明らかに、一晩で終わる量ではなかった。
高梨課長は、僕がオメガとは知らず、ただ大人しくて反抗しない部下として、面倒な仕事を全て押し付けてくる。
『まただ……』
ここのところ、ずっとこれの繰り返し。
プロジェクトが佳境に入ってからというもの、僕の仕事量だけが、異常に増えていた。
連日の残業、休日出勤。
抑制剤の副作用で体調は最悪なのに、休むことすら許されない。
胃のあたりが、キリキリと痛むのを感じながら、僕は力なく頷いた。
「……わかりました」
「頼んだぞ」
満足げに鼻を鳴らし、高梨課長はさっさと自分のデスクに戻っていく。
他の同僚たちは、見て見ぬふりだ。
誰も、僕を助けてはくれない。
孤独が、冷たい水のように、じわじわと心に染み込んでくる。
『家に帰りたい……』
温かい食事を作って、ゆっくりお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠りたい。
そんな、ささやかな願いすら、今の僕には贅沢品だ。
ふと、窓の外に目をやる。
きらびやかな摩天楼の夜景が、広がっている。
あの無数の光の一つ一つに、人々の営みがあるのだろう。
なのに、僕のいるこの場所だけが、世界から切り離されたみたいに、色を失っている。
ずきり、と下腹部に鈍い痛みが走った。
まずい、と血の気が引く。
抑制剤を飲んでいるにも関わらず、体が警告を発している。
周期が近づいているのか、それとも、過労とストレスで薬の効果が弱まっているのか。
『しっかりしろ、僕……』
ここで倒れるわけにはいかない。
オメガだとバレたら、僕は全てを失う。
この銀行で築き上げてきたキャリアも、一人で生きていくための生活も。
僕は、ポケットからピルケースを取り出し、震える手で錠剤を一つ、水なしで飲み込んだ。
苦い味が、喉を滑り落ちていく。
これが、僕がベータでいるための鎖だ。
再びパソコンに向き合い、指を動かし始める。
画面に並ぶ数字の羅列が、だんだんと滲んで見えた。
頭がぼーっとする。
視界が、ぐにゃりと歪む。
それでも、僕は手を止めなかった。
止められなかった。
ここで立ち止まったら、もう二度と、立ち上がれない気がして。
ただひたすらに、夜が明けるのを待ちながら、僕はキーボードを叩き続けた。
心と体が悲鳴を上げているのに、その声に耳を塞いで。
***
翌朝。
なんとか資料を仕上げ、高梨課長のデスクに置いたのは、始業ギリギリの時間だった。
結局、一睡もできていない。
目の下には濃いクマが張り付き、頭は鉛のように重い。
「水瀬、遅いぞ。それで、例の資料はできたんだろうな」
出社するなり、高梨課長が不機嫌そうな声で言った。
「はい。こちらに」
「ふん。まあいい。それより、お前に話がある」
改まった口調に、嫌な予感が胸をよぎる。
課長は、僕をちらりと見ると、まるでゴミでも見るかのような目で、言い放った。
「お前、今日限りで、このプロジェクトから外れてもらう」
「……え?」
意味がわからなかった。
聞き間違いかと思った。
あれだけ無茶な量の仕事を押し付けておいて、今さら、外れる?
「どういう、ことでしょうか。僕は今まで、このプロジェクトのために……」
「うるさいな。お前の要領が悪いせいで、全体のスケジュールが遅れてるんだよ。それに、最近のお前、顔色も悪いし、集中力も散漫だ。そんな奴に、これ以上任せてはおけない」
言葉を失った。
スケジュールが遅れているのは、度重なる仕様変更と、課長の無計画な指示のせいだ。
僕のせいじゃない。
顔色が悪いのも、集中力がないのも、あんたが押し付けた無茶な仕事のせいじゃないか。
喉まで出かかった反論を、ぐっと飲み込む。
ここで何を言っても、無駄だ。
この人は、ただ自分の保身のために、僕を切り捨てようとしているだけ。
「……わかりました」
そう答えるのが、精一杯だった。
悔しさで唇を噛み締めると、鉄の味がした。
「ああ、それと。お前の後任だが、もう決まっている。親会社の橘財閥から、新しい監査役が来られることになってな。その方が、このプロジェクトの全権を握ることになった」
橘財閥。
その名を聞いて、フロアがざわついた。
中央都市銀行の筆頭株主であり、日本の経済を牛耳る巨大コングロマリット。
「今日、こちらに挨拶に来られるそうだ。粗相のないようにな」
高梨課長はそう言い捨てると、僕に興味を失ったように、自分の席へ戻っていった。
僕は、自分のデスクの前で立ち尽くす。
今まで必死に積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。
努力も、我慢も、全部無駄だった。
『もう、疲れた……』
心の中で、何かがぷつりと切れた。
壁に立てかけてあった自分の荷物をまとめ、僕は静かに立ち上がる。
もう、ここに僕の居場所はない。
「水瀬?どこへ行く」
課長の声が、背中に突き刺さるが、僕は振り返らなかった。
このまま、どこか遠くへ消えてしまいたい。
そう思った、その時だった。
オフィスの入り口が開き、凛とした空気を纏った一人の男が、入ってきた。
スーツの上からでもわかる、鍛え上げられた体躯。
シャープな顎のラインに、理知的な光を宿した、黒曜石のような瞳。
そこにいるだけで、周囲の空気を支配するほどの、圧倒的な存在感。
そして、暗いオフィスの中でも獲物を見定めるかのように、鋭く光る瞳。本能が、警鐘を鳴らす。
『アルファだ……それも、とてつもなく格の高い……』
僕の体が、恐怖で凍りつく。
男はフロアをざっと見渡し、その視線が、僕の上でぴたりと止まった。
目が、合った。
その瞬間、ふわりと、嗅いだことのない香りが、鼻腔をくすぐった。
深く、静かで、それでいて心を落ち着かせるような……まるで、雪深い森の香り。
男は、僕に向かって、ゆっくりと歩いてくる。
一歩、また一歩と近づいてくるたびに、心臓が大きく脈打った。
逃げないと。
早く、ここから。
なのに、足が床に縫い付けられたように、動かない。
やがて僕の目の前で立ち止まった男は、低い、よく通る声で言った。
「君が、水瀬湊君か」
その声に、なぜか全身の力が抜けていくような感覚に、襲われた。
この人が、橘財閥の。
僕の人生をめちゃくちゃにしたプロジェクトを、これから引き継ぐ男。
僕の、敵。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
男から発せられるフェロモンが、抑制剤の壁を突き破って、僕のオメガの本能を、直接揺さぶってくる。
「本日付で監査役に就任した、橘蓮だ。よろしく。君のことは、以前から知っていた」
氷のように冷たい声。
その声とは裏腹に、彼の瞳の奥には、どこか熱を帯びた光が揺らめいているように、見えた。
時刻は、とっくに22時を回っていた。
キーボードを叩く音だけが、死んだように静かなフロアに、響いている。
『まだ終わらない……』
僕は、中央都市銀行の行員、水瀬湊。
26歳。
世間一般では、エリートと呼ばれるメガバンクに勤めているが、その実態は、消耗品のように働く歯車の一つに過ぎない。
そして、この職場……いや、誰にも明かしていない、秘密を抱えている。
僕は、オメガだ。
男性の中では、ごく少数とされる、子を成せる性。
定期的に、ヒートと呼ばれる発情期が訪れ、その際には、強烈なフェロモンを発して、アルファを惹きつけてしまう。
そんな性が、男社会の頂点とも言えるこの銀行で、受け入れられるはずがない。
だから僕は、強力な抑制剤でオメガの性質を無理に抑えつけ、ベータとして生きている。
「水瀬、この資料、明日の朝イチまでに修正しておけ」
背後から投げつけられた声に、びくりと肩が跳ねた。
声の主は、課長の高梨さん。
僕が今関わっている、大型融資プロジェクトのリーダーだ。
「……はい。ですが課長、こちらのデータは先日、課長のご指示通りに修正したはずですが」
「細かいことを気にするな。クライアントから、追加の要望があったんだよ。とにかく、やっておけ」
有無を言わさぬ口調。
僕の手元にドサリと置かれた分厚いファイルは、明らかに、一晩で終わる量ではなかった。
高梨課長は、僕がオメガとは知らず、ただ大人しくて反抗しない部下として、面倒な仕事を全て押し付けてくる。
『まただ……』
ここのところ、ずっとこれの繰り返し。
プロジェクトが佳境に入ってからというもの、僕の仕事量だけが、異常に増えていた。
連日の残業、休日出勤。
抑制剤の副作用で体調は最悪なのに、休むことすら許されない。
胃のあたりが、キリキリと痛むのを感じながら、僕は力なく頷いた。
「……わかりました」
「頼んだぞ」
満足げに鼻を鳴らし、高梨課長はさっさと自分のデスクに戻っていく。
他の同僚たちは、見て見ぬふりだ。
誰も、僕を助けてはくれない。
孤独が、冷たい水のように、じわじわと心に染み込んでくる。
『家に帰りたい……』
温かい食事を作って、ゆっくりお風呂に入って、ふかふかのベッドで眠りたい。
そんな、ささやかな願いすら、今の僕には贅沢品だ。
ふと、窓の外に目をやる。
きらびやかな摩天楼の夜景が、広がっている。
あの無数の光の一つ一つに、人々の営みがあるのだろう。
なのに、僕のいるこの場所だけが、世界から切り離されたみたいに、色を失っている。
ずきり、と下腹部に鈍い痛みが走った。
まずい、と血の気が引く。
抑制剤を飲んでいるにも関わらず、体が警告を発している。
周期が近づいているのか、それとも、過労とストレスで薬の効果が弱まっているのか。
『しっかりしろ、僕……』
ここで倒れるわけにはいかない。
オメガだとバレたら、僕は全てを失う。
この銀行で築き上げてきたキャリアも、一人で生きていくための生活も。
僕は、ポケットからピルケースを取り出し、震える手で錠剤を一つ、水なしで飲み込んだ。
苦い味が、喉を滑り落ちていく。
これが、僕がベータでいるための鎖だ。
再びパソコンに向き合い、指を動かし始める。
画面に並ぶ数字の羅列が、だんだんと滲んで見えた。
頭がぼーっとする。
視界が、ぐにゃりと歪む。
それでも、僕は手を止めなかった。
止められなかった。
ここで立ち止まったら、もう二度と、立ち上がれない気がして。
ただひたすらに、夜が明けるのを待ちながら、僕はキーボードを叩き続けた。
心と体が悲鳴を上げているのに、その声に耳を塞いで。
***
翌朝。
なんとか資料を仕上げ、高梨課長のデスクに置いたのは、始業ギリギリの時間だった。
結局、一睡もできていない。
目の下には濃いクマが張り付き、頭は鉛のように重い。
「水瀬、遅いぞ。それで、例の資料はできたんだろうな」
出社するなり、高梨課長が不機嫌そうな声で言った。
「はい。こちらに」
「ふん。まあいい。それより、お前に話がある」
改まった口調に、嫌な予感が胸をよぎる。
課長は、僕をちらりと見ると、まるでゴミでも見るかのような目で、言い放った。
「お前、今日限りで、このプロジェクトから外れてもらう」
「……え?」
意味がわからなかった。
聞き間違いかと思った。
あれだけ無茶な量の仕事を押し付けておいて、今さら、外れる?
「どういう、ことでしょうか。僕は今まで、このプロジェクトのために……」
「うるさいな。お前の要領が悪いせいで、全体のスケジュールが遅れてるんだよ。それに、最近のお前、顔色も悪いし、集中力も散漫だ。そんな奴に、これ以上任せてはおけない」
言葉を失った。
スケジュールが遅れているのは、度重なる仕様変更と、課長の無計画な指示のせいだ。
僕のせいじゃない。
顔色が悪いのも、集中力がないのも、あんたが押し付けた無茶な仕事のせいじゃないか。
喉まで出かかった反論を、ぐっと飲み込む。
ここで何を言っても、無駄だ。
この人は、ただ自分の保身のために、僕を切り捨てようとしているだけ。
「……わかりました」
そう答えるのが、精一杯だった。
悔しさで唇を噛み締めると、鉄の味がした。
「ああ、それと。お前の後任だが、もう決まっている。親会社の橘財閥から、新しい監査役が来られることになってな。その方が、このプロジェクトの全権を握ることになった」
橘財閥。
その名を聞いて、フロアがざわついた。
中央都市銀行の筆頭株主であり、日本の経済を牛耳る巨大コングロマリット。
「今日、こちらに挨拶に来られるそうだ。粗相のないようにな」
高梨課長はそう言い捨てると、僕に興味を失ったように、自分の席へ戻っていった。
僕は、自分のデスクの前で立ち尽くす。
今まで必死に積み上げてきたものが、音を立てて崩れていく。
努力も、我慢も、全部無駄だった。
『もう、疲れた……』
心の中で、何かがぷつりと切れた。
壁に立てかけてあった自分の荷物をまとめ、僕は静かに立ち上がる。
もう、ここに僕の居場所はない。
「水瀬?どこへ行く」
課長の声が、背中に突き刺さるが、僕は振り返らなかった。
このまま、どこか遠くへ消えてしまいたい。
そう思った、その時だった。
オフィスの入り口が開き、凛とした空気を纏った一人の男が、入ってきた。
スーツの上からでもわかる、鍛え上げられた体躯。
シャープな顎のラインに、理知的な光を宿した、黒曜石のような瞳。
そこにいるだけで、周囲の空気を支配するほどの、圧倒的な存在感。
そして、暗いオフィスの中でも獲物を見定めるかのように、鋭く光る瞳。本能が、警鐘を鳴らす。
『アルファだ……それも、とてつもなく格の高い……』
僕の体が、恐怖で凍りつく。
男はフロアをざっと見渡し、その視線が、僕の上でぴたりと止まった。
目が、合った。
その瞬間、ふわりと、嗅いだことのない香りが、鼻腔をくすぐった。
深く、静かで、それでいて心を落ち着かせるような……まるで、雪深い森の香り。
男は、僕に向かって、ゆっくりと歩いてくる。
一歩、また一歩と近づいてくるたびに、心臓が大きく脈打った。
逃げないと。
早く、ここから。
なのに、足が床に縫い付けられたように、動かない。
やがて僕の目の前で立ち止まった男は、低い、よく通る声で言った。
「君が、水瀬湊君か」
その声に、なぜか全身の力が抜けていくような感覚に、襲われた。
この人が、橘財閥の。
僕の人生をめちゃくちゃにしたプロジェクトを、これから引き継ぐ男。
僕の、敵。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
男から発せられるフェロモンが、抑制剤の壁を突き破って、僕のオメガの本能を、直接揺さぶってくる。
「本日付で監査役に就任した、橘蓮だ。よろしく。君のことは、以前から知っていた」
氷のように冷たい声。
その声とは裏腹に、彼の瞳の奥には、どこか熱を帯びた光が揺らめいているように、見えた。
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