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第8話 “上司と部下”の線
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月曜の九時が近づくと、部屋の空気は決まって一定の硬さを帯びる。
淹れたてのコーヒーから上がる湯気は、日曜の夜に残った甘さをゆっくり薄め、画面の青白さは、週末の影を壁の奥へ押しやる。窓の外は晴れ、ベランダの手すりには細い光の筋。先週の金曜、グラスの中で氷が鳴った音が、まだ胸のどこかに埋まっている気がした。
八時五十九分。
指先で前髪を整え、息をひとつ吐く。プレイリストの「同じ曲」をミュートで再生し、接続ボタンを押す。画面が切り替わり、僕らの日常が立ち上がるはずだった。
「……おはよう」
少し遅れて、彼が現れた。
桐谷――いや、真澄さんの声は、いつもよりわずかに乾いていた。渇きと言っても荒れているわけではない。ただ、表面に薄い膜が張られたみたいな反射を帯びている。シャツは白、襟はきちんと立ち、背景の観葉植物の緑も変わらない。けれど、目の置き場が、どこかぎこちない。
「おはようございます」
重ねた「おはようございます」が、ふつうならすぐに馴染むのに、今日は表面で跳ねて、なかなか沈まない。僕は、自分の声が半音だけ高くなっているのを自覚した。マイクの向こうで彼が小さく頷き、視線をモニターの左に滑らせる。共有の準備の合図だ。
「昨日の会議、助かった。あの二ページ、温度がちょうどよかった」
「ありがとうございます」
「――で」
一拍。
その短い無音に、週末の残響がひとつ落ちる音がした。
「……あの件は、業務に集中しよう」
あの件。
金曜の夜の、氷の音。
“二人だけの世界みたいだな”の“みたいだな”。
土曜の朝に届いた「昨夜のことは忘れていい」。
それらが、三文字の「件」に圧縮されて、今、机の上に置かれた。
「了解です」
口が勝手にそう言った。
了解、という音は便利だ。ほとんどの凹凸をならしてくれる。けれど、ならし過ぎると、感情の置き場を失う。画面の右上にある時計は九時二分。いつもなら、この時間には軽い雑談の余白が残っているのに、余白の縁が今日はきりりと直線になっている。
彼が画面共有のボタンを押す。
青いUIが広がり、今週のタスクボードが整然と並ぶ。
声は、仕事の形に戻った。
数値、期限、割り当て、依存関係。
紙の上では美しい四角と矢印が、僕らの会話を枠取る。呼吸の浅さは、まだ残っている。
「十一時、先方の仕様確認。午後はテスト観点の二次。夕方の社内共有、今日のうちに叩きたい」
「はい、FAQの分岐も、語尾二系統で最新に合わせます」
「助かる」
助かる、の音の端が硬い。
硬さは、こちらの頬の内側に小さく当たって、すぐに溶ける。
溶けるけれど、今朝は、微かな塩味が残る。
五分ほど進行したところで、彼の視線がふと逸れた。チャット欄に何かが落ちてきたのだろう。「人事より:ハラスメント対策eラーニング受講のお願い」。あまりにもタイミングが悪い。いや、良すぎる、と言うべきか。彼は無言で通知を閉じ、わずかに長く息を吐いた。
カレンダーの九時半に小さな星印。社内の定例。
その星の尖りが、今日はやけに目に刺さる。
僕はカーソルでスライドの見出しをなぞりながら、自分の胸の内側にもう一本の線を引いた。会社の床にある黄色い注意の線。ホームの縁に沿って引かれた、安全のための境界。それを画面のこちら側に仮想で引く。指先が、空中で細い直線を描く。
十時になって、彼が短く言う。
「――五分、いい?」
「はい」
通話は切れない。マイクがいったんミュートになり、画面共有だけが動く。カーソルの動きが止まって、右下の彼の小窓が僕を見た。ミュートを外す音。
「遥」
「はい」
「言い方、下手だった。……“業務に集中しよう”って、距離を戻すみたいに聞こえるね」
「いえ」
「違うんだ。戻す、じゃなくて、守る。上司として」
守る。
その二音は柔らかく、同時に、胸骨の奥を内側から押す。
押されると、人は、呼吸を忘れる。
「守られる、って――」
言いかけて、喉の奥で言葉が空回る。
守られることが、こんなにも息苦しいなんて、初めて知った。
金曜の“忘れていい”は、僕の土曜を守ってくれた。守られたことで、僕は自由に走れた。けれど、今朝の“守る”は、僕の歩幅を半歩だけ短くする。たった半歩。けれど、その半歩の短さが、長い距離になる予感がする。
「俺、部下として失格ですか」
声が、自分でも驚くほど震えた。
画面の向こうで、彼の瞳が一瞬だけ大きくなる。すぐに戻る。
「……違う」
間髪入れず、彼は言った。
今朝いちばん迷いのない声だった。
「違う。ただ、上司として守りたいだけだ。君が、安心して“仕事の顔”でいられるように」
「俺は、守られないと仕事できない、ですか」
「そうじゃない。君は――」
言葉がそこで途切れた。
切ろうとしたわけではない。選ぼうとした。選び直そうとして、間に沈黙が落ちた。
その沈黙は、金曜の夜の氷の音の残響と重なる。
氷は、溶ける直前に一度だけ高く鳴る。
鳴って、消える。
残るのは水だけだ。
水は、形がない。
形がないから、器の形に従う。
「君は、俺と同じ場所に立てる人だよ、遥」
ようやく選ばれた言葉は、耳の奥でしずかに場所を取った。
同じ場所。
同じ画面、同じ九時、同じ五分。
“上司と部下”の線のこちら側と向こう側は、確かにある。
あるけれど、同じ床板の上だ。
「……だったら、線は、どう引きますか」
「線?」
「はい。会社の床に黄色い線があるみたいに。画面の上にも、心の中にも。どこに、どう引くかを、決めたいです」
言ってしまってから、指先が少し痺れた。
線は、境目を可視化する。
可視化は、責任を生む。
責任は、重い。
重いものを、今朝の僕は、あえて手に乗せる。
彼は頷いた。
「十五分だけ、線の話をしよう。会議の前に」
画面共有が止まり、白いメモアプリが開く。
タイトルに「線の仮置き」とだけ打たれ、箇条書きの点が五つ分、最初から用意される。
カーソルが点滅する。
その点滅は、小さな縦線だ。
縦線は、線の最小単位。
線の話をするのに、これ以上ふさわしい合図はない。
「一つめ」
彼が口にした。
「“九時の五分”は、これまでどおり。各自の部屋で同じ曲を流して、ミュートのまま画面を開く。これは、仕事のための儀式として扱う」
「はい」
「二つめ。業務時間外の通話は“事前に”決める。急を要しない夜の雑談は、今はしばらく避けよう。リリースや障害のときは、もちろん例外」
「了解です」
「三つめ。寝落ちしたら、切る。これは先週言ったとおり」
「はい。切ります」
「四つめ。プライベートのリンクは送らない。……送るなら、“今度”にする」
“今度”。
未来の仮置き場。
ふたりで何度も使った、やわらかい棚。
そこに置く、と言ってくれたことで、逆に少し息ができる。
「五つめ」
少しだけ間が空いた。
「――“守る”という言葉は、俺の側の都合で使わない。必要なら、“任せる”と言い直す」
胸の奥が、ひどく静かになった。
静かさは、広がる。
広がる先で、やっと息が落ち着く。
僕は、画面の中の白いメモに、もうひとつ小さく打ち込んだ。
「六つめ。どちらかが苦しくなったら、合図を出す。合図の文言は“黄色い線”。」
彼は一瞬黙り、すぐ笑った。
「それ、いいね。駅のホームみたいだ」
「踏み越えそうなときに、言います。“黄色い線”。」
「言って。……俺も言う」
“線”の話は、十五分で終わった。
終わったのに、終わっていない感覚が、胸に残った。
線は、引いた瞬間から、消え始める。
床に引いたチョークの線は、人の足音で薄れ、やがて消える。
だから、線は、何度でも引き直さなければならない。
引き直す行為そのものが、関係のメンテナンスであり、安心の技術だ。
十一時前、先方との確認は驚くほど滑らかに終わった。週末に洗い直した文言が、矛先を丸めたおかげだろう。彼の声は、通常の高さに近づき、相手の笑いは二度ほど漏れた。こちらの資料に「呼吸の場所」があると、向こうの呼吸も自然に整うのがわかる。
昼。
画面の向こうもこちらもカメラはオフ、マイクはミュート。
僕は冷蔵庫の端のレタスをちぎり、卵を落としてスープにして、食べながら考えた。
守られることが苦しいのは、守る側が悪いからではない。
守られる側が、自分の歩幅を自分で決めたいからだ。
歩幅を決める権利を、誰かの優しさが良心的に奪ってしまうとき、人は苦しくなる。
優しさは刃物ではないけれど、研げば光る。
光るほど、刺さらないように扱い方を学ぶ必要がある。
午後。
テスト観点の二次。
バグの仮説、再現手順、期待値、境界値。
“境界”という言葉が、今日はやけに多く画面に出てくる。
フォームに入力する文字列の境界。
日付の境界。
小数点以下の丸めの境界。
そして、“上司と部下”の境界。
それらは全部、線でできている。
線は、ときに人を守り、ときに人を閉じ込める。
鍵は、線の意味を共有することだ。
共有できない線ほど、鋭い罠はない。
十五時の連絡会。
担当者たちがそれぞれの進捗を短く投げ、彼が受け止めて、要点に直す。
画面の中で彼のカーソルは、迷いなく必要なセルに移動し、不要な装飾を削る。削られたところに、僕は薄く生活の言葉を置く。呼吸は合う。
会議の最後、彼が一瞬だけカメラをオフにした。すぐオンに戻る。
“黄色い線”の合図は、出なかった。
出なかったこと自体が、今日の収穫に思えた。
夕方。
社内共有の二ページを整え、数字の根拠を脚注に逃がす。逃がす、と書くと卑怯だが、伝えるための工夫だ。正しいものは、正しく置けば伝わるとは限らない。正しく置かれたものが伝わらないとき、人は伝え方を疑う。疑えないと、相手を疑う。相手を疑う代わりに、伝え方を変える。それが、仕事の倫理だ。
十八時を回り、通話を切る前の短い余白。
いつもなら「今日はここまで」「明日の九時に」の二言で終わるところだが、彼は少しだけ視線を外に向けて、戻してから口を開いた。
「……ありがとう。線の話、助かった」
「いえ。僕も楽になりました」
「楽、か」
「はい。線が見えていると、呼吸が楽です」
「呼吸の場所、ね」
「はい」
「今朝、遥が“部下として失格ですか”って言っただろう」
「言いました」
「その言葉が、俺にはいちばん苦しくて。君にそんな重さを感じさせたのは、俺の言い方のせいだ」
「違います。僕の、言い方です」
「責任の取り合いは、やめよう」
彼は小さく笑った。
「そのための線だ」
「はい」
「じゃあ、また明日、九時に」
「はい。……真澄さん」
「うん」
「“守る”って、上司の権利じゃないですよね」
「――うん。違う。任せてくれているあいだだけの、仮の役目」
「任せたくないときは、どうしますか」
「合図だ。“黄色い線”」
「了解です」
通話が切れ、青い光が部屋の白を取り戻す。
窓を少し開けると、夕方の風が薄く入り、鉢植えの葉が一度だけ音もなく揺れた。
机に肘を置き、額に手のひらを当てる。
“守られる”ことの息苦しさは、完全には消えていない。
けれど、息苦しさの形が見えたことで、胸の中の空気は少し動きやすくなった。
夜。
ベッドに横になっても、線の映像が頭の裏で残る。駅のホームの黄色い線。美術室のカッターマットに刻まれた方眼。道路の白線。ワードの画面で点滅するキャレット。
線は、世界を区切る道具であり、世界をつなぐガイドでもある。
僕は目を閉じて、その一本一本に指を触れる。
触れるたび、指の腹に細い冷たさが残り、やがて熱で薄れていく。
真っ暗な部屋の中、スマホが小さく震えた。
反射で画面を見る。
短いメッセージ。
明日の九時、曲、いつものやつで。
たったそれだけ。
それだけなのに、僕の胸に一本の線がひかれた気がした。
“いつもの”。
“同じ”。
“九時”。
これらの言葉は、境界であり、約束だ。
約束は、守るためだけにあるわけじゃない。
守られていると信じられる時間を、互いに持てるようにするためにある。
「了解です」と返したあと、僕はスマホを伏せ、暗闇の天井に向かって小さく息を吐いた。
金曜の氷の音は、もう響かない。
代わりに、月曜の朝に鳴るはずの、最初の和音が静かに胸の中で立ち上がる。
その和音の上に、薄い線を一本、そっと置く。
線は、見える。
見えるから、踏み越える前に気づける。
気づけるから、守らなくていいものまで守らずに済む。
――守るのではなく、任せる。
任せるのではなく、並ぶ。
並ぶために、線を引き直す。
そして、また、九時が来る。
*
火曜の朝、九時。
同じ曲が、各自の部屋で静かに鳴る。
画面がつながり、彼が現れ、僕も“おはようございます”を言う。
声は、いつもの高さ。
目の置き場も、いつもの場所。
ポスターの余白は白く、観葉植物の葉はつややかに。
何も変わらない。
けれど、一本の線が、昨日より細く、昨日より確かに、そこにある。
それだけで、今日の仕事は、昨日より少しだけ前に進む。
線は、最短距離のためにあるわけじゃない。
迷わないためにある。
迷いを減らすぶん、遠くまで歩ける。
遠くまで歩くうちに、線はまた薄れる。
薄れたら、二人で引き直す。
その繰り返しが、僕らの“業務”の、そして“業務外”の、技術になる。
彼が、画面の向こうで、目だけで笑った。
僕も笑う。
笑い合う間に、キャレットが点滅を少し速めて、やがて文字列が並び始める。
今日の九時は、ただの勤務開始時刻ではない。
“上司と部下”の線が見える朝だ。
見えるから、怖くない。
怖くないから、やさしくなれる。
やさしくなれるから、少しだけ、強くなれる。
その強さで、僕は最初のタスクをクリックした。
クリックの音が、線の上を軽く跳ね、軽やかに前へ進んでいった。
淹れたてのコーヒーから上がる湯気は、日曜の夜に残った甘さをゆっくり薄め、画面の青白さは、週末の影を壁の奥へ押しやる。窓の外は晴れ、ベランダの手すりには細い光の筋。先週の金曜、グラスの中で氷が鳴った音が、まだ胸のどこかに埋まっている気がした。
八時五十九分。
指先で前髪を整え、息をひとつ吐く。プレイリストの「同じ曲」をミュートで再生し、接続ボタンを押す。画面が切り替わり、僕らの日常が立ち上がるはずだった。
「……おはよう」
少し遅れて、彼が現れた。
桐谷――いや、真澄さんの声は、いつもよりわずかに乾いていた。渇きと言っても荒れているわけではない。ただ、表面に薄い膜が張られたみたいな反射を帯びている。シャツは白、襟はきちんと立ち、背景の観葉植物の緑も変わらない。けれど、目の置き場が、どこかぎこちない。
「おはようございます」
重ねた「おはようございます」が、ふつうならすぐに馴染むのに、今日は表面で跳ねて、なかなか沈まない。僕は、自分の声が半音だけ高くなっているのを自覚した。マイクの向こうで彼が小さく頷き、視線をモニターの左に滑らせる。共有の準備の合図だ。
「昨日の会議、助かった。あの二ページ、温度がちょうどよかった」
「ありがとうございます」
「――で」
一拍。
その短い無音に、週末の残響がひとつ落ちる音がした。
「……あの件は、業務に集中しよう」
あの件。
金曜の夜の、氷の音。
“二人だけの世界みたいだな”の“みたいだな”。
土曜の朝に届いた「昨夜のことは忘れていい」。
それらが、三文字の「件」に圧縮されて、今、机の上に置かれた。
「了解です」
口が勝手にそう言った。
了解、という音は便利だ。ほとんどの凹凸をならしてくれる。けれど、ならし過ぎると、感情の置き場を失う。画面の右上にある時計は九時二分。いつもなら、この時間には軽い雑談の余白が残っているのに、余白の縁が今日はきりりと直線になっている。
彼が画面共有のボタンを押す。
青いUIが広がり、今週のタスクボードが整然と並ぶ。
声は、仕事の形に戻った。
数値、期限、割り当て、依存関係。
紙の上では美しい四角と矢印が、僕らの会話を枠取る。呼吸の浅さは、まだ残っている。
「十一時、先方の仕様確認。午後はテスト観点の二次。夕方の社内共有、今日のうちに叩きたい」
「はい、FAQの分岐も、語尾二系統で最新に合わせます」
「助かる」
助かる、の音の端が硬い。
硬さは、こちらの頬の内側に小さく当たって、すぐに溶ける。
溶けるけれど、今朝は、微かな塩味が残る。
五分ほど進行したところで、彼の視線がふと逸れた。チャット欄に何かが落ちてきたのだろう。「人事より:ハラスメント対策eラーニング受講のお願い」。あまりにもタイミングが悪い。いや、良すぎる、と言うべきか。彼は無言で通知を閉じ、わずかに長く息を吐いた。
カレンダーの九時半に小さな星印。社内の定例。
その星の尖りが、今日はやけに目に刺さる。
僕はカーソルでスライドの見出しをなぞりながら、自分の胸の内側にもう一本の線を引いた。会社の床にある黄色い注意の線。ホームの縁に沿って引かれた、安全のための境界。それを画面のこちら側に仮想で引く。指先が、空中で細い直線を描く。
十時になって、彼が短く言う。
「――五分、いい?」
「はい」
通話は切れない。マイクがいったんミュートになり、画面共有だけが動く。カーソルの動きが止まって、右下の彼の小窓が僕を見た。ミュートを外す音。
「遥」
「はい」
「言い方、下手だった。……“業務に集中しよう”って、距離を戻すみたいに聞こえるね」
「いえ」
「違うんだ。戻す、じゃなくて、守る。上司として」
守る。
その二音は柔らかく、同時に、胸骨の奥を内側から押す。
押されると、人は、呼吸を忘れる。
「守られる、って――」
言いかけて、喉の奥で言葉が空回る。
守られることが、こんなにも息苦しいなんて、初めて知った。
金曜の“忘れていい”は、僕の土曜を守ってくれた。守られたことで、僕は自由に走れた。けれど、今朝の“守る”は、僕の歩幅を半歩だけ短くする。たった半歩。けれど、その半歩の短さが、長い距離になる予感がする。
「俺、部下として失格ですか」
声が、自分でも驚くほど震えた。
画面の向こうで、彼の瞳が一瞬だけ大きくなる。すぐに戻る。
「……違う」
間髪入れず、彼は言った。
今朝いちばん迷いのない声だった。
「違う。ただ、上司として守りたいだけだ。君が、安心して“仕事の顔”でいられるように」
「俺は、守られないと仕事できない、ですか」
「そうじゃない。君は――」
言葉がそこで途切れた。
切ろうとしたわけではない。選ぼうとした。選び直そうとして、間に沈黙が落ちた。
その沈黙は、金曜の夜の氷の音の残響と重なる。
氷は、溶ける直前に一度だけ高く鳴る。
鳴って、消える。
残るのは水だけだ。
水は、形がない。
形がないから、器の形に従う。
「君は、俺と同じ場所に立てる人だよ、遥」
ようやく選ばれた言葉は、耳の奥でしずかに場所を取った。
同じ場所。
同じ画面、同じ九時、同じ五分。
“上司と部下”の線のこちら側と向こう側は、確かにある。
あるけれど、同じ床板の上だ。
「……だったら、線は、どう引きますか」
「線?」
「はい。会社の床に黄色い線があるみたいに。画面の上にも、心の中にも。どこに、どう引くかを、決めたいです」
言ってしまってから、指先が少し痺れた。
線は、境目を可視化する。
可視化は、責任を生む。
責任は、重い。
重いものを、今朝の僕は、あえて手に乗せる。
彼は頷いた。
「十五分だけ、線の話をしよう。会議の前に」
画面共有が止まり、白いメモアプリが開く。
タイトルに「線の仮置き」とだけ打たれ、箇条書きの点が五つ分、最初から用意される。
カーソルが点滅する。
その点滅は、小さな縦線だ。
縦線は、線の最小単位。
線の話をするのに、これ以上ふさわしい合図はない。
「一つめ」
彼が口にした。
「“九時の五分”は、これまでどおり。各自の部屋で同じ曲を流して、ミュートのまま画面を開く。これは、仕事のための儀式として扱う」
「はい」
「二つめ。業務時間外の通話は“事前に”決める。急を要しない夜の雑談は、今はしばらく避けよう。リリースや障害のときは、もちろん例外」
「了解です」
「三つめ。寝落ちしたら、切る。これは先週言ったとおり」
「はい。切ります」
「四つめ。プライベートのリンクは送らない。……送るなら、“今度”にする」
“今度”。
未来の仮置き場。
ふたりで何度も使った、やわらかい棚。
そこに置く、と言ってくれたことで、逆に少し息ができる。
「五つめ」
少しだけ間が空いた。
「――“守る”という言葉は、俺の側の都合で使わない。必要なら、“任せる”と言い直す」
胸の奥が、ひどく静かになった。
静かさは、広がる。
広がる先で、やっと息が落ち着く。
僕は、画面の中の白いメモに、もうひとつ小さく打ち込んだ。
「六つめ。どちらかが苦しくなったら、合図を出す。合図の文言は“黄色い線”。」
彼は一瞬黙り、すぐ笑った。
「それ、いいね。駅のホームみたいだ」
「踏み越えそうなときに、言います。“黄色い線”。」
「言って。……俺も言う」
“線”の話は、十五分で終わった。
終わったのに、終わっていない感覚が、胸に残った。
線は、引いた瞬間から、消え始める。
床に引いたチョークの線は、人の足音で薄れ、やがて消える。
だから、線は、何度でも引き直さなければならない。
引き直す行為そのものが、関係のメンテナンスであり、安心の技術だ。
十一時前、先方との確認は驚くほど滑らかに終わった。週末に洗い直した文言が、矛先を丸めたおかげだろう。彼の声は、通常の高さに近づき、相手の笑いは二度ほど漏れた。こちらの資料に「呼吸の場所」があると、向こうの呼吸も自然に整うのがわかる。
昼。
画面の向こうもこちらもカメラはオフ、マイクはミュート。
僕は冷蔵庫の端のレタスをちぎり、卵を落としてスープにして、食べながら考えた。
守られることが苦しいのは、守る側が悪いからではない。
守られる側が、自分の歩幅を自分で決めたいからだ。
歩幅を決める権利を、誰かの優しさが良心的に奪ってしまうとき、人は苦しくなる。
優しさは刃物ではないけれど、研げば光る。
光るほど、刺さらないように扱い方を学ぶ必要がある。
午後。
テスト観点の二次。
バグの仮説、再現手順、期待値、境界値。
“境界”という言葉が、今日はやけに多く画面に出てくる。
フォームに入力する文字列の境界。
日付の境界。
小数点以下の丸めの境界。
そして、“上司と部下”の境界。
それらは全部、線でできている。
線は、ときに人を守り、ときに人を閉じ込める。
鍵は、線の意味を共有することだ。
共有できない線ほど、鋭い罠はない。
十五時の連絡会。
担当者たちがそれぞれの進捗を短く投げ、彼が受け止めて、要点に直す。
画面の中で彼のカーソルは、迷いなく必要なセルに移動し、不要な装飾を削る。削られたところに、僕は薄く生活の言葉を置く。呼吸は合う。
会議の最後、彼が一瞬だけカメラをオフにした。すぐオンに戻る。
“黄色い線”の合図は、出なかった。
出なかったこと自体が、今日の収穫に思えた。
夕方。
社内共有の二ページを整え、数字の根拠を脚注に逃がす。逃がす、と書くと卑怯だが、伝えるための工夫だ。正しいものは、正しく置けば伝わるとは限らない。正しく置かれたものが伝わらないとき、人は伝え方を疑う。疑えないと、相手を疑う。相手を疑う代わりに、伝え方を変える。それが、仕事の倫理だ。
十八時を回り、通話を切る前の短い余白。
いつもなら「今日はここまで」「明日の九時に」の二言で終わるところだが、彼は少しだけ視線を外に向けて、戻してから口を開いた。
「……ありがとう。線の話、助かった」
「いえ。僕も楽になりました」
「楽、か」
「はい。線が見えていると、呼吸が楽です」
「呼吸の場所、ね」
「はい」
「今朝、遥が“部下として失格ですか”って言っただろう」
「言いました」
「その言葉が、俺にはいちばん苦しくて。君にそんな重さを感じさせたのは、俺の言い方のせいだ」
「違います。僕の、言い方です」
「責任の取り合いは、やめよう」
彼は小さく笑った。
「そのための線だ」
「はい」
「じゃあ、また明日、九時に」
「はい。……真澄さん」
「うん」
「“守る”って、上司の権利じゃないですよね」
「――うん。違う。任せてくれているあいだだけの、仮の役目」
「任せたくないときは、どうしますか」
「合図だ。“黄色い線”」
「了解です」
通話が切れ、青い光が部屋の白を取り戻す。
窓を少し開けると、夕方の風が薄く入り、鉢植えの葉が一度だけ音もなく揺れた。
机に肘を置き、額に手のひらを当てる。
“守られる”ことの息苦しさは、完全には消えていない。
けれど、息苦しさの形が見えたことで、胸の中の空気は少し動きやすくなった。
夜。
ベッドに横になっても、線の映像が頭の裏で残る。駅のホームの黄色い線。美術室のカッターマットに刻まれた方眼。道路の白線。ワードの画面で点滅するキャレット。
線は、世界を区切る道具であり、世界をつなぐガイドでもある。
僕は目を閉じて、その一本一本に指を触れる。
触れるたび、指の腹に細い冷たさが残り、やがて熱で薄れていく。
真っ暗な部屋の中、スマホが小さく震えた。
反射で画面を見る。
短いメッセージ。
明日の九時、曲、いつものやつで。
たったそれだけ。
それだけなのに、僕の胸に一本の線がひかれた気がした。
“いつもの”。
“同じ”。
“九時”。
これらの言葉は、境界であり、約束だ。
約束は、守るためだけにあるわけじゃない。
守られていると信じられる時間を、互いに持てるようにするためにある。
「了解です」と返したあと、僕はスマホを伏せ、暗闇の天井に向かって小さく息を吐いた。
金曜の氷の音は、もう響かない。
代わりに、月曜の朝に鳴るはずの、最初の和音が静かに胸の中で立ち上がる。
その和音の上に、薄い線を一本、そっと置く。
線は、見える。
見えるから、踏み越える前に気づける。
気づけるから、守らなくていいものまで守らずに済む。
――守るのではなく、任せる。
任せるのではなく、並ぶ。
並ぶために、線を引き直す。
そして、また、九時が来る。
*
火曜の朝、九時。
同じ曲が、各自の部屋で静かに鳴る。
画面がつながり、彼が現れ、僕も“おはようございます”を言う。
声は、いつもの高さ。
目の置き場も、いつもの場所。
ポスターの余白は白く、観葉植物の葉はつややかに。
何も変わらない。
けれど、一本の線が、昨日より細く、昨日より確かに、そこにある。
それだけで、今日の仕事は、昨日より少しだけ前に進む。
線は、最短距離のためにあるわけじゃない。
迷わないためにある。
迷いを減らすぶん、遠くまで歩ける。
遠くまで歩くうちに、線はまた薄れる。
薄れたら、二人で引き直す。
その繰り返しが、僕らの“業務”の、そして“業務外”の、技術になる。
彼が、画面の向こうで、目だけで笑った。
僕も笑う。
笑い合う間に、キャレットが点滅を少し速めて、やがて文字列が並び始める。
今日の九時は、ただの勤務開始時刻ではない。
“上司と部下”の線が見える朝だ。
見えるから、怖くない。
怖くないから、やさしくなれる。
やさしくなれるから、少しだけ、強くなれる。
その強さで、僕は最初のタスクをクリックした。
クリックの音が、線の上を軽く跳ね、軽やかに前へ進んでいった。
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強気受け
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高校二年生。見た目ふわふわエンジェルでとても可愛らしい。だけど口が悪い。溺愛している妹たちに対しては信じられないほどに優しい。手芸大好き。大好きな妹たちの推しが永瀬なので、嫉妬して永瀬のことを嫌いだと思っていた。だけどやがて――。
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イケメンスパダリ地方アイドル
溺愛攻め
永瀬翔(ながせかける)
優心のクラスメイト。地方在住しながらモデルや俳優、動画配信もしている完璧イケメン。優心に想いをひっそり寄せている。優心と一緒にいる時間が好き。前向きな言動多いけれど実は内気な一面も。
恋をして、ありがとうが溢れてくるお話です🌸
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お読みくださりありがとうございます
可愛い両片思いのお話です✨
表紙イラストは
ミカスケさまのフリーイラストを
お借りいたしました
✨更新追ってくださりありがとうございました
クリスマス完結間に合いました🎅🎄
バツイチ上司が、地味な僕を特別扱いしてくる
衣草 薫
BL
理性的でクールなバツイチ上司・桐原恒一は、過去の失敗から、もう誰も必要としないと決めて生きてきた。
男が好きだという事実を隠し、「期待しなければ傷つかない」と思い込んできた部下・葉山直。
すれ違いと誤解の果てに、直が職場を去ろうとしたとき、恒一は初めて“追いかける”ことを選ぶ。
選ばれないと信じてきた直と、逃げないと決めた恒一。
二人の距離が近づくことで、直は「ここにいていい」と思える場所を見つけていく。
元ノンケ上司×自己肯定感低め部下の社会人BL。※ハッピーエンド保証。
雪色のラブレター
hamapito
BL
俺が遠くに行っても、圭は圭のまま、何も変わらないから。――それでよかった、のに。
そばにいられればいい。
想いは口にすることなく消えるはずだった。
高校卒業まであと三か月。
幼馴染である圭への気持ちを隠したまま、今日も変わらず隣を歩く翔。
そばにいられればいい。幼馴染のままでいい。
そう思っていたはずなのに、圭のひとことに抑えていた気持ちがこぼれてしまう。
翔は、圭の戸惑う声に、「忘れて」と逃げてしまい……。
『定時後の偶然が多すぎる』
こさ
BL
定時後に残業をするたび、
なぜか必ず同じ上司が、同じフロアに残っている。
仕事ができて、無口で、社内でも一目置かれている存在。
必要以上に踏み込まず、距離を保つ人――
それが、彼の上司だった。
ただの偶然。
そう思っていたはずなのに、
声をかけられる回数が増え、
視線が重なる時間が長くなっていく。
「無理はするな」
それだけの言葉に、胸がざわつく理由を、
彼自身はまだ知らない。
これは、
気づかないふりをする上司と、
勘違いだと思い込もうとする部下が、
少しずつ“偶然”を積み重ねていく話。
静かで、逃げ場のない溺愛が、
定時後から始まる。
【完結・BL】春樹の隣は、この先もずっと俺が良い【幼馴染】
彩華
BL
俺の名前は綾瀬葵。
高校デビューをすることもなく入学したと思えば、あっという間に高校最後の年になった。周囲にはカップル成立していく中、俺は変わらず彼女はいない。いわく、DTのまま。それにも理由がある。俺は、幼馴染の春樹が好きだから。だが同性相手に「好きだ」なんて言えるはずもなく、かといって気持ちを諦めることも出来ずにダラダラと片思いを続けること早数年なわけで……。
(これが最後のチャンスかもしれない)
流石に高校最後の年。進路によっては、もう春樹と一緒にいられる時間が少ないと思うと焦りが出る。だが、かといって長年幼馴染という一番近い距離でいた関係を壊したいかと問われれば、それは……と踏み込めない俺もいるわけで。
(できれば、春樹に彼女が出来ませんように)
そんなことを、ずっと思ってしまう俺だが……────。
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久しぶりに始めてみました
お気軽にコメント頂けると嬉しいです
■表紙お借りしました
龍の無垢、狼の執心~跡取り美少年は侠客の愛を知らない〜
中岡 始
BL
「辰巳会の次期跡取りは、俺の息子――辰巳悠真や」
大阪を拠点とする巨大極道組織・辰巳会。その跡取りとして名を告げられたのは、一見するとただの天然ボンボンにしか見えない、超絶美貌の若き御曹司だった。
しかも、現役大学生である。
「え、あの子で大丈夫なんか……?」
幹部たちの不安をよそに、悠真は「ふわふわ天然」な言動を繰り返しながらも、確実に辰巳会を掌握していく。
――誰もが気づかないうちに。
専属護衛として選ばれたのは、寡黙な武闘派No.1・久我陣。
「命に代えても、お守りします」
そう誓った陣だったが、悠真の"ただの跡取り"とは思えない鋭さに次第に気づき始める。
そして辰巳会の跡目争いが激化する中、敵対組織・六波羅会が悠真の命を狙い、抗争の火種が燻り始める――
「僕、舐められるの得意やねん」
敵の思惑をすべて見透かし、逆に追い詰める悠真の冷徹な手腕。
その圧倒的な"跡取り"としての覚醒を、誰よりも近くで見届けた陣は、次第に自分の心が揺れ動くのを感じていた。
それは忠誠か、それとも――
そして、悠真自身もまた「陣の存在が自分にとって何なのか」を考え始める。
「僕、陣さんおらんと困る。それって、好きってことちゃう?」
最強の天然跡取り × 一途な忠誠心を貫く武闘派護衛。
極道の世界で交差する、戦いと策謀、そして"特別"な感情。
これは、跡取りが"覚醒"し、そして"恋を知る"物語。
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