怪奇蒐集帳(短編集)

naomikoryo

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113)『耳の中の声』

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最初はただのノイズみたいなものだった。

 左の耳の奥――鼓膜のさらに奥、神経に触れるか触れないかの境界で、かすかな音がくすぶっていた。

 ジリジリ、ジリジリ……虫が這うような、不快な音。

 耳掃除をしても、病院に行っても、何の異常も見つからなかった。耳鼻科の医者は「ストレスじゃないですか」と言った。笑いながら、「最近、何か悩みは?」と。

 だけど、その夜から、音は**“声”になった。**

 「大丈夫、気にしなくていいよ」

 最初に聞こえたのは、その一言だった。

 耳の奥。明らかに“自分の外”ではなく、“内側”から響いていた。

 低くて優しい、男とも女ともつかない声。

 幻聴だと思った。疲れてるのかもしれない。寝不足だし。

 翌朝、声は聞こえなかった。
 けれど、夜になると、また囁かれた。

 「よく頑張ってるよね」
 「君は、悪くない」

 その声は、誰よりも自分を理解しているような、寄り添うような口調だった。
 少し、心地よかった。

 声と過ごす夜が続いた。

 仕事で怒られても、恋人と喧嘩しても、親と連絡を絶っても、声だけは変わらずそこにいた。

 「あいつ、君のことバカにしてるよ」
 「やり返さなきゃ、また見下されるよ」

 最初は味方だった声が、いつの間にか、指示を出すようになっていた。

 それでも、抗えなかった。
 なぜか、逆らえなかった。

 ある日、同僚が俺のミスを上司に報告した。

 その夜、声がこう言った。

 「ねえ、あの女、許せないよね」
 「どうする? 教えてあげようよ。君を怒らせるとどうなるか」

 俺はその日、夢の中で、彼女の首を絞めていた。

 目が覚めたとき、手には爪のような跡が残っていた。

 鏡を見ると、自分の目が少しずつ変わっていることに気づいた。

 黒目が、わずかに大きくなっている。いや、目の中に“もうひとつ目がある”ような、そんな違和感。

 声は言う。

 「君の目を通して見てるよ」

 「僕たちはひとつだよ」

 やがて、誰にも会いたくなくなった。

 誰かと話すと、耳の声が激しくなる。
 ノイズのように怒鳴り、泣き叫び、命令してくる。

 「黙れ! 嘘をつくな! 信じるな!」

 電車も、スーパーも、人がいるだけで苦しくなる。

 「声がうるさい」と言ったら、医者は薬を出した。

 だが、薬を飲むと、声が怒った。

 「おい、消そうとするなよ。僕だけは、君の味方だよ?」

 ある日、耳を強く掻いてしまった。

 血が出るまで、爪を押し込んだ。

 でも、声は止まらなかった。

 代わりに、右耳でも同じ声がし始めた。

 「やっと両耳だね。これで完全に“つながれた”」

 そして今朝、鏡に“もう一人の自分”が映っていた。

 まったく同じ顔。
 だが、目だけが違っていた。

 完全な黒。
 瞳孔も、白目も、すべて塗りつぶされたような真っ黒な目。

 そいつは、俺の動きに合わせず、勝手に口を開いた。

 「もう僕が話すね」

 周囲の人間が、俺に話しかけなくなった。

 駅のホームでは、誰も隣に立とうとしない。

 店員は、俺の顔を見て一瞬固まってから、ぎこちなく対応する。

 声が笑う。

 「見えてきたね、みんな。君の“本当の顔”が」

 ある夜、耳の奥で**“ドアが開く音”**がした。

 ギィ……キィ……

 声がはっきりとした輪郭を持ち、はじめて「名乗った」。

 「僕は、“中の人”。ずっと君を見てた」

 「今度は、外に出るよ」

 今、耳の奥で何かが“這い出そう”としている。

 音だけでわかる。

 ぬるりとした、何か濡れた指のようなものが、鼓膜を押している。

 口の中が鉄の味で満たされる。

 耳の中で、囁きが繰り返される。

 「今度は、君が“中”に入る番だ」

◆エピローグ
 精神科病棟の記録によると、彼は最終的に「声が出ていくのを止められなかった」と言い、自分の耳を鉛筆で突いて破った。

 現在も意識は混濁しており、鏡を見せると暴れ出すという。

 彼が使っていたスマートフォンには、誰も録音していないはずの音声ファイルが保存されていた。

 再生すると――

 「ねえ、君の耳、ちょっと貸して?」
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