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木立 花音

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第一章「あたしが再び羽ばたくために」

【紬が羽ばたくところ、もう一度見たいよ?(2)】

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 紗枝ちゃんが、足取りも軽く歩いていく。今度の場所はすぐ近くなので、徒歩で向かうのだとか。

「さあ着いた。ここだよ」

 十分ほど歩いて着いた場所は、周囲を堀で囲まれた、芝生と木々が多い風光明媚な公園だった。

「噴水とかレストランとか見たい場所は結構あるけど、観光は昼からにしてまずは走ろうか」
「走る……? そんな、とりあえずお茶でもしようか、みたいなテンションで言われても」

 また突飛なことを言い出した。ちょっと意味がわからない。
 空を覆っていた薄い雲は、いつの間にかすっかり消えていた。薄衣をまとったみたいな水色の空が頭上に広がる。天候は良いが暑すぎず、走るのには絶好のコンディションだ。
 なのだけれど。

「これからバドミントン部として活動していくんだから、体力作りは必須でしょう?」
「いや、そうだけど。そもそもあたしは……」
「肩が上がらない。だからバドミントンは続けられない。そうなんだよね?」
「そうだよ」

 ――私と組んでダブルスやろうよ。

 心の言葉が脳裏にちらついて、一瞬言葉に詰まる。

「まあ、どんなスポーツをやるとしても、体力はあったほうがいいでしょ? というわけで、難しいことは抜きにして走ろうか」

 そう言って、紗枝ちゃんが先行して駆けだした。勝手だ。本当に勝手な子だ彼女は。
 確かに走っているうちに気が紛れるかもしれないけれど。
 実のところ、昨日からずっと悩みっぱなしなんだ。もう、絶対に握ることはないと思っていたラケットを握り、かつてのライバルだった心と試合をして、あまつさえ、「楽しい」などと考えてしまった自分に困惑している。
 あたしに、バドミントンを続ける意味なんてないのに。
 勝てなければ、意味なんてないのに。
 頬を撫でる風が心地よい。思えば走るのも久しぶりだ。あの頃は、早起きをして毎日走っていたもんだ。
 コースは一周3.7キロあるらしい。
 走っている人の姿がそこそこある。紗枝ちゃんの走るペースは結構速く、ゆっくりジョギングをしている人たちを次々と追い抜いていく。
 なるほど。動きやすい服装がいいよと言ったのはこのためなのか。
 いや、それにしても速いなあ……。
 これでもずっとスポーツをやってきた人間だ。走るのにはそれなりに自信がある。それなのに、ついていくのがやっとだなんて。
 横に並ぼうと考えているのだが、紗枝ちゃんのペースが思いのほか速くてなかなか隣に出られない。というか、横に並んだり前に出たりしたところで、自分にペースを作れる自信がない。だからついていくだけになる。
 陸上競技には明るくないが、紗枝ちゃんの走るフォームは綺麗だと思う。
 つま先、あるいは足全体で、重心の真下で着地している。接地時間が短くなるので、筋肉への負担が軽くなるのだ。
 腰の位置は高め。肘の角度は九十度で、力みなくリラックスして振っている。
 腰や膝への負担が軽くなるフォームを作れているからか、走り始めから高めのペースをずっと維持している。
 紗枝ちゃんは、涼しい顔を崩さずに走っている。逆に、あたしは段々息が上がり始める。コースを三周回ったあたりでじわりじわりと差が付き始めて、たまらず彼女の背中に声をかけた。

「紗枝ちゃん、そろそろ一回休もうよ」

 スロージョギングくらいまでペースを落とし、紗枝ちゃんが振り向いた。

「そうだね、いったん休もうか」
「いったん……?」

 まさか、まだ走るつもりなの?

 走ったあとに炭酸を過剰摂取するのはあまりよくないのだが、喉の渇きに耐えられなくて炭酸水をがぶ飲みした。
 ベンチに腰掛けて「ぶはー」と息を吐くと、隣の紗枝ちゃんがくく、と笑った。彼女はひと仕事終えたみたいな爽やかな顔で、ミネラルウォーターを飲んでいる。
 中学の頃は十キロくらい走ったところでなんともなかったのに、音を上げてしまうとは我ながら情けない。

「もしかして、なんだけどさ」

 息を整えながら話していく。

「紗枝ちゃんって、中学時代は陸上部だったの?」
「ふふふ、やっぱりわかっちゃったか」

 こちらの顔色をうかがうみたいに瞳をすっと細め、「そうだよ」と紗枝ちゃんが同意した。

「私が陸上を始めたのは小学四年の頃かな。結構キャリア長いでしょ?」

 だからか。あたしが心から逃げたあの日、全力で逃げるあたしと追跡する心の後を追いかけてきていたわりに、紗枝ちゃんの息はこれといって乱れていなかった。

「そうなんだ。全然知らなかった」
「言ってないからね」
「うん。それはわかった。でも、なんであたしをここに?」
「私が走っているところを見て、紬っちはどう思った?」

 意図せず質問が返ってきて、軽く困惑してしまう。どう思った、か。

「そうだね。楽しそう、だったかな」
「えへへ、そうだね。とっても楽しかった」

 あまりにも屈託なく笑うから、それだけにおかしいって感じてしまう。

「紗枝ちゃんは陸上が好きなんだね。でも、じゃあなんで、陸上部じゃなくてバドミントン部入るの?」
「ふふふ、ちょっと事情がありましてね」

 紗枝ちゃんが、目を細めて空を見上げた。

「小学六年生のとき、学校一速いランナーが私だった。中学に入ってすぐ、千歳市ちとせしの駅伝選抜チームに選ばれアンカーを務めた」

 そういえば、紗枝ちゃんは千歳の出身だと言っていた。

「でもね。そこが、私のピークだった」

 自分が天才だと思えていたのは、はたして何歳までだったかな、と寂しそうな顔で紗枝ちゃんが言う。
 小学生のとき、クラスでは一番足が速かった。地区で行われる駅伝大会に、小学校で選抜チームを組んで参加することになり、そこのメンバーに紗枝ちゃんは選ばれる。
 その大会で区間一位の記録を残し、チームを優勝に導いたのだという。
「才能があるよ」と周囲から持て囃され、中学では陸上部に入ることに。
 新入部員の中で、彼女は群を抜いて速かった。フォームの美しさをみんなに褒められ、飲み込みの早さをコーチに絶賛された。走れば走るほど、タイムはぐんぐん伸びていった。

「成長にブレーキがかかったのは、中学二年の春だった」

 紗枝ちゃんは、いわゆる『早熟』な選手だった。
 小学生の頃は大柄だった身長も、中一の時点で全国平均程度に落ち着いていた。それから二年経っても、身長はわずか数センチしか伸びなかった。
 周りがぐんぐん背を伸ばす中、自分だけが取り残される。焦った紗枝ちゃんは、筋力でカバーしようと筋トレに励んだ。だが、無理なトレーニングが祟ったのか、身体のバランスが崩れ、膝を中心に故障が目立つようになった。身長の伸びが止まったのと比例するように、タイムの向上もぴたりと止まってしまった。
  
「私にとって、他の人より速く走れることが唯一のアイデンティティだった。それが崩れてしまって、だんだん陸上が嫌いになったの」  

『早熟』な選手は、遅咲きの選手にあらゆる面で追い抜かれていくことが多い。
 できないことが増えるたび、モチベーションは下がる一方だ。トップレベルから少しずつ転落していく。

「うん。その辛さ、わかるよ」

 なんとなく、紗枝ちゃんの境遇が自分の経験と重なった。  

「中学一年のとき、千歳の選抜チームで走ったって言ったでしょ? その段階ですでに平凡なタイムしか出せなくなり始めていたんだけど、その後は駅伝の選手になることすらできなかった。だから私は、中三のとき陸上部を辞めたの。最後の大会を前にしてね」
「でも、紗枝ちゃんすごく速かったよ。ついていくのが精一杯だった」
「ありがと。まあ、さすがに本職じゃない人には負けないよ。今だって、毎朝三キロ以上走っているし」
「え!? 毎朝走っているの?」
「そうだよー」

 それでか。朝目覚めるといつも紗枝ちゃんがいないのは。

「部活はやめたけど、私は走ること自体は好きだったからね。私が嫌いだったのは競技としての陸上。数字ばかりを追いかけてしまって、タイムが伸びない自分のことを許せなくなっちゃったんだよね」
「わかるよ、その気持ち」

 小学生で初めて全国大会に出場し、そのときあたしは一つの確信を得た。
 あたし――仁藤紬は天才なのだと。
 中学時代も、押しも押されもせぬ旭川第一のエースとして賞賛をあび続けた。
 しかし、それはすでに過去の名声。そうじゃなくなった自分のことが、許せないんだ。

「紬っちは、バドミントン好きなんでしょ?」
「あたし? ――いや」

 どうなんだろう。もう、バドミントンはできないし、やろうとは思わない。夢だって捨てた。でも、彼女と同じで、あたしが嫌いになったのは、競技としてのバドミントンなのかもしれない。
 勝てなくなったから。

「ラケットの選び方の説明、すごくわかりやすかったよ。ああ、やっぱりすごく勉強してきたんだろうなって思った」
「いや、経験者なら誰でも知っているようなことだから」
「それでもだよ。それに、心ちゃんと試合をしていたときも、なんか楽しそうだった。目がきらきらしているっていうか! 二人で秘密の会話をしているみたいでさ、入っていけない空気を感じた。なんか嫉妬しちゃう」
「いや、別に嫉妬はしないでしょ」
「あ、私にも炭酸飲ませて?」

 紗枝ちゃんが、あたしから炭酸飲料を受け取って一口だけ飲んだ。

「おいしー。……えへへ、間接キスになっちゃったね?」

 濡れた桜色の唇を指でなぞって、紗枝ちゃんが甘ったるく笑う。
 こんな顔で微笑まれたら、男の子なら恋に落ちるのだろうか。紗枝ちゃんって、こうしてみると美形だし、案外モテそうだ。

「楽しそうだった……かあ。まあ、確かにそうなのかな。久しぶりに体を動かしたから、ストレス発散にはなったしね。でも、やっぱり心には勝てなかった。スマッシュを打てないんじゃ、勝てるわけがないからね」
「勝てなかったらさ、やる意味ってないの?」

 心臓に杭を打ち込まれたみたいに、ずきりと胸のあたりが痛んだ。
 昨日から悩み続けていたことを、改めて指摘された気がした。

「意味がない、とまでは思わないけど……やるからには勝たなければ意味ないでしょ。勝利を求めるのは普通のことだよ」
「そうだね。そうだと私も思うよ。……お腹空いてきたしさ、歩きながら話そうか」

 飲み終えたシュースの空き缶を、くずかごに捨ててから二人で歩き始める。さっきとは打って変わって、ゆったりとした足取りで。
 私はね、と紗枝ちゃんが言う。

「たぶん、紬っちがそうだったように、勝つことにすごくこだわっていたの。その結果、陸上競技そのものが嫌いになってしまった。長距離で芽が出なかったとしてもさ、他にもっと競技はあったのにだよ? その気になれば、短距離に転向することだってできたはずだ。それだけじゃない。ハードル走とか、走り幅跳びとか、走り高跳びとか、いろいろあったはずだ。それなのに、走ることは好きだったはずなのに、私は陸上競技全般から遠ざかってしまった」

 のんびり歩いているあたしたちを、他のランナーたちが追い越していく。『早熟』だった彼女を、中学時代他の選手たちが追い越していったように。

「だからさ、試合をしているとき楽しそうな顔をしている紬っちを見て、ああ、この子はほんとにバドミントンが好きなんだなーってそう思ったの」

 さっき聞いたのと同じような台詞を、紗枝ちゃんが繰り返した。

「羨ましいなって、そう思ったの」
「羨ましい? あたしが?」

 紗枝ちゃんがぴたりと足を止める。合わせてあたしも立ち止まった。

「陸上に、他にもっと競技があるのと同じように、バドミントンにも力を合わせて戦う競技があるんでしょ?」
「ダブルス、だね」
「ほんの数パーセントでもいい。バドミントンを続けられる可能性があるのなら、チャレンジしてみてもいいんじゃないの?」

 立ち止まっているあたしたちを、ランナーたちが追い越していく。一人、また一人と。さっき追い抜いたはずのランナーが今度はあたしたちを置き去りにしていく。
 どんなに速く走っていても、足を止めてしまったらそこで終わりだ。立ち止まっているうちに、努力している人たちに追い抜かれていく。
 バドミントンをやめてしまった今のあたしと、同じだ。
 勝たなければ意味はない。勝利を重ねた先でしか、全国の舞台にたどり着くことはできないのだから。ダブルスに転向したら、すべてが振り出しに戻ってしまう。個人競技ではないから、あたし一人でどうこうできるものでもない。
 それでも、夢が繋がる可能性がわずかでもあるのなら、すがってもいいのだろうか。
 母としたあの約束を、叶えたいと願ってしまってもいいのだろうか。

「本当は、バドミントンやりたいって思ってるんでしょ?」

 心の言葉と、紗枝ちゃんの情熱に背を押され、ついにあたしは頷いた。「うん」と。
 本当は、心のどこかで気づいていた。
 ダブルスをやろう、と心に言われたあの瞬間に、もう一度飛びたいと願ってしまったことに。

「よし決まり! ならやろうよバドミントン! 紬っちが飛べないときは、私が代わりに翼になるから。私にバドミントン教えて?」

 眼前に広がった空は快晴だ。
 まるでビー玉みたいに澄んだ紗枝ちゃんの黒い瞳が、青空によく映えた。
 ――必ず、全国の頂点に立つ。
 あの日、母と交わした約束。
 もう、叶えられないと悟ったから、捨て去った夢。
 もしかして、諦めなくてもいいの?
 頂点に立つため、もう一度あたしは。

 月曜日。あたしはバドミントン部に入部届けを出した。
 再び、風をまとうために。
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