初恋エンジン‼︎ー武蔵社宅の少年少女の日々ー

藤沢 南

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3月19日日曜 その10

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「カチャリ」ロックを外す音がしてドアが開いた。
「おかえりなさーい。」見事に声色が揃っている。なんて家だ。僕はビビった。

「津山君、いらっしゃい。」
ゆっこのお母さんだ。初めてお目にかかる彼女の母親は、僕の母よりもずっと顔色が良く、恰幅も良かった。かと言って太っているわけでもなく、健康そうなお母さんだった。

「はじめまして。…侑子さんの同級生、津山孝典です。お邪魔いたします。」
僕は靴を脱いで、さっと揃えた。この辺りは、新聞販売店のおやっさんにも仕込まれた事だった。冬に、販売店の奥のストーブのある部屋に入る時には、靴を揃えるよう厳しく注意された。

「おお。君が津山くんか。」ゆっこのお父さんだ。うちの父よりがっしりしている。
「孝太、津山くんの事、覚えているか?」お父さんは孝太、と言う男の子に問い掛けた。弟さんだろう。小学1年ぐらいか。
「あんまり。でも、迷子になった僕を助けてくれた人だよね。ありがとう。」孝太くんは無邪気に僕の手を握った。

  僕は孝太くんの手を握り返し、古河から聞いた話を思い出していた。…そうか、この人達は、僕がゆっこを好きになる前から、ずっと僕の事を知っていたのだな。お母さんが話を続けた。
「本当にその節はありがとうございました。私達も、引っ越してきたばかりで、孝太がいなくなったと、本当に心配して。心配して。あなたの事を新聞販売店のおじさんから聞いて、いつかお礼をしなくちゃと思っていたんだけど、なかなか機会がなくって。…そのまま、とうとう、こんなお別れの直前になってしまって。本当に何と御礼を申し上げて良いやら。」

僕は、何と返したものかわからず、ただうなずくしかなかった。ただ、あの日、新聞販売店から家に帰ったら、母が救急車に乗せられていた。だから、孝太くんの事は、いくら思い出そうとしても思い出せなかった。僕の脳裏に残るのは、事態が理解できず、母の病院に付き添うこともできず、となりの部屋のおばさんの作ってくれた夕食をいただいて、弟とともに寂しさと不安の中、母の無事を祈るしかなかった。…切ない春の夜だった。

「お母さん、津山くんが戸惑っているから、もうそのお話はそのへんでいいだろう。侑子からも聞いただろう。津山くんのお母さんが、その日、大変な状況だったって。」

…僕はお父さんの声で我に帰った。あの切ない春の夜を思い出している間に、お母さんは、結構その時のこと、孝太くんが道に迷い、県道の横道のけもの道の奥深くに入っていってしまった事を長々と語っていたようだった。たまたまその時に、僕が通りかかったようだ。でも、僕はそのけもの道での事すら覚えていない。それほど母の事で頭がいっぱいだったからだ。
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