婚約者の前で奪われる!?王太子が僕の番だった夜

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名前という距離

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 紅茶の香りが、まだ指先に残る緊張を少しだけ和らげてくれる。

 僕は静かにカップを持ち、恐る恐る一口すすった。香り高く、渋みもほどよくて、思ったよりも飲みやすい。

 カップを机にそっと置き、少し息をつく。

「……お話とは、なんでしょうか、王太子殿下?」

 僕の問いに、王太子殿下は、柔らかく笑った。

「いくつか話したいことはあるが……まずは、その呼び方をやめてくれ」

 その声音は穏やかだったが、不思議と有無を言わせぬ響きを含んでいる。

「私のことは“エリオット”と呼んでほしい」

「……え?」

 思わず間の抜けた声が出てしまった。まるで耳を疑ったように。

 けれど、殿下の瞳はまっすぐで、からかいの色など一切ない。

「名前で呼んでほしい。少なくとも、今この部屋では“王太子”でも“殿下”でもない。ただの私として、あなたと話がしたい」

 その言葉に、胸の奥がわずかに波打つ。けれど、理性がすぐにそれを押しとどめた。

「無理です」

 即答していた。

 自分でも驚くほどはっきりした声だった。

 殿下の表情がわずかに緩む。失望ではなく、むしろ少し嬉しそうに見える。

「そうか……では、今は無理にとは言わないよ」

 紅茶を一口すすると、彼は穏やかに続けた。

「なら、代わりに……あなたの名を教えてくれないか?」

 穏やかな声音の奥に、確かな興味が宿っていた。

 そのまっすぐな視線に、僕は思わず一瞬だけ目をそらす。

 この国の王太子に、名を問われるなんて、想定していなかった。

 僕は少しだけためらい、やがて静かに立ち上がった。

 そして、右手を胸に添えて、正式な礼を取る。

「お初にお目にかかります。ご挨拶が遅れ、申し訳ございません。
 私の名は、レオン・グレイスフィールドと申します。アステリア公国、グレイスフィールド辺境伯家の嫡男でございます」

 その名を聞いた瞬間、殿下の瞳が見開かれた。

「……あのグレイスフィールド、だと?」

 驚きと、ほんのわずかな敬意が混ざった声音。

 僕がうなずくと、殿下は思わず小さく息をついた。

「まさか、あの“武神の家系”の……!」

 殿下の視線が一瞬だけ鋭くなる。
 その奥に、少年のような興奮が見えた。

「騎士団長からよく聞かされていたのだ。
 “もしグレイスフィールドの血を引く者と剣を交える機会があれば、覚悟をしておけ”と」

 その言葉に、僕は思わず苦笑をこぼす。

「……おそれ多いお話です。ですが、あいにく私は、父や祖父ほど積極的には鍛えられておらず、剣は嗜む程度に過ぎません」

 僕の言葉に、エリオットは少し目を細め、楽しげに口元を緩めた。

「そうか。だが、せっかくあなたに出会えたんだ。ぜひ一度、簡単な稽古でもしてみたいものだ」

 その声音には、王太子としてではなく、一人の青年としての素直な好奇心が混ざっていた。

「一度だけなら、いいですよ」

 軽く肩をすくめて答える僕に、エリオットはほんの少し目を見開き、にっこりと笑った。

 その笑みは、稽古のことだけでなく、僕に対する純粋な興味や嬉しさも含んでいるようだった。

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